嫌ってよ、クラッシュガール
大人になってしばらく経ち、私とクロくんの結婚が間近になっていたころの話だ。
その日仕事から帰ってきたクロくんが、家でゴロゴロしていた私に向かって「シンペイが、お前に聞いてほしい恐怖体験があるから来るって。」と言った。
シンペイというのは、私たちの高校時代の同級生で、爽やかな顔面に爽やかな笑顔を浮かべた爽やかな図書委員、タカラダくんの下の名前だ。
クロくんの親友である彼は、私たちが結婚することになった時は大爆笑しながらお祝いに来てくれたし、曜日を問わずに結構気軽に遊びに来て、平日クロくんとの人生ゲームが白熱し過ぎて朝になり、うちから会社に行くこともザラにあった。
なので、私はいつも通り勝手に来ればいいものを、と思って、少し違和感を覚えた。
「急にごめんね。ちよさんもクロも、元気だった?」
「先週も来てたじゃん。で、何があったの?」
訪れたタカラダくんに缶ビールを缶ごと差し出して、私は彼と向かい合って座るクロくんの隣に腰掛けた。
彼は先週会った時とこれといって変わったことのない様子で、ビールをちびちび飲みながらニコニコと笑っている。パッと見では恐怖体験をして相談に乗ってほしい、という人の様子には全く見えなかったが、先週よりも何となく顔色がよくない気がした。
何より、なんだかうっすらと彼を取り巻く「淀み」のようなものがあるのを感じる。
それは重くまとわりつくような、粘着質な気配だった。
「…ここしばらくさあ、変なのに付きまとわれてるんだよね。」
「でしょうね!?」
「あ、わかる?よかったー。」
ゆるい。これだけねちねちしたものに絡まれて、これだけあっさりとした態度でいられる人間はそういない。
私はタカラダくんの胆力というのか鈍感さのなせる業というのか、そういうのに感心しながら何があったのかを聞いた。
彼は「理解してくれる人間が現れた」とでも言いたげに少しホッとした様子を見せながら、その経緯を語り始める。
「ちよさんはさ、もちろん口裂け女ってご存じだよね?」
「存じているね。むしろあれを知らない人とかいる?」
「最近さ、家の近くに、あれにそっくりなのが出てくるんだ。」
「…そんなもん、実在するのかよ。」
クロくんが、つまみとして出したポテトチップスをかじりながらイヤそうに言った。眉間の皺がいつもより数段深い。彼は意外と怖がりなのだ。
「会社から帰る時にさ、うちのすぐ近くに絶対いるんだよね。ご丁寧に赤いトレンチコート着て、大きなマスクしてる女の人なんだけど。で、おれは何か怖いからスルーして帰ろうとするんだけどね、すれ違いざまに裂けてる?裂けてる?って聞いてくるんだ。」
「普通に怖いな。つーか、裂けてる?って、マスクしてたらわかんねえだろ。」
「警察には行ったの?」
話を聞いた私は、真っ先に生きている人間であるという可能性を考えた。そんな露骨に都市伝説まがいの恰好をして、話しかけて追いかけてくるなんて、どう考えても作為的だと思ったからだ。
このままではタカラダくんが刺されて「住宅街の惨事!20代男性刺されて死亡!!」みたいな見出しが新聞で踊ってしまうのではないかと思って、なんだかとてもイヤだった。
しかし彼は、私の普通過ぎる問いかけに対して、すごく普通に「ううん」と首を横に振る。
「なんていうか、生きている匂い?みたいのがしないんだよね、その人。説明が難しいんだけど。」
「…そっちかー。」
タカラダくんの言いたいことは何となく理解できる。見え過ぎる父のせいで何度か「見てしまう」体験をしてきた私は、生きてないけどそこにいる人の、何かが薄く感じるというか、あの特有の存在感を思い出しながら頭を抱える。
「そんな感じだから、警察とかじゃなくてこれはちよさん案件かなと思って。」
「ええ大好物です。でもなあ、父さんからこれでもか!って言い聞かされてきたんだけど、何度も現れて話しかけてくるやつって、やばいらしいんだよね。タカラダくん、なんかリアクションしたりは?」
「いや、してないよ。ガン無視だよ。さすがのおれでも怖すぎるって。」
「うーん。わかった。私ちょっと父さんに聞いてみるよ。」
そう答えると、私はスマートフォンを取り出すと、スピーカーの状態にして、その場で父に電話をかけた。4コールくらいで出た父は、「ヘーイ!」とか言っていて、謎にテンションが高い。野郎、酔ってやがる。
ちゃんと聞いてくれるのか一抹の不安を覚えつつも、私はタカラダくんの話を要約して父に話した。
最初こそヘラヘラと「いないよ口裂け女なんかー!」みたいな雰囲気で話を聞いていた父だったが、話しかけてくる、というくだりで静かになり、相槌を返すだけになる。
私は一気に状況の説明を終えて、どう思う、と尋ねてみた。父は数秒黙って考えて、それから、タカラダくんさあ、と話し始める。
「それって、格好のせいで変なバイアスかかってるから”裂けてる”って思ってただけで、俺はそれ”避けてる”の方じゃないかなと思うんだよねー。回避してるというか、相手との接触を絶つというか。」
「…ああー!」
私たちは三人揃って目を見開き、父の推測に感心してしまった。なるほど、その観点はなかった。いい歳の大人が三人揃いも揃って、ダブルミーニングに踊らされる人になってしまっていたとは。
鋭い視点に絶句する私たちを置き去りにして、父は声を落として、タカラダくんさあ、と更に続ける。
「最近、女の子振ったろ。それもわりと手ひどく。」
「えっ。」
「えっ。」
私とクロくんは同時にタカラダくんを振り向いた。彼はああー、とちょっと言い淀んでから、苦笑いして続ける。
「やっぱお父さん、わかっちゃいます?でも、おれ自身が特別ひどいことを言って振ったとかじゃなくて、普通に好きだって言われたのを、普通にお断りしたんですよね。でも、それからちょっと相手の子が変になっちゃって。家突き止めて押しかけて来たり、ものすごい量の連絡が来るようになっちゃって。」
「いや、わかったとかじゃなくて、ただの勘だけどね。でもなー、そういう時期に“避けてる?”なんて聞いてくるのが現れるのは、たまたまかねえ?」
父は笑ってうそぶいたが、電話越しのその声には、どこかぞわりとするような確信が混じっていた。
その後、父は少し真面目な声色になった。
「そういうさ、話しかけてくるタイプの死人ってのはさ、そもそも自分が見えてるかをめちゃくちゃ気にしてるわけだ。だから、見えてそうなやつに答えをもらわないと気が済まないんだよ。けど、“避けてる?”って聞いてくるやつはたぶん、自分が意図的に避けられてる自覚がある。で、それを確かめに来てる。」
父の声が、受話器越しにやけに低く響く。
「あいつらは、気づいてもらった時点で、避けられてないって安堵できるんだ。だから、君がリアクションするまで何度でも来るよ。で、リアクションしても来る。気づいてもらうと、嬉しいから。要するに、つきまといが始まった時点で詰んでるわけだな。それ、たぶん生霊だから。」
タカラダくんの笑顔が、すっと引きつる。いつも人懐っこく、そして思慮深い言葉を発している口元の端は、ぎこちなく震えていた。
彼はしっかりと無視しているつもりだった。だがもしあの女が、父の推測通りの意図をもって現れていたのだとしたら。
タカラダくんは既に、避けることに失敗しているのかもしれない。
「…じゃあ、どうしたらいいのさ。」
私は、震える声を抑えるように父に尋ねた。生霊というやつは、並み居る怪異の中でもトップクラスに質が悪いと聞いている。
そんなものにくっつかれていたら、いくらタカラダくんといえど危険なのではないだろうかと思ったのだ。旋毛のあたりから、焦りがじわじわと体を侵蝕するような心地がした。何なら、ちょっと泣きそうだったかもしれない。
タカラダ君自身も青ざめ、クロくんも私の横で頭を抱えている。
しかしそこで父は、まさかの一言を繰り出してくる。
「あー大丈夫。今こっち来てるから。」
「………は?」
「なんかしゃべりすぎたみたいでな、めちゃくちゃ怒ってるなあ。まあ、うまくいけばそのままタカラダくんから離せると思うよ。まったく、めんどくさいものを送ってくれたなあ。」
「…うまくいけばって、どうやるのさ。父さんは平気なの?」
「簡単だよ。今から俺は、この女にめちゃくちゃタカラダくんの悪口を吹き込む。あることも、ないこともだ。」
「えっ。」
「えっ。」
「えっ。」
相手の質の悪さに対し、父が提示した撃退方法はあまりにシンプルだった。
要するに、タカラダくんに執着する女に対して、彼のあることないことをめちゃくちゃ言いまくり、幻滅してもらおうという作戦らしい。
そしてその宣言通り、父はそのままタカラダくんのあることないことを、怒涛の勢いでめちゃくちゃ吹き込んだ。
父は持ち前のストーリーテリング能力で残念なタカラダくん像を即興で作り上げ、その結果「彼女が7人いて、日替わり定食と呼んでいる」「実は親から貸してもらった2000万円を一瞬で溶かした上に、まだ返済していない」「パンツを三日に一回しか変えない」という、掻い摘んだ内容を列挙するだけでも、とんでもなく不潔なクズ男が出来上がったのであった。
怖がっていたはずのクロくんは、いつの間にか机に突っ伏して震えている。おそらくこれは、声を殺して泣きながら爆笑しているやつだ。
…君は優しいから、笑っちゃダメだと思ったんだよね。わかっているよ。
その時、タカラダくんを取り巻いていた淀みの気配が、かすかに揺れたような気がした。
それと同時に、父の声にも微妙な戸惑いが混じる。
「…あれ、離れたかな。うーん。終わったっぽい。」
タカラダくんは、珍しく顔色を赤くしたり青くしたりして疲れたのか、下を向いたまま動かなくなってしまった。
ようやく笑いを撃退して起き上がったクロくんが、そんなタカラダくんの様子を見たせいで再び突っ伏して震え始める。
私もつられて思わず吹き出しそうになったが、背筋にじわりと残る不穏な気配はまだ、完全に取り切れてはいない気がした。
しかし、父の満足そうな声がこの場の空気を和らげる。
「うまくいったな。あいつ、まんまと幻滅したみたいだ。俺にまんまと踊らされやがって、バカめ。」
「それと同時に、とんでもないクズの濡れ衣を着せられた男が誕生しちゃったけど…。」
私は呆れ混じりに言った。この数分で、クズの煮こごりの濡れ衣を着た男になってしまったタカラダくんは、まだ下を向いたまま、かすかに呻くように声を出す。
「7人同時に付き合って日替わり定食どころか、歴代の彼女トータルしても7人いないよ…金だって一銭も借りてないし…。」
「パンツは三日履いてんのかよ。」
いくら生霊を断ち切るためとはいえ、とんでもない不名誉な作り話の被害者となったことに打ちひしがれるタカラダくんは、クロくんの軽口に顔を真っ赤にして彼の肩を軽く殴り、そしてようやく笑った。
「まあ、まだしばらくは出ると思うけど、でも多分もう大丈夫だと思う。」
「…根拠なに?」
私の言葉に父は答えることはなかった。しかし、彼を取り巻く淀みはずいぶんと薄い。
こうして、恐怖と爆笑と、そしてタカラダくんから漂う羞恥の余韻に包まれて寝づらくなった私たちは、その日は一緒に映画を観て、朝まで起きて過ごすことになったのだった。
その後、赤いトレンチコートの女は、たびたびタカラダくんの家の近所に現れたが、二度と話しかけてくることはなかったそうだ。
そして、生霊を飛ばしたと思われる女に彼氏ができたという噂が流れたころ、父の予想通り現れなくなり、その姿を見ることはなくなったという。
結果として、私の父による「即興でダメ男に仕立て上げて幻滅してもらう」という怪異退治は大成功を収めたのだろうが、あまりに残念にしすぎたせいもあってか、相談者のタカラダくんからお礼を言われることは、終ぞなかった。
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