本の虫ホイホイレッド
突然だけど、私はものすごく本が好きだ。
実の母をもってしても「あんたは昔から性格も口も悪かったけど、本を与えておいたらよく読んで大人しくなる子だった」と言われるような子供だった私は、大人になった今でも夫に「お前の本で床抜けるわ」と言われるくらい本をため込んで暮らしている。夫と結婚していなかったら、本と結婚していたんじゃないかと自分で自分を疑うほどだ。
幼い頃から順調に本の虫として立派な成長を遂げていた私は、もちろん高校時代も周囲が引くほどの量の本を持ち歩き、それを全て読み漁って暮らしていた。昼休みや部活に出ていない日の放課後には、バイトの時間までほとんどを図書室に引きこもって過ごしているほどだった。
そんな私の耳に、ある日「おもしろすぎて読んだ人の精神をぶち壊して廃人にする本が、うちの学校の図書室にある」という、決して放っておくことはできない噂が舞い込んできた。
文字通り、読んでいる人の精神を破壊するほど面白い本が存在していて、それが自分が通う学校の図書室にひっそりと存在している、というその噂は、聞いたそばから私の好奇心を爆発させるには充分だった。こうしちゃいられない。
私はその日、風邪をひいたことにしてわざわざバイトを休み、放課後になると同時に図書室へ走った。
図書室のドアを元気よく(しかし静かに)開くと、そこにはすでに図書委員のタカラダくんがいた。
彼は私と同じクラスで、私の机の上に置いてあった文庫本を勝手に読んで「めちゃくちゃ面白かった!」と感想を伝えたばかりに私に気に入られてしまった、気の毒な男である。
しかし彼はいつもイヤな顔ひとつせず私の本談義に付き合って、読みたがっていた本が図書室に入荷することが決まると、いつもこっそり本棚に並ぶ日を教えてくれていた。なんなら私が図書室に行くまでお勧めの本をカウンターでこっそりキープしてくれていたりもする、まさしく聖人のような御仁である。
その日もタカラダくんは爽やかな顔面に爽やかな笑顔を浮かべながら、息を切らせて挙動不審に図書室へ入っていった私に気軽に話しかけてくれた。
「ちよさんお疲れ。こないだ読んでたやつの新刊入ったよ、借りてく?」
バカヤロウ!借りるに決まってるだろう!でもそれは借りるけど、今日は目当てが違うんだな。それは借りるけど。
私はそう思いながら彼に本のキープをお願いし、室内をウロウロし始めた。
噂のその本は作者もどんなジャンルの本なのかもわかっておらず、判明しているのは目がダメージを受けるほど赤い表紙であるということと、文庫本サイズであるということくらい。
全部の本棚をしらみつぶしに探してみるが、見た感じそれっぽいものは見当たらない。
私としたことが、デマに踊らされたのだろうか。本好きの探求心を弄ぶなんて、その噂を最初に流したやつの脛を、強めに蹴ってやりたい。
ため息をつきながら適当に面白そうな本を数冊見繕い、根暗らしく一番日の当たらない、薄暗い席を確保した私はそれを読み始めた。
目当てのものは見つからなかったけれど、読みだした本は面白かった。没頭しているうちに落胆する気持ちはある程度落ち着けることができたと思う。
そうこうしているうちに、外はあっという間に暗くなっていた。バスがなくなってしまう前に、残りは借りて帰ろう。
名残惜しさで尻がイスに張り付くような気持ちだが、切り上げることを決めて顔を上げると、ちょうど私に声をかけようとしていたらしいタカラダくんがすぐそばに立っていた。
「そろそろ閉館だけど、ちよさん今日は何冊?」
「さっきキープしてもらった新刊と合わせたら4冊かな。いい?」
「了解、相変わらずすごい量読んでんね。今日はなんか探してたみたいだけど、見つけられた?」
「いや、デマだったみたい。あるわけないよね、読んだ人を廃人にするほどオモロい本なんて。」
「ん?もしかして最近噂になってるめっちゃ赤いやつ?あるよそれ。」
「あるんかい。」
タカラダくんはカウンターの中にあった「未分類」と紙が貼られた箱の中からそれを取り出して、ものすごく気軽に「はい」とそれを手渡してきた。
一応、学校の怪談扱いになっているアイテムを、そんな週刊マンガを回し読みするみたいにおいそれと渡していいものなのかよ。嘘すぎだろ。
この時点で私はその噂がデマであることを確信したが、とりあえずそれを受け取った。
「それ、ジャンルがまだ未分類でさ。ざっと読んで分けないといけないんだけど、誰も内容知らないし、そんな噂あると読むのも怖いじゃん?だからおれ、まだ読んでなかったんだよね。貸出自体は問題ないから、もしよかったらちよさん先に読んでいいよ。」
「そんなら、私が読んでみて、どんな話だったかタカラダくんに伝えようか?それならわざわざ読まなくてもいいし。」
「ホント?助かるよ、ありがとう。でも噂通り変な本だったら処分するから、ちよさんはそれ以上読まないでね。ないと思うけど、なんかあってもイヤだし。」
「お前私のこと好きだろ!?」
「うん好きだよ好き好き。はい、今日は5冊だね。他の本はいつも通り10日で返却だけど、赤いやつはそれ、いつでもいいから。」
「流すなよ!」
タカラダくんは軽く笑って、じゃあまた明日ね、と私を送り出した。とてつもなくあっさりと呪物クラスのアイテムを手に入れることに成功した私は、足取りも軽やかに自宅へ急いだ。
そうして帰宅すると、制服から着替えることもせずに借りてきた本を鞄から出す。ミステリーが4冊と、目に毒なくらい赤い本が1冊。
私は先ほど急いで図書室を出てきてしまっていたせいでよく見ていなかった、赤い本を手に取った。
この間見学に行ったデザインの専門学校の体験でブックカバーを作った時、講師が「表紙は本の顔、物語は性格のようなもの」と言っていたのを思い出す。
実際、私が今日借りてきたミステリーの本4冊も、きちんと物語の内側を表すような美しい表紙で目を引くように作られているようだった。この当時、「携帯小説」というものが主流になりつつあって、私の周りでもかなり読んでいる人たちはいたけど、私はそういう工夫も込みで、本というものが好きだ。
しかしどうだろう、読む人の精神をぶち壊すとまで評されるその本の表紙は、手に取ってもらうための工夫どころか、まるで鳥を避けるために毒々しい色をした虫を思い起こさせるような、手に取るのをためらわせる赤色をしているだけだ。写真やイラストなどのイメージカットの類は勿論、タイトルも著者名も、裏表紙のあらすじも、なにも書かれていない。
はじめは出版社のカバーを外して自作カバーをつけたのだろうか、と考えたが、さっきタカラダくんから受け取る時に確認したらカバーがない本のようだった。
要するに、カバーを外した状態の本そのものが真っ赤なのだ。誰かが意図的にカバーを外して処分したのか、そういう装丁なのか。
借りて帰宅するまではあんなにウキウキしていたのに、色々考えすぎて私はなんだか面倒になってきてしまった。
先に、読みかけで帰ってきてしまった古いミステリー小説を最後まで読んでしまうことにしよう。私はその赤い本も他の本と一緒にテーブルの端に追いやって、読みかけの本を開いた。
…玄関からの物音で、私は我に返った。両親が帰宅したようだ。珍しいな、いつもは割とバラバラに帰ってくるんだけど、合流して買い物でも行っていたのだろうか。
すっかり読書に入り込んでしまっていて気づかなかったが、いつの間にか数時間が経っていたようだ。
一度休憩しよう。私は首をゴキゴキと鳴らしながら、台所にお茶を入れに行くことにした。
お湯を沸かすのと並行して、お菓子でも入っていやしないかと棚の中を物色していると、ちよ、と背後から父の声がかかる。
「おい、お前これどうした」
そう尋ねる父は険しい表情を浮かべていて、その手にはあの赤い本があった。改めて見ても引くほど赤い。
私はうっすらとばつが悪い気がしつつも、正直に、なんか学校で面白いって噂になってたから、図書室で借りてきたということを説明する。
父はふーん、とだけ言って、その本をまじまじと観察していた。しっかりと観察しているのに、決して中を見ようとはしないところに違和感を覚える。
私とそう変わらないほど本が好きな父は、私が読んでいるものに興味深いものがあればいつも横から奪って、パラパラと流し読みしているというのに。
「これ、絶対読むなよ」
「なんでえ!?」
「なんででもだよ、これはダメ。戻ってこれなくなる。」
それくらい面白いのがこの本借りた最大の理由だっていうのに、それを読むなとはなんと残酷な。目の前で最大の楽しみを取り上げられた私は、思わずなぜその本を借りてきたのかについて、その経緯を改めて説明する。
父はそれをうんうん、と頷きながら聞いていたが、その顔が絶妙にニヤニヤしていたので私も話に熱が入り、それはまさしく力説と言って遜色ないものになった。
そして一通り喋って疲れた私が黙った時、父は近づいてきてふう、と一息つき、そして私のほうを、まるで気の毒な人を見る目をして見てくる。おいやめろ、なんだその目は。
「で、誰から聞いたの。その、肝心の精神ぶち壊すほどおもしろい本の噂ってやつは。」
私はすぐに口を開きかけて、そしてすぐ黙った。その噂を口にしていた人の事が、きれいさっぱり抜け落ちている。
タカラダくんに貸してもらったいきさつとか、そういうことはちゃんと覚えているのに、肝心の元の噂をどこから聞いたのか。そこだけが、まるで切り取ったかのように思い出せない。
「…えっとね、確か…誰から…誰だっけェ!?」
「ほらみろ。そういうもんだよこれは。とにかくこれは俺が預かる。その、なんだ、図書委員の子にはうまく言っとけ。」
「うまくって何だよ!」
私があまりにめちゃくちゃな父の言い分に大声でツッコミを入れると、好きなの10冊買ってやるから諦めろとなだめられてしまった。そんなあぶないのその本!?と思ったけど、父はその本でパタパタ自分を扇ぐようにしながらヘラヘラして、ちよ、と言った。扇ぐなよ、呪いのアイテムでと私は思ったけど、黙って次の言葉を待った。
「思い出せない!で済んでるうちは、まだ安全なんだよ。」
父はそれだけ言うと、ワッハッハ!と大笑いしながらその本を持ってどこかに出かけていった。数時間後、父はそこそこ酔っぱらってご機嫌で帰宅したが、あの本は結局そのまま、私の手元に戻ることはなかった。
私は翌日、気まずい思いに胃をキリキリと痛めながら、タカラダくんに謝罪した。しかしそんな私の様子に反して彼はあっけらかんとした様子で、まだ蔵書として未登録の本だし、誤魔化せるから大丈夫、と笑って許してくれた。
私はせめてものお詫びにと買ってきたシュークリームと飲み物を差し出しながら改めて彼に頭を下げた。
「いいよいいよ、そんな気にすることじゃない。実際おれ、あの本あんまり図書室に置きたくなかったから、実はこっそり処分しようと思ってたくらいなんだよね。」
「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。でもタカラダくん、読むのも嫌がってたしそんなに怖がりだったっけ。」
「怖がりっていうか…」
そう言うと、彼はとりあえず私の手からお詫びの品が入った袋を受け取って苦笑いをした。
「昨日は黙ってたけど、おれね、本当はあの本何度か読んでるんだよね。」
「ええ…?」
「ちよさん忘れてた?図書委員だよ、おれ。だから、ジャンル未分類の本をざっとだけ読んで、蔵書を分けたりする仕事がある。で、読み終わった時にはすごく面白かった、って記憶だけはあるんだ。でも肝心の内容を思い出せないからもう一回読むんだけど、読み終わるころには面白かった、ってこと以外は忘れてる。で、それだと仕事にならないからまた読む。最後に読んだ時には、面白かったって感想すら、前に思った気がするなあって自分で自分の記憶が薄くなってた。」
「イヤな仕事だねえ!?」
「そうでしょ、だから正直誰かが読んでくれるとめちゃくちゃ助かるって思ってたんだよね。そこに昨日ちよさんが来たからさ、ハイ!どうぞ!って。だからむしろごめん。」
「聞きたくなかったわそれー…。」
「だから、ごめんって。そんなわけだから実際のところ、これ以上訳の分からない思いをする人が増える前に、ちよさんのお父さんがどこか持ってってくれてよかったんじゃないかっておれは思ってるんだよ。ちよさん、たぶんあの噂誰から聞いたか思い出せないでしょ。おれもそうなんだよね。気持ち悪いじゃん、そんなの。」
そこまで言うと、タカラダくんは渡したばかりのシュークリームを半分に割って渡してくれた。爽やかな顔面に爽やかな笑顔を作って、サイダーのCMかというくらい爽やかな行いをしよる。これだからいいやつなのだ、彼は。
タカラダくんは実際にこの本を読んでいると聞いて少し心配になったけど、父が昨日言っていた「思い出せない!で済んでるうちは、まだ安全なんだよ。」という言葉を思い出して、内心で胸をなでおろす。
さらに私は差し出されたシュークリームを受け取って一口かじり、別の言葉も思い出していた。
「その本って実際、読まれたかったのかな?」
「うん?」
私が思い出したのは、「表紙は本の顔、物語は性格のようなもの」という、見学に行った専門学校の講師の言葉だった。もしあの言葉が本当にその性質を表すものだとしたなら、昨日父に取り上げられてしまったあの本は、どんな性格をしていたのだろうと気になってしまう。
私は、何言ってるかわからないみたいな顔をしているタカラダくんにその話をしてみた。彼は一口でシュークリームを食べきって飲み物で口を潤すようにしながらそれを聞いていたが、ちょっとだけ考えてうーん、と言葉を発し、そのまま続けてこう言った。
「わかんないけどさ、性格悪い本ってことだけは確かだよね。」
…違いない。私が笑うと、タカラダくんも笑った。
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