騎士ハーレンの遍歴の旅〜めぐり逢う数多の貴婦人たち

片桐秋

第1話 ベアトリーナの物語

 騎士ハーレン・フェル・ナイトディールは夜道に馬を歩ませていた。またがるは銀色の魔の馬、疲れを知らず草を食む必要もない、魔界からの召喚生物である。


 ハーレンがその馬を得たのは、ある高貴な美女を助けた、その褒美であったが、それはまた別の話、また別の時に語るとしよう。


 ハーレンは暗い森の中の道を、馬を進めていた。馬と同じように銀色の板金鎧は、月や星々の光を受けてきらめいていた。


 ハーレンは、同じ馬の背に一人の貴婦人を乗せていた。暗赤色のドレスを着た、優雅な貴婦人である。ドレスよりもさらに黒みの強い紅(くれない)の髪を、貴婦人が大抵はそうするように結い上げはせず、後ろになびくままにしていた。


「御婦人、貴女の腕が私の首に掛かっておりますな」


 板金鎧に覆われた肩か背中に手を回せばよいのに、と暗に告げたのである。さすれば直に肌に貴婦人の腕が触れることはない。


「ほほ、よろしいのよ。わたくしは、貴方のたくましい首の感触を楽しんでおりますもの。貴方もわたくしの素肌に触れて、これでおあいこ。そうでしょう、貴方?」


 貴婦人の名は、ベアトリーナ。家名は聞かなかった。何故なら貴婦人は、この国にのみ現れる特別な他とは違う魔族と、人間の間に生まれた女で、貴族の家門からは追放された身だからである。


「おお、そのような誘惑的な事を貴女はなさるのですね」


 騎士はそう言った。その声色は穏やかで優しく、そこに批判の色は無いが、貴婦人がそれ以上の振る舞いをするのを、そっと抑止したのでもある。


「おお、許して。わたくしは長い間、独り身でいたのですから。誰もわたくしのために花を捧げてもくれなければ、華やかな馬上槍試合でわたくしが差しあげたリボンを、二の腕に結わえて戦う騎士もいなかったのです」


 鎧の上から二の腕にリボンを結わえるのは、そのリボンの主である貴婦人のために戦うとする意志の表れである。大抵は、貴婦人みずからの手になる刺繍が施されている。


「では、今晩はあなたが、主君の奥方でもあるかのようにお仕えします。私には主君はなく、ただか弱き貴婦人を助ける遍歴の騎士に過ぎませんが、貴女を目的の場所までお送りして、そこから去るまでは、騎士としての名誉にかけて、不埒な振る舞いはすまいと存じます」


「去ってからはどうなさるの?」


「去ってからもです、御婦人」


「ベアトリーナと呼んで頂戴」


「ではベアトリーナ様、私が仕える貴婦人の守護者である、騎士道の女神セラーフェスにかけて、貴女をお守りいたします」


 二人はベアトリーナが片隅に身を寄せる、彼女の亡くなった母親の家門である大貴族の暮らす城を離れ、森の中の魔族の碑石のある場所へと向かっていた。



 その魔族は、ベアトリーナの親である。父親だとは言い切れない。何故なら、魔族には人間のような性別はないからである。魔族は大抵の人間が及びもつかないような、強靭な身体(からだ)と精神を兼ね備えている。そして、男女双方の心を持っているとされる。


 ベアトリーナの母親の前に現れた魔族は、まるで美しい女のような姿をしていたが、その実、この国のか弱き貴婦人達からは「男のように強い女」と見なされるような存在であったと聞いていた。


「わたくしは、そのもう一人のお母様、いえ、お父様とお呼びするべきかしら、その方の残した碑文を見たいのよ。それは夜、月の光の下でしか見えないの。でも一人でこんな危険な夜道を歩けはしないわ。貴方がいてくれて、本当によかった」


「そのようにおっしゃっていただけて、真にうれしく存じます」


 ベアトリーナは、ふと悲しげにうつむいた。騎士ハーレンは、気配でそうと察した。


「いかがなさいましたか」


「魔族は強い者にしか関心はないの。強い者にしか魅力を感じないの。わたくしのような女には、魅力が無いと思うでしょうね」


「いいえ、貴女には強さがあります。それに魅力もお有りです」


「わたくしに強さが?」


「はい。長い間、たった一人で孤独に耐えておられました。それが強さでなくてなんでしょうか。魔族の誰が認めなくとも、私一人はベアトリーナ様の魅力を、そして秘められた強さを信じております。いえ、知っております」


 ベアトリーナは沈黙した。ハーレンもまた、しばし黙って馬を走らせた。やがて貴婦人は言った。


「ありがとう、ハーレン」と。


 森に入ってから一刻を過ぎた。一刻は、一日を二十四分割した長さである。人は、月や太陽の動きを見て時間を測るのである。精巧な時計もこの世界にはあるが、庶民の手には入らぬ貴重な物だ。ベアトリーナが片隅に暮らす城にはあるが、大きくてとても持ち運びは出来ない。それにベアトリーナの物でもない。


 碑文の刻まれた石柱が見えた。墓石のようにも見えた。赤い月と白銀の月に照らされていた。今は白銀の月の光が強く、赤の光はぼやけて、あまりよく見えない。


「これが碑石でございますな」


 騎士ハーレンは先に馬から降りた。貴婦人の足元に両手を組んで差し出す。ちょうど両手で水をすくう時の、あの手つきに似ているが、もっと指を組んでしっかりと足を乗せられるようにしていた。


 貴婦人は、その手を踏んだ。騎士は彼女の足を両手で受け止め、馴れ馴れしく触れることなく、ベアトリーナが地面に降りられるようにした。段差のある階段を降りるような仕草が出来るように。ベアトリーナはよろめかないように、騎士の板金鎧に覆われた肩に触れて支えとした。


「ああ、碑文が読めるわ。ありがとう、ハーレン」


「どういたしまして、ベアトリーナ様」


「この碑文はわたくしのために残されたものではないけれど、でもわたくしは読んでみたかった」


「ベアトリーナ様は魔族の言葉がお分かりになるのですね」


「ええ。彼らの言葉は一通り覚えました」


「さすがはベアトリーナ様は、真に教養のある貴婦人でいらっしゃいます。それは単なる知識ではありません。生きる支えとなるものです。食べた物がその人の血肉となるように、読んだ事や知った事がその人の精神のあり様を変えるのでなければ、真の教養とは言えないと、私は母から教わりました」


「貴方のお母様も、きっと教養のある貴婦人だったのね」


「貴女様ほどではありませんが。そうですね、古代の詩文をよく読み聞かせてくれたものです。遍歴の旅に出てから、もう長い間会っておりませんが」


「そうなの。寂しくはないの」


「母には父と、弟も付いております。それに私は騎士道の女神セラーフェスに誓いを立てました。千人の貴婦人を助けるまでは、親兄弟の下には戻るまいと」


「何故。何がそんなにも貴方を駆り立てるのかしら」


 ハーレンは沈黙した。


「おお、話したくなければ話さなくてもいいわ」


「いえ、ベアトリーナ様。貴女は誰にもおっしゃらないでしょう。私の遍歴の旅は、私の父が犯した不名誉の償いなのです。いかなる不名誉なのかは、どうかお聞きくださいますな」


 今度はベアトリーナが沈黙する番だった。


 彼女はため息をついた。結局、ベアトリーナは何も言えなかった。


「ねえ、しばらくこのまま、ふたりでここにいましょう。ふたりで、この碑文のそばに座るのよ」


 それを聞いて、ハーレンは背中に身に着けていたマントを外して地面に広げた。


「どうか、ここにお座りください」


 ベアトリーナは礼を言うと、言われた通りマントの上に座り込んだ。優雅に横に足を流して。靴は、とてもこんな地面を歩けはしないだろうと思われるような、貴族の集まりの夜会のための靴だった。


「こんな靴しか持っていないのよ」


「貴女によくお似合いです」


「褒めるのが上手ね」


「いえいえ、正直な事を申し上げたまでです」


 この森の木々は、枝がそんなに密に茂ってはいない。月と星の光が、森の葉擦れの音と共に降ってくる。ざわめく木、きらめく夜の光。


「今晩は、ばあやに黙っていてもらうけれど、もう夜に一人では出てこられないわ。せめて今は、この美しい夜を楽しみたいの。どうか私を見守っていてね」


「はい、おそばにおります。どうかご安心を」


 こうしてふたりは、その一晩を共に過ごした。その間ずっと、騎士は貴婦人に指一本も触れなかった。



第一話 ベアトリーナの物語 終わり

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