第4話 審問騎士団との遭遇
夜は、ひどく長い。
闇に紛れて、誰が、どこから襲ってくるのか分からない。
木々のざわめきでさえ、刃音に聞こえた。
リクは村の裏手にある獣道を、息を殺して進む。
握った手の温もりがやけに強い。――エルの掌だ。
「もうすぐ抜け道があるよ。……昔、お父さんに教えてもらったの」
振り返った彼女は笑っていた。
村から異端として追われているというのに、その笑顔は遠足にでも向かう子どものように無邪気だ。
(この子……強くなりすぎた。俺が、Rewriteで……)
死の定義を書き換えた瞬間から、もう後戻りはできない。
それでも、手を離すことだけはできなかった。
「……リク、足痛い?」
「いや、大丈夫だ。エルこそ、疲れてないか?」
「ううん。……だってリクが一緒にいるから」
優しい声。それなのに、背筋に冷たい汗が滲む。
森の入り口が見えた、そのとき――
ガン、と硬質な音が夜を裂いた。
鎧が揺れる重い震動。靴底が地面を踏みしめる。
「止まってください。異端者」
月明かりに銀鎧が浮かぶ。
神聖教会直属――審問騎士団。
その背後には光を帯びた槍を構える女騎士と十数人の部隊。
「死者蘇生は禁忌。あなた方は神を冒涜したのです」
リクは反射的にエルの腕を引いた。
「エル、逃げ――」
「大丈夫。……リクは下がってて」
エルが一歩、前へ。
その横顔は穏やかで、笑みさえ浮かんでいた。
「ねえ、リク。……この人たち、殺してもいいよね?」
その一言で、空気が止まった。
次の瞬間、エルの姿が掻き消える。
突風が吹き、落ち葉が宙に舞う。
最前列の騎士が宙を舞った。鎧ごと潰され、木に叩きつけられる。
骨と鉄が同時に砕ける鈍音。
「ひ、化け物ッ!」
絶叫も束の間。
銀光が森を切り裂き、次々と血飛沫が散った。
骨が砕け、肉が裂ける。短い断末魔。
――それでも、エルの口元は笑んだままだった。
やがて、残ったのは数人。
震えながら後退し、祈祷を唱えようと声を張り上げる者。
必死に槍を構える女騎士。
そして、腰を抜かし泥にまみれて命乞いする若い兵士。
「た、たすけて……! 命令で動いただけで……!」
エルは血塗れの石片を拾い、その兵士の前に立った。
腕を振り上げ――
「やめろ、エルッ!!」
リクの叫びが森を震わせた。
彼女を止めれば自分が殺されるかもしれない。
――それでも、人としての一線だけは越えさせたくなかった。
石片が振り下ろされる寸前、エルの腕が止まる。
「……なんで?」
振り返った彼女の声は子どものように無邪気だった。
怒りでも理解でもなく、ただ悲しげに。
「リクが生きててくれれば、それでよかったのに……」
石片が、ぽとりと落ちた。
血に濡れた指が、リクの手をそっと握る。
背後では、生き残った兵士や女騎士が、祈祷と震える声にすがっていた。
掌に刻んだ聖印は汗でにじみ、震える声は途中で掠れて途切れる。
槍を構える女騎士の手は痙攣し、刃先はエルではなく虚空を彷徨っていた。
一人の兵士は嗚咽混じりに神名を呼び続けながら、光を求める手を天へ伸ばす。
だが――どこからも救いは降りてこない。
それでもエルは振り返らず、ただリクに向けて穏やかに笑った。
「終わったよ、リク」
――けれど惨劇は、まだ終わらなかった。
◇
血の匂いが森を満たし、呻き声と祈祷の断片が夜気に溶けていた。
震える兵士の声が、かすかにリクの耳に届く。
「た、助けて……! 誰か……!」
嗚咽交じりの祈り。だが救いは訪れない。
銀の鎧に覆われた仲間の死体が転がり、血に濡れた土が赤黒く染まるばかりだった。
エルはそんな光景の中心で、血に濡れた頬を紅潮させ、うっとりとリクを見つめていた。
「やめろ……やめてくれ、エル……!」
リクの声は震え、かすれていた。
「どうして? リクのためにしてるのに」
エルの瞳は涙で潤みながら、それでいて幸福そうに輝いている。
「ねぇ……わがまま、聞いてくれるよね?」
血の滴る指先がリクの頬を撫でる。鉄と土の匂いが鼻を刺し、背筋を凍らせる。
「だったら――リクから、キスして?」
翠色の瞳がまっすぐに突き刺さる。
「それから……“愛してる”って言ってほしいの」
静寂を切り裂くようなその一言に、兵士たちの錯乱した叫びが重なる。
「キスしろ! お願いだから、キスしてやれ! そうすれば助かるんだろ!?」
「キスだ……! 頼む……! 俺たちを救ってくれぇぇ!」
泣き叫ぶ声が森に木霊する。命乞いと同じ熱量での、狂気じみたコール。
絶望にすがる兵士たちの声は、もはや理性を失っていた。
「ほら、みんなも言ってるよ?」
エルは小さく首を傾げ、笑う。
「リク、私のこと好きでしょ? ねえ、好き。好きならカップルだよね? だったら証明して」
甘えるように繰り返す声。
「すき、すき、すき、すき……」と、まるで呪いのように。
リクの胃がひっくり返る。吐き気がせり上がり、口の端から酸味が広がった。
膝が崩れそうになる。
それでも、エルはその惨めさすら愛おしげに見つめ、さらに囁く。
「ね、リク。吐いててもいいよ。泣いててもいい。どんなリクでも、大好きだから」
血と嘔吐と祈りが入り混じる地獄絵図の中で、彼女の声だけが甘美に響いていた。
◇
鼻につく鉄のような匂いが森を満たす。
生き残った数人の兵士は、震える声で祈祷を唱え続けていた。
しかし祝詞は途中で途切れ、震える声は掠れ、光はどこにも宿らない。
その中で――ただ一人、女騎士が槍を握り直した。
血に濡れ、涙で滲む視界の奥で、それでも彼女は叫ぶ。
「たとえ――異端でも……守るのが、騎士の務め……ッ!」
祈祷の光が一瞬だけ刃先を包んだ。
女騎士は叫びとともに突撃し、槍の穂先をエルの胸に突き立てた。
だが。
――メキィッ。
折れたのは、槍の方だった。
穂先は無惨に曲がり、女騎士の両腕に衝撃が返る。
骨が悲鳴を上げ、彼女は膝から崩れ落ちた。
「……うそ、だろ……」
膝をついた女騎士を、隣の若い兵士が庇うように抱き寄せた。
震え、怯えながら、それでも彼は彼女の前に立つ。
「やめろ……! もう、やめてくれ……!」
その姿を見たエルは、一瞬だけ目を細め――ふ、と口角を上げた。
「……そっか。二人は、恋人なんだ?」
赤黒い血を滴らせた手を口元に当て、子どものように小首をかしげる。
背後の兵士たちが息を呑む。
「ふーん……だったら、見逃してあげてもいいよ?」
女騎士と兵士が驚き、顔を上げる。
その視線の先で、エルは楽しげに微笑んだ。
「だって、カップルなんでしょ? カップルなら……キスぐらい、できるよね?」
吐き気がするほど甘ったるい声色。
血の匂いが混じった森に、あまりにも不釣り合いな響きだった。
「……っ!」
女騎士が絶句する。
兵士は青ざめ、震える手で必死に首を振った。
「ふ、ふざけるな……! 俺たちは……」
言葉を遮るように、エルが一歩踏み出す。
血塗れの裸足が、落ち葉を踏んでしっとりと音を立てた。
「ねえ、してよ? そうしたら、二人とも殺さないであげる」
にこりと笑う。
その無垢さが、残酷さを何倍にも引き立てる。
背後の兵士たちが錯乱したように叫んだ。
「やれ! やれよ、早く! キスすれば助かるんだ!」
「頼む! 死にたくない……!」
命乞いと同じ声量で繰り返される“キスコール”。
女騎士は顔を真っ赤にして震え、庇う兵士は唇を噛み切るほどに食いしばる。
リクは胃の奥が反転するような感覚に襲われ、ついに吐いた。
酸っぱい液体が喉を焼き、地面に落ちる。
「……っ、ごほ、ごほ……!」
「リク?」
エルは振り返り、血と涙と吐瀉の混ざる彼を見て――うっとりと笑った。
「……そんなリクも、大好き」
吐いたリクの頬に触れ、赤黒い手で優しく撫でる。
その仕草が、兵士たちには悪夢にしか見えなかった。
――狂気と愛。
その狭間で、森はまだ終わらない惨劇の余韻に震えていた。
兵士たちの喚き声が、森を不気味に反響していた。
女騎士は震える唇で祈祷を続けようとするが、声は途切れ、光は二度と宿らない。
庇う兵士も、もう立ち上がる力すら残されていなかった。
「……もういいよ」
エルが囁いた。
リクを振り返り、吐瀉物で濡れた頬を愛おしげに撫でる。
翠色の瞳は、恐怖も嫌悪も一切受け取っていない。
ただ「リクがそこにいる」という事実だけを、陶酔するように抱きしめていた。
「リクがやめてって言うなら……仕方ないな」
腕を下ろし、血に濡れた指を絡めるように彼の手を握る。
その一方で、女騎士と兵士へ向けた笑みは冷ややかに変わった。
「……でもね。もう二度と、私たちの前に立たないで?」
その声音には、甘さも優しさもなかった。
ただ静かな“絶対命令”がそこにあった。
女騎士と兵士は、互いに顔を見合わせる。
怯え、涙に濡れ、それでも二人は肩を支え合いながら立ち上がった。
血に濡れた足取りで、森の奥へとよろめきながら消えていく。
――残ったのは、リクとエルだけ。
静寂が戻る。
だが、それは安堵の沈黙ではなく、惨劇の後に訪れる異様な静けさだった。
鉄の匂いが濃く漂い、土は暗く濡れて、夜をさらに深くしていた。
「……エル」
リクの声は掠れていた。
吐き気の余韻で喉は焼け、心臓は乱打し続けている。
「なんで、こんな……」
震える言葉に、エルはただ頬を寄せて囁く。
「だって……全部リクのためだよ」
血に濡れた彼女の唇が耳元で笑う。
「リクが生きててくれれば、それでいいの。
ね、リク? 私、間違ってないよね?」
返せなかった。
否定すれば、その刃はまた誰かに向かう。
肯定すれば、自分の理性が壊れる。
どちらにせよ、もう戻れない。
だが――。
リクは、吐き気の残る喉で、かすれた声を絞り出した。
「……エル」
「ん?」
「……もう、手を……離すなよ」
一瞬、彼女の瞳が大きく見開かれ――次の瞬間、頬を染めて満面の笑みを浮かべた。
「……うんっ!」
血まみれの笑顔。
恐怖と愛と幸福が混じった、常軌を逸した輝き。
それでも、リクの心臓は激しく脈打ち、その手を握り返すしかなかった。
夜風が吹き抜ける。
星は曇りに隠れ、祈りの言葉を運ばない。
ただ二人の影だけが、深い森に寄り添って落ちていた。
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