『チャリティドラマ!彼は彼女を救う!』
志乃原七海
第1話。『ぜんぶ受けてやる』
新宿東口のスクランブル交差点は、音と光と欲望がごちゃ混ぜになった巨大なミキサーだ。外国語の嬌声、けたたましい広告のメロディ、アスファルトを叩く無数の足音。誰もが自分の目的のためだけに、互いを風景として通り過ぎていく。
おれもその風景の一部だった。イヤホンで耳を塞ぎ、世界を遮断する。再生されるのは昨日と同じプレイリスト。スマホの画面に流れるタイムラインも、昨日とさして変わらない。他人に興味はない。世界がどうなろうと知ったことじゃない。おれはおれの時間を、ただ無感動に消費するだけ。
その、鉄壁のはずのイヤホンを、鋭利な刃物のように突き破る音がした。
「きゃーーーっ!!」
「うわーーーっ!」
劈(つんざ)くような女の悲鳴と、それに呼応する男の野太い声。
音楽が止まった。いや、おれが止めたのか。反射的に顔を上げると、交差点の誰もが、まるで示し合わせたかのように同じ一点を見つめていた。空を。
つられて見上げた視線の先に、それが飛び込んできた。
黒い、シミのような影。
ビルとビルの間の、切り取られた青いキャンバスを、信じられない速度で落ちてくる。
人だ。ワンピースの裾を風にはためかせた、ひとりの女性だった。
時間が粘土のように引き伸ばされる。スローモーションの世界で、彼女の髪が宙に舞い、手足が無防備に投げ出されているのが見えた。なぜ?どうして?思考が追いつかない。だが、おれの身体は、脳の指令を待たずに走り出していた。
「危ない!」
誰かの声がする。人波をかき分ける。邪魔だ。どけ。心の中で叫びながら、落下予測地点へと突き進む。理由はわからない。義務感でも、正義感でもない。ただ、そうしなければならないという、本能的な衝動だった。
訳も分からず、両手を差し出す。祈るように。受け止められるはずがない。素人が、ビルから落ちてくる人間を?馬鹿げてる。それでも、おれは腕を広げていた。
――ドンッ!!
衝撃。ずしりとした生命の重み。想像していたような骨の砕ける感触ではなく、驚くほど柔らかく、温かい塊がおれの腕の中に収まった。ふわりと、シャンプーの甘い香りが鼻をかすめる。
おれは、彼女をお姫様抱っこの形で、確かに抱きとめていた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、世界は爆発したような喧騒に包まれた。
「うおっ!」「受け止めたぞ!」「すげえ!」「誰か救急車!」
スマホを構える人、指をさす人、ただ呆然と立ち尽くす人。周りは一瞬にして野次馬の壁に変わった。信号などお構いなしに車が急ブレーキを踏み、交差点の真ん中で立ち往生する。抗議と驚愕が入り混じったクラクションだけが、耳障りなファンファーレのように鳴り響いていた。
腕の中の彼女は、固く目を瞑ったまま、小さく身じろぎした。生きている。その事実に、全身の力が抜けそうになる。
やがて、人垣をかき分けるようにして、二人の警察官が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!しっかりしなさい!君、状況は!」
矢継ぎ早に質問を浴びせられる。だが、おれは何も答えられなかった。ただ、腕の中の温もりと重みだけが、現実感を伝えてくる。
その時だった。
腕の中の彼女が、ゆっくりと瞼(まぶた)を開けた。長い睫毛が震え、透き通った瞳がおれを捉える。パニックでも、恐怖でもない。ただ、どこまでも静かな、凪いだ湖のような瞳だった。
彼女はおれをじっと見つめると、小さな、しかし凛とした声で言った。
「あの、降ろしていただけますか?」
その一言で、世界から音が消えた。いや、けたたましいクラクションも人々のざわめきも聞こえているはずなのに、おれの頭の中だけが、しんと静まり返った。
腕の中に残る確かな重みと、彼女の冷静すぎる声。
おれは、ただ呆然と彼女を見つめ返すことしかできなかった。
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