第4話「三ヶ月の終わり、新たな始まり」
空中移動魔法施行から二か月と三週間。私は魔法省での生活にすっかり慣れていた。
朝の通勤でも、空中を移動する人々を見るのが日常になった。最初は驚いていたのが嘘のようだ。
「つばささん、おはよう」
「おはようございます。今日の情報は?」
「空中移動魔法、来週で終了よ。各方面、寂しがってる人が多いわね」
そうだった。魔法は三か月で効力を失う。もうすぐ、あの賑やかな空も静かになる。
「高齢者向け空中移動教室、好評だったみたいですね」
「ええ。各地の公民館から『続けてほしい』って要望が来てるわ」
私たちが企画した高齢者向け教室は、思った以上の成功だった。安全な高度での移動方法を教えることで、立ち往生する事案は激減した。
「でも魔法が終われば、教室も...」
そこまで言いかけた時、課長が現れた。いつもの胃薬ではなく、分厚い資料を抱えている。
「おはようございます」
私たちが挨拶すると、課長は少し疲れたような、でもどこか安堵したような表情を見せた。
「
「何でしょうか?」
課長は資料を机に置いた。
「昨夜、臨時国会で新しい魔法が可決された」
私は覚悟した。また新しい混乱が始まるのだろうか。
「今度は何の魔法ですか?」
「『恋人召喚魔法』だ」
文鳥山先輩のあんぱんが、手から落ちそうになった。
「恋人、召喚?」
「ああ。独身の国会議員が『少子化対策』として提案したらしい」
私は頭がくらくらした。空中移動魔法でも十分大変だったのに、今度は恋人召喚?
「具体的には、どのような...」
「『国民は理想の恋人を召喚できる』。法律の条文はこれだけだ」
課長は胃薬を取り出した。やっぱりいつもの課長だった。
「また文言が
「そうなんだ。『理想の恋人』が何を指すのか、『召喚』がどういう現象なのか、詳細は一切書かれていない」
その時、のぞみさんが血相を変えて駆け込んできた。
「課長!記者からの問い合わせが殺到してます!」
「もう報道されたのか」
「はい!『魔法省、今度は恋愛に介入』って見出しで」
私は窓の外を見た。まだ空中移動魔法は有効なので、人々が空を飛んでいる。その上に、今度は恋人が召喚される?
想像しただけで混乱必至だった。
「いつから施行ですか?」
「来週の月曜日。空中移動魔法が終了した翌日だ」
つまり、ほとんど準備期間がない。
「燕野君」
課長が私を呼んだ。
「君はこの二か月間、本当によく頑張ってくれた」
「ありがとうございます」
「それで...申し訳ないが、相談がある」
課長は珍しく、言いにくそうにしていた。
「何でしょうか?」
「君は、文部科学省を志望していたよね」
私の心臓が跳ねた。
「はい」
「実は、文科省から人事交流の打診があった。君のような優秀な職員を貸してほしいと」
私は言葉を失った。文部科学省。私の夢だった職場。
「もちろん、強制ではない。君の意思次第だ」
課長は続けた。
「だが、君の能力なら文科省でも十分活躍できるだろう」
私は混乱した。二か月前なら、迷わず「はい」と答えていただろう。
でも今は...
「少し、考えさせてください」
「もちろんだ。返事は来週でいい」
課長はそう言って、資料を整理し始めた。
昼休み、私はのぞみさんと一緒に、いつもの喫茶店「さざんか」にいた。
「つばささん、文科省のお話、どうするんですか?」
のぞみさんが心配そうに尋ねた。
「わからないんです」
私はほうじ茶の香ばしい香りを吸い込んだ。この香りも、魔法省での日常の一部になっていた。
「最初は、絶対に文科省に行きたいと思ってました」
「今は違うんですか?」
「今は...この仕事も、意味があるなって思うんです」
私は窓の外を見た。空中を移動する人々が、穏やかに飛んでいる。
「高齢者の方を救助した時、『ありがとう』って言ってもらえて」
「つばささんがいなかったら、大変なことになってましたもんね」
「それに、課長も文鳥山先輩も、みんな国民のことを本当に考えてる」
のぞみさんは頷いた。
「私も最初、広報課に配属された時は戸惑いました」
「そうなんですか?」
「はい。記者会見とか、苦手だったんです。でも、正確な情報を国民の皆さんにお伝えするのって、大切な仕事だなって」
私たちはしばらく黙って、お茶を飲んだ。
「でも、文科省は憧れの職場ですよね」
「そうですね...」
喫茶店を出ると、文鳥山先輩が待っていた。
「つばささん、課長からの件、聞いたわ」
「はい」
「私の意見を聞く?」
「ぜひ、お聞かせください」
文鳥山先輩は、いつものようにお菓子を取り出した。今度は大福だった。
「あなたって、この二か月で変わったのよ」
「変わった?」
「最初は『なんで魔法省なんかに』って顔してたじゃない」
私は苦笑いした。確かにそうだった。
「でも今は、この仕事に誇りを持ってる。それって、大切なことよ」
「でも、文科省は...」
「夢を追うのも大切。でも、今いる場所で花を咲かせるのも大切」
文鳥山先輩は大福を一口食べた。
「どっちを選んでも、あなたなら大丈夫」
午後、私はデスクで来週からの恋人召喚魔法の資料を整理していた。
予想される問題点がいくつもリストアップされている。
・召喚された恋人の法的地位
・既婚者への対応
・未成年者への適用制限
・召喚恋人同士の関係
どれも複雑で、正解のない問題ばかりだった。
「燕野君」
課長が声をかけてくれた。
「はい」
「文科省の件、プレッシャーに感じる必要はないからな」
「ありがとうございます」
課長は私のデスクの横に立った。
「君がここにいてくれて、本当に助かった」
「私こそ、色々教えていただいて」
「でも、君の人生だ。自分が一番納得できる選択をしてくれ」
その時、夕日が窓から差し込んできた。空中を移動する人々が、金色に輝いて見える。
私は思った。
この光景を見られるのも、あと一週間。
そして来週からは、また新しい混乱が始まる。
でも、それを乗り越えていくのが、私たちの仕事。
私は窓の外のツバメを探した。いつものように、小さな影が空中を舞っている。
ツバメは長い旅をして、必ず帰ってくる。
でも、旅の途中で新しい巣を作ることもある。
私はまだ答えを出せずにいた。
でも、焦る必要はない。
来週まで、じっくり考えよう。
私はそう決めて、恋人召喚魔法の資料に向き直った。
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次回:第5話「『恋人召喚魔法』可決のお知らせ」
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