第27話 ルーシェ

 顔を引きつらせた騎士と、数え切れないほどすれ違った。ある者は前も見ずにただがむしゃらに、またある者は何度も何度も後ろを振り返りながら。共通するのは、身も世もなく口から恐怖をあふれさせ、半狂乱の態で転がるようにして走っていくことだ。実際最後にすれ違った騎士は、なだらかな斜面を半ば転がりながら降りてきた。


 彼らは逆走する少年たちの存在になど気づきもしなかった。背後から迫ってくる恐怖から、ただ闇雲に遠ざかろうといていた。普段の不敵さや荒々しさ、そして頼もしさなど見当たらない、惨めな敗走だった。


 彼らの行動が、道中で聞いた咆哮に起因するのは間違いない。遠雷にも似た咆哮を思いだしただけで、ディンの全身に震えが走った。


 びりびりと振動する空気は、帯電しているかのように肌に突き刺さる刺激を感じた。皮膚があわ立って、体が竦んだ。あれを間近で聞いたのならば、気持ちが折れてしまうのもわからなくない。そう思えるだけの大音声が、遠く離れていたディンのもとまでも轟いた。


 苦労して鞍をつけた馬は、ディンとアレクを振り落として一目散に逃げていった。もともと馬でガリエラまで行き着けるとは思っていない。騎士たちが騎馬でなく徒歩でガリエラに向かったのは、魔物の強大な気に馬がおびえ、目的地まで行き着けないからだ。


 何かよくないことが起こったのだ。馬を失ってからはただひたすら、横なぐり雨の中を目的地に向けて走り続けたディンは、その何かをガリエラに到着するまでもなく知った。


 息も絶え絶えに後ろをついてくるアレクより、ディンは、一足先になだらかな斜面を登りきった。そして眼下の光景に驚愕し、打ちのめされた。


 耳に届く重い地響き。足元がかすかに揺れている気がしたが、振動は気のせいだったかもしれない。そう錯覚してもおかしくないだけの巨躯が目の前にあった。森で見たものとも、エスタークで戦った魔物ともまるで比べ物にならない。総本山の三階建ての聖堂が動き出したかのような異様な巨体だった。


 気がつくと、口からうめきがもれていた。魔物が自由に動きまわっている。縛鎖が切れたのだ。


 その巨躯を、風が空を切る音が立て続けに襲った。呑まれて立ち竦んでいたディンは、自失から覚めると音のするほうへと目を向ける。ちょうどディンからは、魔物の影になる位置で、雨というにはお粗末な数の矢が魔物に向かって注がれた。


「姉ちゃん!」


 ディンから少し遅れて起伏の上に立ったアレクが、悲鳴のような声をあげた。そのままディンを追い越し一人走り出す。慌ててあと追いかけようとしたディンは、脇を駆け抜けた薄桃色の疾風に目を瞠った。


「……ブリリアント!」


 仔ブタはディンに目もくれず、その短い足から思いもかけない疾風怒濤の勢いで突き進んでいく。出遅れたディンは苦労して、相変わらずの走りっぷりの仔ブタの横に並んだ。


「ルーシェはどうした? 一緒だったんじゃなかったのか!」


 ブリリアントは併走するディンを見上げ見つめると、示すように進行方向に目を戻した。


「魔物のところへ行ったのか? どうして!? あそこには今騎士がいるんだぞ」


「ぷぎぶひぶひひぷぎぴぎ! ぴぎぶひひひひぷぎぶひぶひひぴぎぷぎぶひひぷぎ」


 相変わらず意味は通じない。だが焦燥感は伝わる。ブリリアントはいい捨てると、なだらかな坂を下る足を速めた。背を追いながら魔物の巨体に目を戻したディンは、眉根を寄せる。ルーシェの意図がつかめない。短いつきあいだし、もともと精神的に不安定なところがあるのも知っているが、それでもここ数日のルーシェの様子は尋常ではない。


 矢の間隙を縫い、巨石が宙を舞う。魔物はぶつかってくるものから顔を背けると、太い尻尾をぶるんと振るった。矢や石がたいした痛手になっているようには見えなかったが、少なくともうっとうしくはあるらしい。尻尾がなめるように地をなぎ払う。


 だがそのときにはすでに騎士たちはその場にはいなかった。素早く魔物の死角にまわりこむと、再び鋭く矢を射かける。向かってくる矢を前足で払うと、魔物はその足を人間どもに憎憎しい仕草で突き下ろした。


 ガリエラの魔物の巨大さは別格だったが、その分小回りに欠けた。素早く動きまわっては矢を射かけ、何台も配してある投石機で岩を投擲する。大型の魔物に対するときの定石だ。だがいくらなんでも相手が破格過ぎる。時間とともに騎士たちの不利は明らかになるだろう。いくら素早逃げまわっているとはいえ、あれだけの並外れた巨体である。なぎ払うにしても踏み潰すにしても、その範囲は広大だ。攻撃範囲から逃げ出すだけでも並みの苦労ではない。いずれ先に力尽きるのがどちらかかは一目瞭然だった。


 どこからが村なのか、初めて訪れたディンにはさっぱりだ。農地も家も無残に踏み荒らされ、巨大な足跡が残っている。所々大きく陥没し、ひび割れのできた地面を、雨が余計に足場を悪くしている。そこをアレクが危なっかしげに、ブリリアントは危なげなく駆けていく。ディンは一人と一匹について走りながらも、素早く周囲に目を走らせた。少なくとも見える範囲にルーシェの姿はない。


「放せッ……姉ちゃん!」


 不意にもどかしげにアレクが叫んだ。慌てて視線を戻したディンは、ほっと息をつく。


「ディン!」


 鋭く名を呼ばれ、振り返って相手を認めたディンは速度を落とした。向こうも、ディンたちに気づいていたらしい。魔物のもとまでまっすぐ駆けつけようとしていた少年は、仲間たちから離れて駆け寄ってきたガドフリーに捕まっている。ディンは同じく走り寄ってきたレオノラへと進路を変えた。


「レオ! 縛鎖が切れたのか!?」


「何をしにきた!」


 魔物相手に重装備は効果がない。だから騎士たちの装備は早さを重視して身軽だ。中でもとくに軽装のレオノラは兜さえかぶっていない。彼女は邂逅一番頭から怒鳴りつけた。鉄火な彼女らしい反応だ。ディンはひるまずなかった。じっとレオノラを見あげる。


「アレクに話を聞いた」


「だから何だ!?」


 表情の変化を見守ったが、レオノラは顔色はおろか、眉一つ動かさなかった。


「父さんが残した手記にも、同じことが書いてあった」


 今度は反応があった。むき出しの髪をかきむしり、いら立ちを含んだ息を大きくついた。


「だからガリエラへ来たのか。どこにあった?」


「書斎の本棚の裏側だ。レオが隠したのか、あれは」


「違う。私も探してたんだ。総本山には滅多に帰れないから、探す時間もなかなか取れなかったけれどな。あれはジイさまが隠したんだ。本当は捨てたかったんだろうが」


「やっぱりジイさまは知ってたんだな。レオも、ガドじいも。祈祷石がどれだけ危険なものか!」


「義兄さんがそう考えていたことを――だ。確証があったわけじゃない」


「じゃあどうして!? どうして真偽をただそうとしなかったんだ!」


「そう思うのなら……」


 降ってきた冷ややかな声に、ディンは眉根を寄せた。


「ディン、おまえはここにアレクを連れてくるべきじゃなかった」


 感情豊かで、いつも笑ったり怒ったりと忙しいレオノラの顔から、こんなふうに表情が抜け落ちたのを見るのははじめてだった。


「それに、ジイさまの気持ちがわからなくはなかった」


「ジイさまの……?」


 問いただそうとしたがそれは適わなかった。


 魔物が吠えた。方向がビリビリと空気を震わせる。体が竦んだ。


「やめろ! やめてくれ姉ちゃん!!」


 ガドフリーに押さえこまれ、もがきながら魔物を見あげたアレクが、もどかしく叫ぶ。

「もとに戻ってくれよ!」


 悲痛な叫びはだが風に散った。魔物の内側にわずかばかりも響きはしないようだった。荒ぶる獣は太く長い尻尾で薙ぎ払い、力強い前足を振り下ろし、騎士を蹴散らす。


 その魔物の、荒々しい気配が不意に消えた。魔物がおびえた仕草で、辺りを見まわす。


 ディンは不安に鼓動が早くなるのを感じる。同じ状況をディンは知っていた。魔物がそんなふうにおびえた仕草を見せる状況を。


「……ピギッ!」


 鋭い声に振り返ったディンは、仔ブタの視線を追った。魔物の顔の前に、風雨を受けて吹き飛ばされそうな細身の姿態があった。大きく鼓動が跳ねる。


 空に浮かぶ華奢な娘が、魔物と対峙していた。娘は泰然とたたずみ、向かいあう魔物は落ち着きをなくし、じりじりと後退る。その場にいる者たちは誰もが、見あげたひとりと一匹が向かいあう光景に呑まれていた。おびえる魔物など誰も見たことがないのだ。


「なんだあれは……?」


 レオノラが呆然と呟く声を聞きながら、ディンは前に進み出る。


「ルーシェ……ダメだ!」


 がさがさに渇いたのどから押し出された声は、ひどく掠れていた。でもそれがディンの体に活力を戻した。


「彼女を殺すな! ルーシェ!!」


 ひとりと一匹に向かって駆け出しながら、声を張りあげる。


「待て、ディン!」


 後ろでレオノラの制止の声がしたが、構わずルーシェのもとへと向かう。だがいくらも進まぬうちにディンは立ちとまった。


 振り返ったルーシェの目が、ディンを捉えた。その眼差しに、背筋が寒くなった。皮膚が粟立つ。初めて魔物と対峙したときのような恐怖が全身を襲った。


 しかし、森で魔物を前にしたときでも、今ほどの恐怖を覚えはしなかった。圧倒的な力の前に恐怖を覚えはした。だがこんな、心胆寒からしめるような恐怖ではなかった。


 ディンは拳を握りしめた。ルーシェの視線の前から逃げだそうと、震える体が忌々しい。


 魔物がアレクを助けたというの彼の話が本当なら、もしかしたら荒ぶる獣の内側に、食われた人間の心を持っているのかもしれない。だとしたら元に戻れる可能性だってあるかもしれないのだ。


「ルーシェ、その魔物を殺さないでくれ」


 震えを表に出さないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。ルーシェは天高くからディンを睥睨していたが、ふいと魔物に視線を戻した。そして手を振りあげる。


「ダメだ……殺すな! ルーシェ!!」


 ディンの叫びと、ルーシェが手を振りおろすのはほぼ同時だった。ルーシェの手の動きのにあわせて、伸びた光輝が魔物をなぐ。肩から脇へとかけて走った光の刃に、誰もが声を失う。森の時とは比べものにならないほどの衝撃と地響きを立て、魔物の巨体が倒れる。


「姉……ちゃん?」


 巨体が倒れたときに巻きあげた土砂が収まった頃、アレクが進み出た。まろびながら魔物に駆け寄るアレクが、鱗に守られた体にふれようと瞬間、ふわりと輪郭が光にとけた。


 アレクののどが、引きつったような音を立てた。


「……姉ちゃぁぁぁあん!!」


 ただ呆然と突っ立ったまま、誰もがその光景をまばたきするのも忘れて見つめていた。

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