第六話:チアキ、刷毛をなくす

 午前八時五十分。チアキは今日も元気に現場へと現れた。真夏の朝の空気は、まだ少しひんやりと湿り気を帯びている。両手には使い込んだ工具箱と水筒、首には汗を吸ったタオルがしっかりと巻かれ、そして腰のポーチは刷毛とスコップとスケールでパンパンだ。出陣準備は万端――の、はずだった。

「よーし、今日は『微調整係』!  発掘面の美しさはチアキにお任せあれっ!」

 意気揚々とトレンチの縁にしゃがみ込み、腰のポーチから愛用の刷毛を取り出す。その毛先が、朝日に照らされてわずかにきらめいた。昨日までの雨で、土の色味が微妙に変わっているのが、一目で見て取れる。チアキは、慎重に、でも心の中ではわくわくしながら、遺構の表面を掃き始めた。刷毛の毛が土の粒を撫でる、サッサッという微かな音が響く。

(ちょっと濃い茶色……もしかして焼け跡? いやいやまだ分からない。先生に見てもらわなくちゃ)

 集中が高まっていく。土の匂いが一層強く感じられ、微細な土の感触が指先に伝わる。だがその時。

「……あれ? あれ?」

 チアキが手を止めて、慌てて腰のポーチを探り始めた。指が空を切る。さっきまで確かにあったはずの感触がない。首を傾げながら、スコップの下や作業手袋の隙間を覗き込む。胸の奥に、ヒヤリとした焦りが広がる。

「……刷毛が、ない……!? えっ、さっきまで使ってたのに!?」

 背中に、じっとりと冷や汗が滲む。大パニックである。脳内で警報が鳴り響く。

「すみませーん! どなたか、刷毛、見ませんでしたか!? ピンクのグリップで、毛先がちょっと曲がってて……!」

 チアキの焦った声が、乾いた現場の空気に響き渡る。周囲の作業員が、ざわっと顔を上げて視線を向けてくる。皆一様に「さっきは持ってたよね?」と首をかしげるだけだ。チアキはバットの中や足元、周囲のバケツまで、視線で追いかけるように調べまくった。焦燥感が全身を駆け巡る。

 そこへ、背後からズシッという足音もなく、須藤がいつの間にかやってくる。彼の顔にはいつもの無表情が貼り付いている。

「刷毛、落としたか?」

 須藤の低く落ち着いた声が、チアキの耳に響く。

「たぶん……っていうか、埋めたかもです……」

 言いながら、チアキは自分の失態に絶望する。沈黙のあと、須藤は短く言った。

「よくある」

 その言葉は、まるで石でも転がすように淡々としていた。

「えっ、あるんですか!?」

 チアキは思わず顔を上げた。

「ある。スケール、メジャー、ペン、コンベックス、眼鏡、鍵。刷毛はベスト3だな」

 淡々と語る須藤の横から、サキがひょいと手を差し出してくる。その手には、うっすら土のついたチアキの刷毛が握られている。

「これでしょ?」

 サキは、土にまみれたピンクの刷毛を軽く指で払った。毛先から、まだ乾ききらない湿った土が、ぽろぽろと落ちた。差し出された刷毛が、朝日に鈍く光って見えた。

「あっ、それですぅぅぅ!! どこに!?」

 チアキの声が裏返る。サキは、まるで子猫を見つけるように笑いながら言った。

「さっきチアキが掃いてたところ。自分で置いて、踏んづけて、埋めてたよ」

 チアキは、まるで糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。土の感触が、頰にひんやりと伝わる。

「うわーん! チアキ、またやらかしました……! チアキ、反省!」

 サキはクスクスと笑う。

「だいじょうぶ、私も昔、三本くらい埋めたから」

 須藤が少しだけ口角を上げて、チアキを見下ろす。彼の視線は厳しくも、どこか諦めを含んでいた。

「刷毛も道具だ。手入れも保管も、丁寧に扱え。埋めたら情報も消える。それは、未来に伝わらないということだ」

 そう言って、ポケットから真新しい刷毛を一本、カサリと音を立てて取り出した。刷毛の毛は、まだ新品特有の硬さを持っている。

「もしまた埋めたら、これ使え。……『反省用』だ」

 チアキは両手で刷毛を受け取り、その新品の感触を確かめるように握りしめ、深く頭を下げた。

「はいっ! チアキ、刷毛、二度と埋めませんっ!!」

 強い決意の声が、朝の現場に響く。

 だがその午後。

「……あれ、反省用、どこに置いたっけ……まさか、また……」

(あれ、もしかして……チアキ、学習してない!?)

 トレンチの縁で、またもやうろうろと刷毛を探すチアキの姿があった――。



【須藤フィールドノート】

202X年○月○日 発掘現場 第4トレンチ南区画

観察記録:学生補助員(チアキ)の行動より

◆事象:刷毛の紛失と発見

午前8時50分頃、学生補助員・チアキが発掘面の清掃を開始。その約15分後、「刷毛が見当たらない」と報告。該当個体は中サイズの豚毛刷毛、ピンクのグリップ。前日の整理時、工具箱に格納済みであることを確認済み。

探査の結果、当該刷毛は本人が清掃作業を行っていた遺構(焼け土)の表層より発見された。本人が刷毛を置いた後、無意識に足で踏みつけ、土に埋没させたものと推定する。

この事象は、作業日誌に「備考」として記載済み。現場での紛失・誤埋没が、遺構・遺物の攪乱に繋がる可能性を記録した。

◆評価と所感

刷毛は、土層や痕跡と対話し、微細な情報を引き出すための最前線の器具である。その所在を常に意識し、管理を徹底することは、発掘の信頼性と精度を維持する上で不可欠である。今回の件は、単なる道具の紛失に留まらず、足元の安全確認の不徹底と、道具への意識の欠如が複合的に引き起こした事象であると評価する。

特に、作業中に道具を踏みつける行為は、遺構の破壊や遺物の損傷、ひいては作業員の転倒など、安全管理上のリスクにも繋がりかねない。

◆指導対応

本人には、刷毛が「『記録の一部』である」という点を明確に伝えた。また、安全管理の観点からも道具の置き場所に注意を促した。その後、「反省用」と称し、新しい刷毛を貸与。この行為に「今回の失敗を次の作業に活かせ」という意思を込めた。本人はやや感動した様子で「名前つけます!」と返していた。

『反省』は、単なる叱責ではない。学びの兆しが見えた時点で、その芽を潰してはならない。

◆備考

今回の事例を踏まえ、後日、「道具管理と現場整理、および安全管理」についてのミニ講習を設けるべきかもしれない。初心者にとって、「見える範囲に道具を置く」という意識の獲得や、足元の安全確認の徹底には、想像以上に時間を要するケースが多い。

◆結語

刷毛ひとつで、土層を傷つけることもある。

刷毛ひとつで、学生は成長することもある。


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