第9話 祈祷石
長く細い息をつく。組んでいた指をほどくと、ディンは手を何度か握ったり開いたりしてみる。祈るとき、手の中に祈祷石を握りこまないのは変な感じだった。物心がついたときには、もう祈るときは自然に握っていたからだ。
ディンは胸のあわせから、体温を移した淡く紫色した玻璃玉を引っ張りだした。親指の第一関節大くらいの結晶に、首にかけたままで握りこみやすいよう、首飾りにしては長めのひもがついている。
祈祷石という、礼拝のときに手の中に握りこむ石だ。紫煌石しこうせきそのものに触れて祈るのが一番よいのだろうが、できない代わりに紫煌石しこうせきを模したこの色のついた玻璃を用いるのである。ディンが祈祷のときに石を用いなくなったのは、疑念からだ。
ディンには、この祈祷石こそが、すべての元凶ではないかという気がするのだ。
熊の魔物が倒れていた後に残っていた石の破片。魔物が倒れた後には必ず、あれが落ちている。あの破片は、祈祷石が砕けたものではないのだろうか。
大きさがあるから紫に見える祈祷石だが、その色は本当に淡く、小さな破片になってしまえばたぶん無色透明に見えるだろう。量的にも、ちょうど祈祷石が砕けたくらいの量だ。
もちろん、魔物が祈祷石などを持っているはずもない。人びとには無料で提供しているが、それがいつも魔物が倒れた後に砕けて落ちているのは、やはりなにかの意味があるのだと思える。
疑念は、今はまだ誰にも話していない。人に話すには多くの確証がいるからだ。そうでなければ祖父にまた、子どものくせにといわれるのが関の山だろう。溜息をつくと祈祷石を服の中にしまい直し、誰もいない堂でひとり膝をついて祈りを捧げていたディンは立ちあがった。
どこの神殿の聖堂も、規模の大小はそれぞれとはいえ、基本的な構造は同じだ。石造りの堂の最奥に、胸に紫煌石を模した紫色の結晶を抱くのは始祖セシリアの像だ。その前には燭台や捧げ物が奉られる祭壇が設けられている。しかし基本が同じでも、ディンがよく知る総本山の聖堂と、ここエスタークのそれとでは、大きく印象が異なった。
総本山の聖堂はもっと大規模で、荘厳だ。大理石の床と壁。高い天井を支える太い列柱群。堂内に置かれた金銀宝玉でできた聖具。天井や壁には、教祖が紫煌石と出会い神の声を聞いたときの様子、中興の祖である大聖人ジャスティンが魔物に怯える人びとを導く様子、騎士たちが剣を持ち魔物に挑む姿などを描いた壁画や色玻璃が配される。それらを多くの蝋燭が揺らめきあい、響きあいして照らしだしていた。
対しエスタークの聖堂の何よりもの装飾は、色玻璃の窓から通して投げかけられる光だろう。教祖セシリアを描いた色玻璃を組んだ窓は、総本山のものと比べればお粗末なできだ。しかし剥きだしの石壁に色のついた光が映え、他にはなにもないぶんかえって幻想的だった。
神殿の規模による差異なのだろう。つねづね装飾過多をわずらわしく感じていたディンは、司祭の人柄が偲ばれる、清潔で質素なここのほうが好ましかった。
窓から射しこむ色のついた光が、長い影を落としている。かげりつつある日に、セシリアの像に一礼すると堂の出口へと向かった。
扉を出ると短い階段の向こうに、花壇で縁取られた小道がまっすぐ伸びる。突き当たりには木材でできた門と、門に連なる低い柵とが、神殿と、それを中心につくられた集落、その周りに広がる青々とした耕地とを隔てていた。
ディンは柵の向こうへと目をやる。だがそこに求める姿を見つけられず、すぐに扉の脇へと目を向けた。
視線の先には仔ブタが、前足を揃えて座りこんでいた。またたきもせず神殿の門の向こう側を見つめる姿は、彫像かなにかになってしまったように、ディンが拝殿にこもる前と変化がない。まるで目を離すことを、おそれているかのようだった。
「ルーシェは……まだか」
足元のブリリアントに問うでもなく声をかけ、ディンは仔ブタと同じに門の向こうを見つめる。しかし柵の向こうに待ち人は、現れる気配さえない。
狼の案内で森を抜けた場所は、本来の道よりもかなり東よりだった。いっそ次の村のほうが近いぐらいだ。少し戻ることになってもここエスタークに寄ることになったのは、用事があるとルーシェが言いだしたからだ。一刻も早く、ドレイクたちを迎えにいって欲しいディンにも、現場に近いこの村に寄ることに異存はなかった。
地に足をおろした途端、ルーシェの姿は変化した。素足だった足には靴を履き、目の色は平凡な青みがかった灰に、服装も村娘たちとかわらない格好だ。そのルーシェとは村に入ったところで別れたきりだ。ひとり去る背中に神殿で待っていると声をかけたが、現れる気配はない。離れて行動することなど今まではなかったのか、置いていかれたブリリアントは犬のような忠実さでルーシェを待ちわびていた。
厳しい眼差しを見せる横顔の隣に座りこんで、ディンは小さな頭をなでる。いぶかしく振り返った顔に、笑ってひとつ頷いてみせた。
「大丈夫。今に帰ってくる」
待っているのがディンだけなら、ふらっといなくなることはいかにもありそうだ。だが、大切な娘なんだと、大事そうに語ったブリリアントを置いて消えるなんてことは、いくら気まぐれなルーシェでもさすがにないだろう。
だが安心するどころか、顔をしかめてなにごとかを言い募る。しかし残念ながら、通訳を介在させず、ディンにブリリアントの言葉は理解できない。仔ブタのほうもすぐに意志の疎通が適わないことに考えが至ったのか、忌々しげに舌打ちすると、つんと顎を逸らした。
明らかにディンの無能を責めているようである。仔ブタのほうは人間の言葉を解しているようだから、反論しようがない。ディンは頭をかいてまた敷地の外へと目を向けた。
高い建物もなく見通しのきくの景色に、ディンは華奢な姿を探す。一体どこにいったのだろう。用事があるといっていたが、村に知人でもいるのだろうか。考えを巡らせたところで、知りあって間もない、ましてや魔物の事情など、察そうにも想像もつかなかった。
いくら目を凝らしたところで、皆農作業にでているのか里人の姿でさえまばらだ。それでも、今にも歩いてくるルーシェの姿を求めてしまう視界を、ふと人影がさえぎった。
聖堂の裏手には、先刻老司祭と会っていた僧房がある。門に続く小道には、僧房へと至る脇道があり、そこからふらりと現れたのは、妙齢の女性だった。
とっさにディンは腰を浮かした。現れた女性がなにかにつまづいたのだ。よろめいただけでなんとか持ち直した彼女に、息をついて腰を戻した。
神殿のお仕着せではないところを見ると、神官ではなく村の者だろう。彼女の背を目で追いながら、ディンは眉間にシワを寄せた。足取りが普通ではない。ふらふらしていて、歩く速度も一定しない。様子がおかしいのは明白だった。
女の背を目で追いながら、とっさに腰を浮かしかけては戻すことを繰り返していたディンは、彼女の手から光るものがこぼれ落ちたのに気づき、とっさに駆け寄った。
ディンは落ちたものを拾いあげ、複雑な気分で見つめる。祈祷石だった。彼女のものなのだから、持ち主に返すのが当然だ。だが果たして、返すことが彼女のためになるのか。
逡巡していたディンは、ふっと息を吐いた。所詮すべてはディンの憶測にすぎない。一度ぎゅっと祈祷石を手の中に握りこむと、ディンは意識を切りかえて彼女を追いかける。
声をかけてのろのろと振り返った彼女の様子に、ディンは眉をひそめた。二〇代前半くらいとおぼしき女性だが、ずいぶん老けて見えた。顔色がひどく悪い。頬がこけ、目が落ち窪み、周りにはくまが黒々と浮きでている。血色の悪い顔は、とても外出できる体調には見えない。生気のない様子に躊躇しつつも、ディンは手を差しだした。
差しだした手を見、そしてディンを見る彼女の目は、焦点があっていなかった。
「大丈夫……か?」
ぼんやりと虚ろな表情の彼女が心配で、案じる言葉を口にのせたディンは、けれど気づかおうとしたことをすぐに後悔した。かけた声に、彼女の焦点がゆっくりとあった。ディンを認識して、彼女は一度ゆっくりまばたくと、笑顔を浮かべて頭を振った。
「大丈夫、ちょっとぼんやりしてただけなのよ」
無理しているのが明白な微笑みが痛ましい。無理をさせてしまったようだ。
「拾ってくれて本当にありがとう。これ、とっても大切なものなの。なくしたら、ものすごく後悔するところだった」
腰をかがめて目線をあわせた彼女は、笑って手を伸ばす。何でもないことのように振舞おうとしているが、ディンの掌から祈祷石をつまみあげる指先が震えていた。
「大事な人がくれた、大事なものなのよ。本当によかったわ。ありがとうね」
ディンは黙って頭を振った。下手に気づかうことが、また彼女に無理をさせる結果にしかならないと思ったからだ。だがそれももう、今さらの気づかいなのかもしれない。
「本当に、本当にありが……と……」
胸にそっと紫の玻璃玉を抱きしめる彼女の声が、か細く震える。嗚咽がこぼれ、彼女はたまらずといったふうに顔を背けた。
「ごめんね、本当……ごめんなさい」
呟いて、堪えきれない様子で踵を返す。泣いている後ろ姿に、ディンは声をかけることもできずに立ちつくした。門から駆けていってしまう彼女を、見送るのが精一杯だった。
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