第12話 交錯する記憶

日曜日の午後。風間湊は、学園内の旧校舎の裏手に立っていた。

夏の陽射しのなかにぽっかりと口を開けた、古びた用具倉庫。

錆びついた南京錠は、昨夜、教頭から渡された鍵で外されていた。


「この倉庫、もう何年も使われていないって話だったのに……」


校内の施設記録に存在しないその小屋。だが、昨夜の匿名メールには、こう書かれていた。


「その子の痕跡があるとしたら、旧倉庫のなかしかない」


誰から送られたものかはわからない。

だが、湊には心当たりがあった。

数日前、校内で偶然すれ違った一人の生徒──柏木遥(かしわぎ・はるか)。


記録上は「ただの生徒」。だが、彼女の目だけは、どこか違っていた。



倉庫の中は、風が止まったように静かだった。

古い机と、木箱。朽ちた教材の山。その奥に、木製のロッカーが横倒しになっていた。


湊がゆっくりと近づくと、ロッカーの扉がわずかに開いているのが見えた。

その隙間に、黒いノートのようなものが差し込まれていた。


埃を払いながら取り出したそれは、どこか見覚えのある手書きの装丁だった。


———


【三崎結月】

誕生日:5月8日

好きなもの:バニラ味のアイス、犬

嫌いなもの:数学、冬の朝

将来の夢:動物に囲まれて暮らすこと


「これは、わたしのことを思い出してもらうためのノートです」


———


湊はそのページを、何度も読み返した。

文字は震えていたが、必死に自分の存在を残そうとしていた気配が伝わってくる。


「これは……彼女自身が書いた“記録”?」


そのときだった。


倉庫の外から、誰かの足音が近づいてきた。

湊が振り返ると、そこにいたのは──柏木遥だった。



「そのノート……見つけちゃったんだね」


彼女は穏やかに、でもどこか悲しげに微笑んだ。


「あなたが“風間さん”で、よかった」


湊は慎重に問いかけた。


「君が、このメールを?」


「うん。……あの子のことを覚えてる最後のひとりになっちゃったから」


柏木の目が、記憶のなかのどこか遠くを見ていた。


「みんな、彼女のことを“夢だった”って言うの。先生も、クラスメイトも。

でも、わたしは、彼女と毎日話してた。机を並べて、お弁当を分け合って……。

なのに、ある日突然、彼女の名前が出ると、みんな笑うようになったの」


湊は、手の中のノートを強く握った。


「“名前を呼ぶこと”すらできなくなっていった。わたしが彼女のことを話すと、

“なにそれ怖い”とか、“変なこと言わないで”って、避けられるようになって……」


柏木は小さく息を吐く。


「だから、ノートを残してもらったの。せめて、誰かが見つけてくれるように。

わたしが、あの子の“存在”の最後の証人になったんだと思う」


湊は、言葉を失っていた。

この空間だけが、記録も、記憶も、生き残っている世界だった。



そのとき、柏木がふと目を伏せた。


「でもね……私にも、怖いことがあって」


「怖いこと?」


「わたし、“結月ちゃんの顔”が……だんだん思い出せなくなってるの」



湊は一歩、彼女に近づいた。


「忘れる前に、全部聞かせてくれ。どんなことでもいい。

どんな些細なことでも、俺が書き留める。──忘れないように」


柏木は少し笑って、頷いた。


「……ありがとう。記録係さん」


湊は、柏木遥の話を黙って聞き続けた。

倉庫の隅に腰を下ろし、ノートを広げて、ひとつずつ書きとめていく。


「……初めて会ったのは、二年生のとき。

転校生って紹介されたけど、自己紹介がすごく緊張してて。

でも、わたしの横に来たときに、そっと笑ってくれたの。

……なんだろう、すごく安心する笑顔で」


柏木の声はとても静かだった。

それでも、思い出のひとつひとつが、そこに確かに存在していた。


「彼女、動物が好きでね。

授業中にこっそり犬の絵ばっかり描いてて、先生に怒られてたな。

数学はほんと苦手で、テストの点数見せ合ったとき、

“私の点数見たら勇気が出るでしょ?”って言ってくれたの。

あの子なりの、優しさだったんだと思う」


ページに記された記録は、決して特別ではない。

ただ、普通の日々の断片だ。


だが、その“普通”を覚えている者がいなければ、彼女は「いなかった」ことになる。

それがこの学園のルールなのだ。

記録されなければ、存在しなかったことにされる。



「それでも、消えなかったものがある」


柏木はそう言って、ポケットから細いリボンを取り出した。


「誕生日にもらったんだ。わたしの好きな色だって、彼女が選んでくれて。

このリボンだけは、誰がなんと言おうと、“あの子がいた”証拠なの」


彼女は、湊の前にそのリボンを差し出した。


「どうか、記録に残してほしい。

私ひとりだけじゃ、きっといずれ忘れてしまうから」


湊は、リボンを受け取った。

布の感触、わずかな香り。そこに宿る、確かに生きていた人の痕跡。


「……わかった。俺が残す。絶対に」



湊は、その夜、署名付きで新たな記録を作成した。

柏木遥から聞き取った三崎結月の記録を、ノートに書き写し、

公安の非公開端末に、物的証拠と共に別保存として格納した。


その記録は、公安本部の誰もが検索できない領域に保管された。

だが、湊にとってそれは、篠崎透から託された使命の“最初の成果”だった。



深夜、学園をあとにする湊のもとに、ひとつのメールが届いた。


「“記録係代理”へ。

忘れられた者たちは、まだ終わっていません。

次は、“写真部の事故”について──」


件名は、**「観測者より」**とだけあった。



湊は画面を見つめたまま、長く息を吐いた。


「……観測者、か」


画面には、差出人の情報はなかった。

だが、そこに込められたメッセージだけは、はっきりと伝わってくる。


——記録係の仕事は、まだ終わっていない。

むしろ、これからが本番だということを。



湊は鞄の中から、篠崎のノートと、柏木から受け取ったリボンを取り出す。


そしてもう一度、こう誓った。


「誰かが消されるたびに、俺が書く。

記録から消される罪に、名前を与えるために」



誰もいない学園の門をくぐりながら、湊は空を見上げた。

雲がひとつ、ゆっくりと形を変えていく。


それはまるで──忘却の中から、再び名前を取り戻そうとしている誰かの姿のようだった。


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