第3話 お役所仕事

 一代は、震える手でスマートフォンを床から拾い上げた。指が震えてうまく操作できない。ようやく画面を表示させ、自治体の緊急連絡番号を押す。

「は、早く出て……早く……」

 コール音がやけに長く感じられ、鼓動が耳の奥で激しく鳴っている。

「はい、青森市役所です」

 相手が出た瞬間、一代は喉が締まり、言葉が詰まった。

「す、すぐ助けて! 庭に熊が……熊がいるんです!」

 職員は一瞬沈黙し、「あの……本当に熊が出たということでしょうか?」と、どこか疑わしげな口調で問い返してきた。

「はぁ!?本当よ!嘘なんて言うわけないでしょう!?」一代の声は金切り声になっていた。

「……わかりました。どちらに出たのでしょうか? 住所は――」職員は事務的な口調で再び尋ねた。

「私の家の庭よ! 今! 今、目の前にいるの! 沢木よ! とにかくすぐ猟友会を呼んで!今すぐ!!」

「いつ頃熊を目撃されましたか?」

「だから今だって言ってるでしょう! 早く、早くしてよ!! なんでそんなことまで聞くのよ!殺されちゃうわよ!」

 職員は淡々と「状況はわかりました。猟友会には連絡します。ご自宅から出ず、施錠して安全な場所で待機してください」と答えた。

「そんな悠長なこと言っている間に私が殺されるかもしれないのよ!? 早くして!」

 職員は落ち着いた口調で、「猟友会との調整と移動に時間がかかります。とにかく家の中で待機をお願いします」とだけ告げて電話を切った。

 焦りがさらに増した一代は、次に猟友会へ電話をかけた。数コールで年配の男性が出たが、その声には明らかな不快感が滲んでいる。

「沢木さんですか? また抗議ですか?」

「ち、違う!! 熊が庭にいるの!!今すぐに助けに来て!早く!!」

 電話の向こうで男性が鼻で笑った。

「あれだけ私たちを『殺人者』だの『動物虐待者』だのと言っていたのに、いざとなったら自分は別ですか?」

 一代の血が一瞬で冷たくなった。

「あ……いや、ちが……お願い、謝るから! 今までのことは謝ります! とにかくすぐ来て!!」

「……」

 少しの沈黙の後、男性はため息を深く吐くとしっかりとした言葉を続けた。

「市役所から連絡が来てからの出動になるので、少し時間がかかりますよ。それまで何とか耐えてください。準備を整えておきます」

 男性はそれだけ言って電話を切った。

「あぁあぁ、なんのなのよ!!早くって言ってるでしょうが!!ああもう、なんなのよ!!」

 絶望的な孤独感と焦燥が胸を締め付け、一代の身体が震え出す。今度は近所の知人へ電話を試みた。数コールの後、近所の主婦・美智子が電話口に出る。

「あら、沢木さん? 珍しいですね」

「みみ、美智子さん、美智子さん、お願い! 熊が庭にいるの!助けにきて!!」

「えっ? く、熊?」

「そうよ、熊よ!! ニュースで言っていた熊!! そこ!!そこにいるの!!」

「ほ……ほ……本当に……?」美智子は声を震わせ、動揺した様子で何度も確認を繰り返した。

「あぁあぁあ!!どんくさい!! いるの!! 今、庭をうろついていて……!」

 その瞬間、美智子は小さな悲鳴を上げ、受話器の向こうから駆け出す足音が響き、電話は一方的に切れた。

「なんで……なんで……っ!!」

 一代は目の前が真っ暗になり、呼吸が乱れ、激しい動悸と吐き気に襲われた。窓の向こうでは、熊が執拗に庭を徘徊し続けている。

 彼女は最後の希望を込めて警察に電話をかけた。だが対応した警察官の声は穏やかだが事務的だった。

「沢木さん、猟友会には連絡済みのようですので、家の中でお待ちください」

「でっ、でっ、でも……でもすぐに来てくれないんです!今すぐに!!今すぐに来て!!早く!!」

「私たちは直接熊を駆除する装備を持っていませんから、猟友会に任せるしかありません。とにかく施錠して安全な場所で待機してください」

 冷淡な口調で告げられ、電話は一方的に切れた。

 深い孤独と絶望が一代を覆い尽くす。周囲の人間から拒絶され、社会から見捨てられたかのような恐怖が、一代の胸の奥深くに染み込んでいった。

 窓の外で、熊が再びこちらを見つめていた。その冷たい瞳が、無言の死刑宣告のように感じられた。

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