折れかけた翼
ZEIN
折れかけた翼
1997年 北海道
2月。雪がやんだばかりの夜だった。
街のざわめきはすっかり落ち着き、冷えきった舗道に、誰かの足音がひとつだけ残されてゆく。
電線に積もった雪が、風にさらわれては落ちてくる。
そんな静かな道の先に、赤と青のネオンサインが、深い夜のなかでぼんやりと灯っていた。
店の名は……
R66【ルート・シックスティシックス】
その灯りを見上げて、男は小さく笑った。
「……久しぶりだな」
コートの襟を立て、ドアを押す。
カラン……コローン……
「……いらっしゃい。あっ、お帰りなさい」
マスターが静かに迎える。
「ただいまです。……ちょっと、実家に家族と来てて」
男は片手で髪をかきあげ、いつものカウンター右端へ腰を下ろした。
マスターは彼の顔を見て、少し目を細める。
「W杯、見ましたよ。調子、良さそうだったのに」
「……いや、ダメでした。せっかくメンバーに選ばれたのに、転倒して骨折。ギプスは取れたけど、今シーズンはもう終了です」
苦笑しながら、男は足元に視線を落とした。
「……"長野"出たかったな。夢だったけど、もう潮時かもな」
それは、引退の二文字をにじませる言い方だった。
「何をお出ししましょう?」
「……アクアヴィット、あります? ノルウェーで飲んで、沁みたんです」
マスターは頷き、棚から1本のボトルを取り出す。
「リニエ・アクアヴィット。樽で赤道を2度越えて、香りがまろやかになる。北欧の風が運ぶ一杯です」
「……お願いします」
やがて、透明なグラスに注がれた琥珀色の液体が、カウンターに置かれる。
キャラウェイと甘い香りが、どこか温かく漂っていた。
男はひと口、グラスを傾け、目を閉じる。
「……向こうの選手が言ってたんです。“1杯目は、友のために飲む”って」
「"長野"を目指す仲間に……乾杯」
男はゆっくりと頷き、グラスを掲げた。
グラスを置いたあとは、少しだけ静かな時間が流れた。
「ノルウェーやドイツ、オーストリアの選手たちは、みんな凄かった。技術も、気持ちも、揺るぎない。でも自分は、たった一度の失敗で全て失ってしまった。やっとV字ジャンプをモノにして、みんなに追いついたと思ったのに……」
「……でも、まだ競技を辞めたわけじゃないんですよね」
「辞めてはないけど……来季の序盤で逆転なんて、現実的じゃないですよ。船木、葛西、西方、宮平、東輝、斉藤、岡部、そして原田も……あの層に、復帰後に割り込むのはさすがに難しい」
男はグラスを回しながら、言葉を探すように目を伏せた。
「2杯目、いただけますか?」
マスターは頷き、再びボトルを傾ける。
男はその音を聞きながら、ぽつりとつぶやいた。
「“2杯目は、明日のため”──その選手、そう続けたんです」
「いい言葉ですね」
マスターは、ふと問いかけた。
「では、その"明日"は.....誰のために飲みます?」
男は少し驚いた顔をしながら考え、ふっと笑った。
「あの時は、ただカッコつけてるのかと思ったけど———今、分かった気がします」
琥珀色の液体が、再び男の手に渡る。
男はそのグラスをじっと見つめながら、口を開いた。
「息子に言われたんです。まだ7歳なんですけどね。“お父さん、
その言葉に、どこか照れくさいような笑みが浮かぶ。
「でも……自分のためじゃなくてもいいなって思いました。オレが挑戦する背中を、"明日"を、あいつに見せてやりたい」
グラスを掲げ、にやりと笑う。
「やれるとこまで、やって……引退は、それからでいい。まずは、最後までリハビリをやり切って」
「その時に、また飛びたくなったら、空はいつでも上にある……やってみますよ」
マスターは静かに頷いた。
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「……また来ますね」
「お待ちしてます」
カラン……コローン……
外の空気は、刺すように冷たかった。
けれど、男の背中はまっすぐに伸びていた。
マフラーを巻き直し、空を一度、見上げる。
そのまなざしの先に、またひとつ、光が戻っていた。
リニエ・アクアヴィット──
それは、折れかけた翼をもう一度羽ばたかせる、北国の夜の酒。
夢を諦めずにいる者だけが、空を見上げることができる。
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