第4話指輪を外す日
午前十一時。
雨上がりの街路樹から雫が落ち、窓辺の硝子を打つ。
〈ル・プチ〉のドアベルが、静かにカランと鳴った。
カウンター奥でモーニングの仕込みをしていた小鳥遊マスターは、
タオルを置き、ゆったりとした動作で顔を上げる。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ。」
入ってきたのは、グレーのコートを羽織った女性。
年の頃は四十代前半、薬指には金の指輪が光っている。
だが、その視線はどこか遠く、曇っていた。
カウンターに座ると、声を落として呟く。
「……ここ、相談を聞いてくれるって……本当ですか?」
マスターはゆるやかに微笑む。
「ええ。美味しいコーヒーを淹れるついで、というやつですが。」
女性はかすかに笑い、カウンターを見つめたまま、指輪を撫でた。
「……今日、離婚届を出してきたんです。
十七年、一緒に暮らした人と……。
これでよかったのか……まだ、自分でもわかりません。」
サイフォンの湯がぽこぽこと音を立て、マスターは静かに耳を傾ける。
女性の瞳は、どこか迷子のようだった。
「家を出るとき、あの人は何も言わなかったんです。
私も、何も言えなかった。
でも今になって、何か……何か一言、言えばよかったんじゃないかって。」
湯気がふわりと立ちのぼり、コーヒーの香りが満ちる。
マスターはカップを差し出し、やわらかく口を開いた。
「言えなかったことは、胸の中で何度でも言えますよ。
相手の耳には届かなくても、自分の心は、それで少し楽になります。」
「……心の中で……?」
「ええ。そして、もしできるなら――
これから先、あなた自身に言ってあげてください。
“ここまで、よく頑張ったね”と。」
女性の目尻が、つうっと緩んだ。
指輪をそっと外し、カップを握る。
熱が掌に染みていく。
「……ありがとうございます。
今、やっと息ができた気がします。」
飲み干したあと、女性は晴れやかな笑みを見せ、
静かにカウンターから立ち上がる。
ドアベルが優しく鳴り、外の光が差し込んだ。
マスターはカウンターの奥で、片づけをしながらぽつりと呟く。
「――今日もまた、ひとつの物語が、湯気とともに消えていきましたね。」
そして、また次のお客様を待つかのように、
新しい豆をミルに入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます