第9話「あの、俺、あなたとは、初対面なんですが…」



「…で、君は、彼女を病院に連れて行ってくれ、と」

警察官は、おれの言葉を、まるで自分のセリフだったかのように、繰り返した。


あれだけ「彼女が優先だ」と言っておきながら、今度は「君が連れて行け」か。

いや、まあ、それも、あの状況では、当然の成り行きだろう。泣き崩れた女性を、このまま放っておくわけにはいかない。


しかし、おれの心は、もう、怒りとも、呆れとも、諦めともつかない、複雑な感情でいっぱいになっていた。

「ああ、そうしますよ。連れて行きますよ。俺が」

おれは、力なく、しかし、はっきりと言った。


警察官は、満足げに頷いた。

「そうか。頼む。君のその『行動力』は、我々も認めるところだ。彼女への配慮も、君ならできるだろう」


配慮?

まさか、おれに、彼女への配慮を期待しているのか?

おれは、彼女に、振られたわけでも、一方的に好意を寄せていたわけでもない。

ただ、目の前で、ビルから落ちてきた(あるいは飛び降りた)彼女を、無我夢中で、この、もう使い物にならない両腕で受け止めただけだ。


「…あの、俺も、腕が…」

おれは、両腕の激痛を訴えようとした。


「ああ、君の怪我についても、後でちゃんと診察を受けるように。救急車は、彼女のために呼んだが、君も、必要なら、後からちゃんと診てもらえるから」

警察官は、どこか他人事のように言った。


後から、ね。

その「後」が、いつ来るのか、まったく見当もつかないが。


おれは、泣き止んだものの、まだ時折嗚咽を漏らす彼女を、お姫様抱っこのまま、ゆっくりと立ち上がった。両腕に走る激痛が、まるで「お前はまだ戦いが終わっていない」とでも言うように、おれを苛む。


「…大丈夫か?」

おれは、彼女の顔を覗き込んだ。

彼女は、うつむいたまま、小さな声で「…はい」と答えた。


「…あの、俺、腕が、ちょっと…」

おれは、正直に、今の自分の状態を伝えようとした。


「…ごめんなさい」

彼女は、まるで、その言葉を待っていたかのように、静かに言った。

「…あなたが、傷つくなんて、思わなくて…」


傷つく?

いや、傷ついているのは、おれの方だ。

物理的に、この両腕が、完全に破壊されている。


「いや、あの…怪我は、まあ、仕方ないとして…」

おれは、言葉を選びながら言った。

「あの、俺、あなたとは、初対面なんですが…」


彼女は、その言葉に、ゆっくりと顔を上げた。

そして、おれの顔を、じっと見つめた。

その瞳に、先ほどの悲痛な色は消え、代わりに、困惑と、ほんの少しの「理解」のようなものが浮かんでいるように見えた。


「…初対面…?」


「そう。俺は、あなたに、振られたなんて、一切、記憶にありませんし…」

おれは、もはや、開き直るしかなかった。

「俺は、ただ、あなたが落ちてきたから、助けただけです。それだけなんです」


彼女は、おれの言葉を、じっと聞いていた。

そして、やがて、彼女の顔に、驚きが広がった。

「え…?じゃあ、あの…警察官に、私が、あなたに振られて、なんて…?」


「そう言ったらしいですよ」

おれは、苦笑いをした。

「警察官の方は、俺が、あなたの『飛び降り』を隠蔽しようとした、とか、そういう風に、勘違いしているみたいで…」


彼女は、きょとんとした顔で、おれを見た。

そして、やがて、ぽつりと、呟いた。

「…じゃあ…あの…」


「なんだ?」

おれは、彼女の言葉を待った。


「…私…誰かに、振られた、と、勘違いして…それで…」

彼女は、顔を赤くして、言葉を続けた。

「…あの、私…実は、今、すごく、落ち込んでいて…でも、誰かに、慰めてほしくて…」


…慰めてほしくて?


おれの頭の中は、もはや、まったく予想していなかった展開で、ぐちゃぐちゃになっていた。

彼女は、振られたわけではなく、ただ、誰かに、慰めてほしかった?

それで、ビルから飛び降りようとした?


「…だから、あなたに…その…」

彼女は、おれの顔を、じっと見つめ、そして、まるで、小さな秘密を打ち明けるように、続けた。


「…あなたに、『振られる』という…そういう、ドラマチックな展開を、自分で作り出して、それで、誰かに、助けられて、慰めてもらおう、と…」


…は?


おれの、全身の血が、逆流するかのような衝撃を受けた。

つまり、彼女は、自らの「寂しさ」や「落ち込み」を、ドラマチックに演出し、それを「振られた」という設定にして、誰かに「救われ」て、慰めてもらおうとした、と。

そして、その「誰か」として、たまたま、あの場所にいただけの、おれが選ばれてしまった、と。


「…全く、怒」

おれは、もはや、怒りを通り越して、虚無感に襲われていた。

両腕の激痛も、先ほどまでの混乱も、すべてが、この、あまりにも、おかしすぎる「真実」の前では、些細なことに思えた。


「…で、その…俺の腕は…」

おれは、かすかな希望を込めて、尋ねた。


彼女は、おれの腕に視線を移し、そして、ようやく、その意味を理解したように、顔色を変えた。

「あ…!あなた、腕が…!ごめんなさい!私…」


「…まあ、いいです」

おれは、彼女の言葉を遮るように言った。

「それより、病院に、行きましょう。俺も、診てもらわないと…」


おれは、泣き止んだ彼女を抱き抱えながら、新宿の喧騒の中へと、ゆっくりと歩き始めた。

両腕の激痛は、相変わらずだが、それ以上に、おれの心には、この、どうしようもない「馬鹿馬鹿しさ」と、「虚しさ」だけが、重くのしかかっていた。


(笑)

いや、もう、笑えない。

ただ、ただ、この、おかしすぎる現実に、戸惑うばかりだった。

そして、あの「助けた」という行為が、結局、何だったのか、まったく分からなくなっていた。

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