第11話:繋がれた手のひらの温度

 相沢が雑踏の中へと消え去った後も、俺たちはその場から一歩も動けずにいた。


 行き交う人々の喧騒が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。俺の腕の中では、舘山寺詩が、まだ小刻みに震えていた。彼女の体温が、シャツ越しにじかに伝わってくる。それは、恐怖に冷え切って、あまりにも頼りない温度だった。


 俺は、彼女を危険な目に合わせたことへの自己嫌悪と、相沢という男への煮えくり返るような怒りで、奥歯を強く噛み締めた。自分の不甲斐なさに、吐き気がする。


「……場所を変えるぞ」


 俺は、なんとかそれだけを口にし、まだ混乱の中にいる詩の手を引いた。彼女は、されるがままに、おぼつかない足取りで俺の後をついてくる。人混みを抜け、駅前の喧騒から少し離れた、新川のほとりにある小さな公園のベンチに、俺たちは並んで腰を下ろした。


 街灯が、夜の訪れを告げる川面をぼんやりと照らしている。俺は、近くの自動販売機で買った温かい緑茶のペットボトルを二本、彼女の震える両手にそっと握らせた。


「……あ、りがとう」


 掠れた声で、彼女が言う。その手のひらの温かさに、少しだけ強張っていた彼女の体の力が抜けていくのが分かった。


 しばらく、ただ黙っていた。言葉が見つからなかった。

 何を話せばいい?

 さっきの現象は?

 俺が見た悪夢は?

 彼女が見た、俺の痛みは?

 …問いかけるのが、怖かった。


 沈黙を破ったのは、詩の方だった。


「……さっきの、何だったのかな?」


 おそるおそる、と彼女は続けた。


「佐久間くんが、すごく苦しそうで……。知らない景色が、たくさん、頭の中に入ってきたの。暗いホールと……ピアノの音と……誰かの、悲しい声が……」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。やはり、彼女にも見えていたのだ。俺の、俺自身でさえ封印したはずの、過去の残骸が。

 俺は、自分の手のひらを見つめながら、ぽつり、と答えた。


「……俺もだ。お前の記憶が、流れ込んできた」


「え……?」


「屋上で食べた卵焼きの味。潮風の中でフルートを吹いてる時の、お前の気持ち。温かくて……眩しい記憶が、俺の中に。……正直、あれがなきゃ、俺は……!」


 初めて、俺は自分の弱さを、誰かの前で素直に認めた。虚勢を張る余裕なんて、とうになくなっていた。


「俺たちの記憶が、一時的に同期したのかもしれない。……いや、そんな単純なもんじゃないな」


 相沢は、奴は、あの現象を『記憶の共鳴』と、呼んでいた。

 俺と彼女の間だけで起こる、特別で、そして、あまりにも危険な奇跡。


「そっか……」


 詩は、自分の手のひらで、温かいペットボトルをきゅっと握りしめた。


「じゃあ、私、佐久間くんのこと、少しだけ、助けられたのかな」


「……ああ」


「……よかった」


 彼女は、そう言って、ふわりと微笑んだ。自分の身に起きた恐怖よりも、俺を助けられたことを喜ぶ、その笑顔。俺は、その純粋さに、胸を強く締め付けられた。


 もう、帰らなければならない時間だった。

 俺は「家まで送る」と短く告げ、立ち上がった。詩は、黙ってこくりと頷いた。

 俺は、ごく自然に、彼女の右手を掴んだ。彼女は驚いたように少しだけ指を震わせたが、やがて、その小さな手で、俺の手をそっと握り返した。


 俺たちは、手を繋いだまま、夜の住宅街を歩いた。

 会話は、ほとんどなかった。

 街灯が、俺たちの影を長く、長く、アスファルトに映し出す。繋がれた手のひらの、確かな温度だけが、二人の間に存在する全ての言葉の代わりだった。それは、俺が今まで感じたどんな温もりよりも、温かかった。


 詩の家の近くの、いつもの曲がり角。別れの場所。

 俺たちが足を止めると、彼女が先に口を開いた。


「今日は、本当にありがとう。怖かったけど……でも、佐久間くんが、私の前に立ってくれた時、すごく、安心したんだ」


「……」


「守ってくれて、ありがとう」


 心からの感謝の言葉。俺は、照れを隠すように顔を逸らしながら、しかし、今度こそ、一番伝えたかった言葉を口にした。


「……二度と、あんな顔させない」


 俺は、彼女の瞳をまっすぐに見つめて言った。


「お前の記憶は、楽しいことも、辛いことも、全部まとめて、俺が守る。……約束だ」


 その言葉に、詩の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。

 でも、彼女は泣かなかった。涙をこらえ、最高の笑顔で、俺の言葉に応えてくれた。


「うん。……私も、佐久間くんの隣にいる。どんな時も。約束、だよ」


 その笑顔を、その言葉を、俺は一生忘れないだろうと思った。


 一人になった帰り道。俺は、繋いでいた右の手のひらを見つめた。まだ、彼女の温もりが残っている気がした。

 同時に、相沢が見せた悪夢の断片が、脳裏に蘇る。


 暗いホール。鳴り止まない拍手。ピアノ。そして、悲鳴。

 あれは、俺が自ら封印したはずの、母親の事故の記憶と酷似していた。


(相沢は、なぜ俺の記憶を知っている? そして、詩との『共鳴』……)


 全ての答えは、俺が捨てたはずの、あの過去の中にある。

 もう、逃げることはできない。

 詩を守るためにも、俺は、俺自身の謎と向き合わなければならない。


 彼女と手を繋いだあの瞬間から、俺の本当の戦いは、始まってしまったのだ。

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