死にたがりの煙たち
鹽夜亮
死にたがりの煙たち
夜の繁華街、雨上がりのアスファルトは汚れに滲んでいる。軽く酔った脳を動かしながら、雑居ビルに入る。香水の匂いが横を通り過ぎる。女は男の腕を取りながら、上目遣いで何事かを媚びた様子で語っていた。古い階段を登る。スナックか、キャバクラか、他の何かか。わからない。怪しげな看板を横目に、ただ登っていく。
屋上への扉は開いていた。扉を開けて、先客がいたことに驚く。排ガスで湿気った夜風に、派手な金髪が揺れている。耳にはいくつものピアスが見える。ライダースジャケットを羽織ったその女は、静かに煙草の煙を漂わせていた。
俺も煙草に火をつける。チラリ、と女がこちらを見た。視線が交錯することはない。赤い口紅が嫌に脳裏に残った。味気ない、排気口だけの屋上に二つの煙が揺らいでいる。
「ねぇ」
女は静かに、声を発した。その声はどこか冷え切っていた。俺はただ無言で、視線を向ける。整った顔立ち、どこか幼さも感じさせるそれは、どこか心の端を傷つけた。
「あんた、死んでる」
「…唐突だね」
煙が舞う。ピアスがカチカチと音を立てながら夜風に揺れている。
「こんな街、捨てるくらい人間なんている。でも、そんな目してる人はあんまりいないから」
そう語る女の目は、黒かった。深い黒。泥の奥底に沈澱したような、派手な髪色と対照的な黒。
「俺がそうなら、君も同じようなものだろう」
「あはっ…やっぱわかるんだ」
軽い笑い声に、また心が痛む。俺より若いだろう。まだ、二〇代前半といったところか。だが確かに、女のその瞳は、死んでいる。
「あたしね、一昨年ここから飛んだの。でも死ねなかった。馬鹿みたいだと思う?」
新しい煙草に火をつけながら、女は言う。嘘ではないと思った。瞳がそれを語っていたから。死に近い人間は、どう隠そうと瞳に影を持つ。だからこそ、心が痛い。それを誤魔化すように、俺も煙草にまた火をつける。
「…別に。死にたいことなんて、いくらでもある」
「ふーん」
口先で煙草を弄びながら、女は曖昧な返答をした。
「あんたは?死のうとしたことは?」
「生きるのが辛いから煙吸ってんだろ。まぁ、腕切ったことくらいしかないよ」
「へー。…ここに来てよかった。あんた面白いや」
「そっか、ならいい」
何かに満足したのか、女は静かに煙草を燻らせた。黒に紅が垂らされたようなネイルが、ネオン街の光を反射する。何かを切るように、長いネイルは夜を揺蕩う。
少しの沈黙の後、女はフェンスに背中を預けながら、語り始めた。
「人間ってさ。なんだろうね。欲に駆られて、金払って金稼いで。ぐーるぐる廻ってさ。そんでいつ死ぬかもわかんないのに、明日なんて夢見て。今日で終わりかもしれないのに。希望なんてない。あんたやあたしみたいな人間は知ってる。絶望だってどうでもいい。でも馬鹿の一つ覚えみたいに煙草吸って、寝て、起きて、適当に遊んで、ご飯食べてまた寝る。いつ終わってもいいって言いながら、心の底じゃ今じゃないって信じてる。死のうとして死ねなかったあたしみたいなやつ、生きたいって思ってても死んだやつ、何も考えてないやつ。全部平等に同じ人間。死んでないやつは生きてる。死んだやつは死んだ。それだけ。なんかさ、よくわかんないよ」
かしゃん、と女が背を預けたフェンスから音が鳴る。彼女が少し俯いたのが煙草の煙の動きでわかった。俺は、静かに聞いていた。何も考えていなかった。女の言うことが、あまりにも自分の考えと同じだったから。答えなんてなかった。どこにもないと知っている。探し続けても、煙のように掴めやしない。
「わかんないね。たぶん君より長く生きてるけど、わかんないよ」
「じゃあさ」
女が煙草を踏み消す。黒いブーツががりがりとアスファルトの上で音を立てた。
「あんたはなんで生きてんの?」
女が真っ直ぐにこちらを見つめる。俺はその視線に応えた。真正面から瞳を見据えると、その深い黒に飲み込まれそうになる。美しい、痛々しい、写鏡のようなその瞳。だから俺は、静かに答える。
「…借りを返すためだ、生きてきた分の」
「借り、かぁ」
俺の言葉に、女は幾分考え込む仕草を見せた。こうしてしっかり見ると、女は思ったよりも背が低く、華奢だった。
「いい事思いついた。あんた、煙草何吸ってんの?」
「ハイライト」
「うわ〜きっつ〜…。あたし、マルボロ」
「大して変わらないだろ」
えへへ、と笑った女の顔は、今までで一番幼く、素直に見えた。ネイルに彩られた指が、マルボロを一本掴んで、こちらに伸ばされる。
「あげる。だから、一本ちょうだい」
「…別にいいけど。何のために?」
俺もハイライトを一本取り出して、女に手を差し出す。煙草が交換される。静かに、何か決定的に。お互い何も言わず、それに火をつけた。
「うぇ、ハイライトきっつ〜。お兄さん肺真っ黒になるよこれ」
「マルボロの赤も大差ねぇって」
煙が絡まる。雑居ビルの下、通りの方からは何やら女たちの黄色い声が聞こえる。
「あ、そう。答え、教えてあげる」
女は笑いながら、嬉しそうにそう言う。その横顔はネオン街に似合わないほど、月明かりに照らされて無垢だった。
「これで、お互い借りができたでしょ」
「……煙草一本、しかも交換の借り、か」
「あたしらみたいなやつにらには、悪くないんじゃない?」
「悪くないね」
マルボロの煙は、どこか甘い。ハイライトの副流煙が、ラムの香りを漂わせている。そこに女の香水の甘さが乗った。
だから、俺はこの夜のことを一生忘れないだろう。
そう思った。……
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