第28話 消された映像
三月五日。心音が“最後に姿を見せた”とされるその日、学校の防犯カメラは通常通り作動していた。旧校舎自体にはカメラはなかったものの、その手前にある渡り廊下や職員室前の通路、出入り口付近には複数のカメラが配置されている。生徒の登下校や立ち入りの記録は、そこに自動的に蓄積されているはずだった。
風間は、篠崎とともに生活指導部へ向かった。目的は、三月五日の映像データの閲覧と保存記録の確認。心音が本当に旧校舎に姿を見せたのか、誰かと接触した形跡があるのか、それを確かめるためだった。
対応に出た教務主任・桜井は、以前よりも協力的な様子を見せていた。しかし、風間が三月五日の映像の提供を求めると、桜井は表情を曇らせた。
「……その日の記録は、一部が失われています。午後四時から五時の一時間分。すべてのカメラが同時に、記録不能となっていました」
「記録不能……というのは、機器の不具合ですか?」
風間の問いに、桜井は短く頷いた。
「表向きにはそういう処理になっています。ですが、システム上では“録画ミス”ではなく、“削除”と表示されていました。復元も試みましたが、メインサーバーからもバックアップからも、該当の時間帯だけが消されていた」
「誰が、そんなことを?」
「それは……不明です。操作ログもありませんでした。ただひとつ言えるのは、“手動で削除された形跡がある”ということ。自動記録の誤作動ではありません」
篠崎が静かに口を開いた。「削除されたのが三月五日の午後四時から五時。心音さんが旧校舎にいたとされる時間と、ぴったり一致しますね」
風間は黙って頷いた。この一時間の空白。それこそが、彼女が“消された”時間だ。物理的な記録が消されたという事実は、誰かが心音の存在を――少なくとも“最後の痕跡”を隠そうとした証拠に他ならない。
「もう一度、確認させてください」と風間が言った。「削除された映像の管理権限を持つのは、誰ですか?」
桜井はためらいながらも答えた。
「当時、その時間帯の端末を管理していたのは……生活指導担当の、八木沼教諭です」
風間はすぐに手帳を開き、ページをめくった。八木沼――確か、D組の設立時に教室割りを決めた側の人間だった。名前は、水島の証言にも一度だけ出てきている。
「彼に、話を聞く必要がありますね」と篠崎が言った。
「ええ」と風間は応じた。「八木沼先生が何を見て、何を消したのか。それを確かめに行きましょう」
八木沼教諭は、現在は進路指導を担当しており、かつての生活指導部からは外れている。風間は校内の職員室を訪ね、八木沼を呼び出した。
中肉中背の五十代。落ち着いた物腰に、無駄のない受け答え。いわゆる“波風を立てない”教師という印象だ。
「三月五日、学校の監視映像についてお尋ねしたいことがあります」と風間が切り出す。
「その日の午後四時から五時の記録が、システム上から消えていた。操作可能だった職員は限られており、あなたの名前が挙がっています」
八木沼の目が一瞬だけ揺れた。だがすぐに、苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「……正直なところを言えば、当時、私は記録の存在にそれほど重きを置いていなかったんですよ。トラブルもなかったし、生徒の入退室管理も形だけのものでしたから。あの日も、必要ないと思って、削除してしまったんです」
「“必要ない”と判断された理由を伺っても?」
「……旧校舎で何かあったという報告は一切なかった。あの建物はすでに使用停止扱いでしたし、“誤って記録されたものを整理した”という意識だったんです」
風間は一瞬、言葉を止めた。その理屈は、表面的には通る。だが――
「ですが、あの日は、特定の生徒が旧校舎へ向かった可能性があり、その記録が今となっては貴重な手がかりとなっています。八木沼先生、心音さんの名前に覚えはありますか?」
その名を口にした瞬間、八木沼は露骨に顔を強張らせた。
「……覚えていません。D組の生徒だったなら、正直、名前までは――」
「彼女の記録は学校から消されている。出席簿からも、生活記録からも。あなたが“不要”と判断した映像には、彼女が映っていた可能性が高いんです」
「……私は、何も見ていませんよ」
その声はどこか震えていた。
風間は確信する。
この男は、何かを見た。そして、それを“消す”ことに加担した。
八木沼は、明らかに動揺を隠しきれなかった。
視線を泳がせ、机の上で手を握ったり開いたりしながら、言葉を選ぶようにして口を開く。
「――心音さんのことですが、確かに覚えています。
D組にいたとき、よく見かけました。でも……それ以上のことは、正直言って、あまり記憶にありません」
風間は冷静に見守りながら、机の上においてあった数冊の書類に目を通していた。
八木沼の指示で行われた、“名簿から消された”心音の存在。
その操作が“なぜ”必要だったのか、それを知るためには、やはり八木沼が関わっていた日の出来事を掘り起こさなければならない。
「心音さんが最後に現れたのは、三月五日の放課後、D組の教室です。
彼女が学校を出る直前、あなたは何かしらの理由でその記録を消しました。
その時、心音さんに何か異変を感じませんでしたか?」
八木沼は一瞬、目を見開いた。
そして、しばらく無言の後、ゆっくりと声を絞り出すように言った。
「……実は、三月五日、それが唯一、心音さんと直接話した日でした」
風間は息を呑んだ。
ついに、ここで心音と直接接触した人物が現れた。
「話した……?」
八木沼は、手をひとつ組み、思い出すように目を閉じた。
「三月五日、心音さんが放課後に職員室に来たんです。
何か問題でもあったのかと思って、話しかけました。
でも、彼女は静かに、ただひと言だけ――『先生、わたし、ここにいるよね?』と言ったんです」
その言葉を聞いた瞬間、風間は全身に電流が走ったような感覚を覚えた。
「……それだけですか?」
「はい。あまりにも突然で、訳がわからなかった。
その後、彼女はすぐに立ち去り、あとは学校を出たと聞きました。
何か違和感はありましたが、それがどうしてこんな結果になるのか、当時は全く予想していなかった」
風間は、胸の奥に湧き上がる確信を感じた。
心音は、すでにその時点で、“存在を消される”ことを予感していたのだろう。
「それを……あなたは、何も言わずに見過ごしたんですか?」
八木沼は、目を伏せた。
言葉を選ぶようにして、しばらく黙った後、ようやく答えた。
「……そのとき、ただの気の迷いだと思った。
でも、後になって考えれば、あの時、彼女が何を言おうとしていたのか。
どうしてあんな言葉を口にしたのか。それが、今はわかります」
風間は、深い息を吐きながら言った。
「彼女は、消されることを予感していたんですね。そして、あなたにその“証人”になってほしかった」
「……そして私は、その証人になることを拒んだ。
だから、今、こうして後悔しているんです」
その言葉が、重く風間の心に響いた。
八木沼の後悔は、ただの自己弁護ではないと感じた。
彼もまた、この不可解な“消去”の中に巻き込まれ、そして“誰か”の指示に従った。
風間は再び、机の上にあったノートを取り出し、心音の最後に書かれた言葉を見つめた。
「わたしはここにいる」
その言葉を、“誰か”が抹消しようとした理由。
そして、その背後に潜む“罪”が、どんな形で浮かび上がるのか。
風間は目を閉じ、次に取るべき手を考えた。
八木沼は一言も言い訳をしなかった。ただ、過去に起きたことの結果を静かに受け入れている様子だった。
「彼女が“ここにいる”と言ったとき、なぜその意味に気づけなかったのか」と、風間はふと思った。
ただの不安定な言葉かと思った自分が、後悔と罪の重さに押し潰されている。
八木沼はそのとき、“何もできなかった”と言ったが、その無力さが、今に続いている。
風間は、改めて八木沼に問う。
「あなたが心音さんに何かをしてしまったということではなく、
あなたが“消す”ことを手伝わされたという事実の方が重いということに気づいてほしい。
そして、誰がそれを指示したのかを、今すぐに言うべきだと思います」
八木沼は顔を伏せ、つぶやいた。
「わかってます、でも、それは言えません。
この学校の“何か”があって……言えないんです」
風間は深呼吸をしながら、再度、言葉を紡ぐ。
「あなたが触れたくない、言いたくない“何か”が、今ここで明らかになるべきだ。
心音の存在を消すために動いた誰かがいた。あなたもその一部だ。そして、私はその“証言”を記録として残すために動いています」
その言葉に、八木沼は震えた。
「誰かが……あなたが知っている“その誰か”が、
何を、どうして消したのか。それを最後に、教えてください」
しばらくの沈黙。
八木沼の顔には、深い苦悩の色が浮かんでいた。
「……私は、あの時、心音を守れなかった。
でも、それは“私一人の選択”ではないんです。
あの生徒たちを守るためには、彼女を“消さなければならなかった”んです」
風間は眉をひそめた。
「生徒たちを守るため?」
八木沼はうなずいた。
「心音は、誰かにとって“都合の悪い存在”だったんです。
彼女が何かを言おうとする前に、誰かがそれを遮ろうとしていた。
そして、それを止めるために、私が関わったんです。
そのとき、私は彼女を守ることができたとしても――結果的に、クラスの秩序を守るために、彼女の名前を消さなければならなかった」
風間は、八木沼の目をしっかりと見つめた。
「それは、誰の指示だったんですか?
あなたが従うしかなかった“誰か”の名前を、言ってください」
八木沼は少しだけ目を伏せてから、静かに答えた。
「……水島教諭です」
その一言が、風間の心に激しい衝撃を与えた。
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