第10話 木綿のハンカチーフ

 昭和のヒット曲に「木綿もめんのハンカチーフ」がある。

 歌っていたのは太田裕美おおた ひろみ

 良家りょうけのお嬢様風アイドルだ。

 確か実家が鮨屋だったので、金持ちには違いないんだろう。


 歌っているのは彼女1人だけど、歌い手の立場が男性、女性、男性、女性と交互に入れ代わる。


 歌詞の1番は恋人を故郷に残して都会に就職する男性の立場で始まり、その男性の無事を願う女性の立場で終わる。


 2番は都会で流行はやりの指輪を贈るという男性の立場で始まり、変わることなくその男性を思い続ける女性の立場で終わる。


 3番も同じように、スーツを着た写真を送るという男性に対し、相変わらず彼を思い続ける女性の立場で終わる。


 4番は都会が楽し過ぎて帰れなくなったという男性に対し、涙をく木綿のハンカチーフが欲しいという女性の声で終わる。


 最後の、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さい、という女性の機知には感心せざるを得ない。

 歌詞はここで終わっているが、この言葉にハッとさせられた男性が故郷に戻る、もしくは彼女を迎えに行く、というハッピーエンドめいたものを多くの人が想像するだろう。


 どこかで聞いたことのある話だと思っていたら、こりゃあ伊勢物語ですな。

 第二十三段の「筒井筒つついづつ」がこのストーリだ。

 妻をおいて河内の愛人の家に通い始めた夫。

 その夫の道中を心配する妻のんだ歌に感動した夫が再び戻ってくるという物語だ。

 日本人なら誰でも感動する美しい話に違いない。

 筆者も高校生の時に古文で習った記憶がある。

 現在でも大学受験で頻出なのだとか。


 しかし、筒井筒つついづつには続きがある。

 

 妻のところに戻った男ではあったが、たまに河内の女の所に通っていた。

 が、彼女の所作は徐々に大雑把になっていく。

 興醒きょうざめした男は次第に足が遠のいた。

 それでも男に未練を残す女の歌、それが最後の締めくくりになる。


 ここからは筆者の想像だ。

 令和の現代、多くの家庭の主婦は家でのテンションが落ちてしまっている。

 スッピンで過ごすどころか、仕事から帰ってきて化粧を落とし忘れて寝てしまう事すらあるに違いない。

 それが許されるのが本妻というポジション。


 一方、愛人はスッピンが許されない。

 なぜなら男は愛人に対して「第二の妻」を求めているのではなく、いつも新鮮な「恋人」を求めているからだ。


 さて、伊勢物語が書かれた平安時代はかよこんが普通だった。

 筒井筒には描かれていないが、妻は通ってくる夫のために常に身綺麗みぎれいにしていたのではなかろうか。


 ということは、歌の才、正妻というポジション、そして努力の継続。

 いずれをとっても愛人は妻の敵ではなかったという事になる。


 愛人は愛人なりに男を想っていたのだから、筆者は彼女を非難する気にはなれない。

 ちょっとばかりアドバイスしてくれる人がいても良かったのかな、と思う。

 いずれにしても色々と考えさせられる話だ。


 これらの事を踏まえて「木綿のハンカチーフ」の歌詞の続きを書くとすればどうなるだろうか?

 伊勢物語には正妻と愛人という明確な対立軸があったが、木綿のハンカチーフにはそれがない。


 続きを作詞するのはちょっとばかり難しそうだ。

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