箱舟の沈むとき
星川わたる
1.これまでの歩み
この船は遥か昔に、地球という名の星を出発した。
第3号船団――それがぼくたちが暮らす宇宙移民船団の名前だ。3号というのだから、少なくとも他に1号と2号はあるのだろう。しかし今となっては、それを確かめる手段はぼくたちにはない。
第3号船団は、地球に似た惑星を有するという恒星――船団出発前に恒星「ウィステリア」と名付けられた――へ向かって宇宙空間を進んでいる。船団を構成する宇宙船は3隻。各船の定員は3万人。船団全体で9万人の人間が暮らしている。
船は円筒形で、回転により遠心重力を生み出す。付近に大した光源はないため、人々を照らす光は全て電気から生み出されている。エネルギーの源は地球で積み込んだという2基の動力炉だ。
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今年、この第3号船団は紀元500年の節目を迎えた。出発してからちょうど500年ということだ。
別にそんなことは嬉しくないし、実際喜ぶ人はほとんどいない。紀元500年祭などと大々的なイベントは行われているが、みんなの顔にはだいぶ無理な笑顔が張り付いている。
当然だ。紀元500年ということはつまり、この宇宙船が建造されてから500年経ったということ。ぼくたちが命を預けるこの船は、あちこちが老朽化して悲鳴をあげている。
地球で建造された頃は恒星ウィステリアまで船体はもつとされていたそうだが、今の状態をみるに本当にそうかは疑わしい。まだ300年はこのまま宇宙飛行を続けるそうだが、すでに年を追うごとに故障が頻発しており、作動しなくなる機械が増えている。
つい1ヵ月前には2号船の一部区画で停電が生じ、数日経っても復旧しなかったため住民の避難が行われた。停電した区画では空調が停止し、酸素濃度の管理や温度調節などができなくなるためだ。この停電は、3週間経ってようやく復旧された。
ぼくが暮らしているのは1号船。直接の影響はなかったが、2号船とは構造も建造時期も同じだから、いつ同じ事態が発生してもおかしくはない。このことは1号船のみなにも恐怖と小さな絶望感を与えた。いつか致命的な故障が起きて、この小さな世界が終わりを迎えるのではないか、と。
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ぼくの役割は環境制御システムのオペレーター。この船のブリッジ要員としてその片隅で働いている。貰える給料は多い。「必要とされている人間」だからだ。
この船は船体以外にも綻びが生じている。単純な話で、人間が足りないのだ。
1隻につき3万人――地球ではそれで十分と判断されたらしいが、実際には無理があったのだ。
人材というのは望み通りに得られるものではない。ぼくは社会の期待に応えられて環境制御システムのオペレーターになったが、誰もがそうやって期待通りの人間になれるわけではない。どの分野の成績も伸びず、この専門性の高い宇宙船の中でまともな職に就けないでいる人間は多くいる。
精神を病む人間も少なからずいる。崩壊しかかった社会でのストレスが大きいというし、また船内の照明は元々人類が暮らしていた地球より少し暗いらしい。船内照明も昔は明るかったそうだが、老朽化のため徐々に暗くなっているという。そういうものが人の精神を蝕んでいる。
こうした働けない人間は船にとって負担になる。船の運用に何ら貢献しないまま生き、船内の限られたエネルギーや空気、それに医療機関のリソースをただ消費するだけだからだ。そして、そういう人たちとそうでない人たちの間でよくいさかいが起こる。
彼らを殺して船のリソース圧迫を解消すべきという論調が多くの人たちから支持されている。でも、それはできない。もしそれをやって、「船の運用に貢献しなければ殺される」という恐怖がみなの頭を覆ったら、今よりずっと状況が悪くなるのは明白だ。ぼくだって安心してはいられない。今日はまだ大丈夫でも、1年後、2年後も元気に働けていると断言はできないのだから。精神を病んだり、大きな怪我をしたりして働けなくなる者は必ず出る。
様々な理由で生じた「役に立たない人間」は、船内の片隅でただ生きているだけの存在となり、周囲からの非難と憎悪の対象となっている。憎む側も憎まれる側も、みな気が立っている。
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昔はあまり先を考えず、人員を確保するため多産が奨励されたそうだ。そしてその結果、紀元200年頃には人口が4万人を超えて船の能力を超えかけた。その時になってあわてて出生数に制限をかけ人口抑制に努めたところ、今度は人口が減りすぎ、高齢者の人数に対して現役世代の人数が足りなくなり社会が破綻しかけたという。
少子高齢化の危機はなんとか乗り越えたが、船内には深刻なダメージが残った。減り過ぎた人口の中からこの船を運用できる人材を確保しようと、学問に制限をかけたのだ。
当然、理系分野に資金がつぎ込まれた。各種システムのオペレーター、機械類の整備士、各船を結ぶ宇宙艇の乗員や管制官。それから医師と看護師。あとは次世代の人間を育てるための教師。これらは絶対に必要とされた。実際、今だってそれらは必要とされている。
それに対して、例えば国語学者などは当面不要とされ学問自体が一時停止された。反対の声は多くあったそうだが、それでも人間が足りなかったから仕方なかったという。
その代償は大きかった。ぼくが学生だった頃、授業で使われていた国語辞典は300年前のものだった。一度中断された国語学はその後再開しようにも既に学者がほとんど残っておらず、再開できなかった。国語辞典を作る人はいなくなり、ぼくたちは今の言葉とは違う300年前の辞書をまだ使っている。今は論文を書こうにも正確な辞書がなくみな不自由している。
一時停止した学問は軒並みこのような状態となり、船内の社会は崩壊しかかっている。今も3万人の中から「必要とされている人間」を生み出すのに四苦八苦し、一部の職業はまだ禁止されたままだ。とりあえずみな生きてはいられるが、大した楽しみもなくただ生かされているだけだ。小説も漫画もアニメもドラマも、今は作られていない。地球で積んだ作品と大昔にこの船団で作られたものを繰り返し見る以外にない。
そんなこの船に暮らしていてみなが目指すものはひとつ――死ぬことだ。
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この船団はあと300年は宇宙飛行を続ける。すると人の寿命からいって、今この船で生きている人間の中で、船を降りて星の地面を踏みしめられる者は誰もいないのだ。だから、自分が生きている間は船に何事もないまま過ごしたい。何事もないまま、さっさと寿命を迎え結末を見ずに死ぬ――それがいい。
それがよかったが――
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「非常ブレーキ作動、緩解しません!」
まだ生きているうちに、その事態は起きた。
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