第7話背伸びの向こう側

 午後四時。

 曇り空の下、街は夕方のざわめきを帯びている。

 カラン、とドアベルが鳴り、マスター・小鳥遊は顔を上げた。


「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ。」


 カウンターに腰を下ろしたのは、若い女性だった。

 ブランド物のバッグを膝に抱え、ネイルは艶やかだが、指先が小さく震えている。

 彼女は注文もせず、いきなり声を落とした。


「……ここって……相談、できるって聞いたんです。」


「ええ、当店のコーヒーは、そういう隠し味つきでして。」


 女性はためらうように視線を伏せ、ぽつりと言った。


「……私、見栄ばっかり張っちゃうんです。

 友達と食事に行くとき、無理して高い服を着て……SNSにはキラキラした写真をあげて……。

 でも、帰ると、すごく虚しくなって。

 “私、何やってるんだろう”って。」


 サイフォンの湯がふつふつと音を立てる。

 マスターは黙って聞きながら、豆を挽く手を止めない。


「でも、やめるのも怖いんです。

 ……みんなに“あの子ってイケてる”って思われたい。

 でも……本当は私、そんなじゃないのに。」


 琥珀色のコーヒーをカップに注ぎ、マスターはそっと差し出した。


「――あなたが本当に見てほしいのは、どんな自分ですか?」


 女性は瞬きをして、カップを見つめた。


「……え……?」


「見栄を張るあなたを見て、周りは“すごいね”と言うでしょう。

 でも、その言葉は、あなた自身に届いていますか?」


 女性は黙り込む。

 マスターは、やわらかな声で続ける。


「大切なのは、“よく思われること”ではなく、

 本当の自分を知ってもらうことじゃないでしょうか。

 そのうえで好きになってくれる人が、あなたにとって本当に大事な人になる。」


 女性はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。

 ほろ苦さと、やさしい香りが胸の奥に広がる。


「……でも、そんな私を……好きになってくれる人、いるかな……。」


「いますよ。

 そして、その人は、今までのあなたよりもずっと、あなたを大事にしてくれるはずです。」


 女性は小さく笑った。

 指先の震えが、少しだけ収まっている。


「……マスター、なんか、肩の力が抜けました。

 ……次は、もうちょっと自分らしい服を着て、ここに来ます。」


 彼女はカップを置き、バッグを抱えて立ち上がる。

 カラン、とドアベルが鳴り、曇り空の向こうから淡い夕日が差した。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは、ふっと目を細めた。


「――見栄を脱いだその先に、きっと素敵な笑顔がありますように。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、新たな豆を静かに挽き始めた。

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