紅茶はぜいたくで無償
ロッタ
1
どこか懐かしい匂いに、佐藤良は駅の中で足を止めた。重い頭を上げて、匂いの発生源を確認する。
目の前には紅茶専門店があった。眩い光に包まれた店の入り口では、店員が通行人に紅茶の試飲をすすめている。お盆の上にのせられた紙コップからは、琥珀色が顔を覗かせていた。
腕時計は夜8時を指している。いつもなら近くのスーパーに寄って、半額の弁当を買いに行く時間だ。
新卒で教職について以来、自炊する時間はない。持ち帰りの仕事もある。一刻も早く買い物を済ませ、家に帰るべきだ。
漂ってくる香りが理性の声をかき消す。吸い込まれるように店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ! よろしければ、試飲どうぞ」
良に気付いた店員が笑顔で紙コップを差し出してくる。彼は軽く頭を下げながら、それを受け取った。
匂いを確かめたくて、紅茶に顔を近づける。マスカットやバラを彷彿とさせる香りが、微かに漂ってきた。記憶にある匂いと、近いようで遠い。
「こちらは、ダージリンのオータムナルです。10月から11月に収穫された茶葉で、ミルクティーに最適だと言われています」
「……そうですか」
相槌を打ち、コップを傾ける。口の中にやや強めの渋みと穏やかな甘みが広がった。おいしいが、牛乳を入れた方が飲みやすい味わいになるだろう。
良はディスプレイに並べられた紅茶を眺めた。「寒い冬のおともに!」なんてコメントと共に、今飲んでいる銘柄が紹介されている。どうやら茶葉だけでなく、ティーバックでも売られているらしい。
「こちら、購入させていただけませんか」
飲み終えたコップを返却するのも忘れて、良はティーバックの袋売りを指差していた。無意識の行動に我ながら驚く。ただ、疲れ切った心身は、懐かしい匂いに呑まれた記憶を、本能的に求めていた。
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