第24話 ざくろいし〜Garnet

季節外れの長雨が、穴ぐらと相異ない暗く陰気な空間の天井を叩きつける。


大きな南京錠が、これ見よがしにぶら下げられた格子越しに見えるハユンは、気でも触れたかのような痛ましい声で、デソンがさっき目の前で連れ去った我が子を呼び続けた。


その声を聞いているだけで心が荒む。


ハユンが……まだ呼ぶ名前すら無い赤子が、不憫でならない。


すべてを、今すぐにでも木っ端微塵に砕いてやりたい衝動が、わたしの中に渦巻く。


しかし、目の前にあるのは幻の世界。

砂漠をさまよう旅人が見る蜃気楼のように、浮かんでは消える。

伸ばした手はチリひとつ握れず、声すら届かない。


だからこうして、より青々と染まっていくその世界をただ眺めていることしか出来ないのだ。


まるで、無力なわたしを写し出す、鏡のように。


◇◇◇


――それから、どのくらい時が経ったろう?

外からの光を完全に遮断されたこの場所では、それを知る術が無かった。


相変わらず振り続ける豪雨は、気配に耳を澄ますわたしの聴覚をも奪う。


ハユンは、既に涙も枯れ果てた様子で、こちらに丸めた背を向け、ぐったりと横たわったまま動かなくなってしまった。


時折、凍てつくような寒さからか、ピクリ、と跳ねる肩を見て、ようやくまだ生き絶えてはいないのだ、と知る。

ひとまわり小さくなった背中が、目を背けたくなるほど哀れだ。


なのに、不思議に思うこともあった。


こちらから僅かに覗き見える角の先端が、以前より鋭さを増しているように感じる。


いいや、鋭さだけではない。長さも、艶も……とにかくそれが、今までなかったほど際立って見えた。


動くこともできないほど衰弱しながらも、何か強い感情が、彼女を支配しているということなのか?

その事に気づいた瞬間、わたしは稲妻のような戦慄に青ざめた。


(……あれは、本当に、俺の知るハユンなのか?)


その時だ。


ぺたり、ぺたりという乾いた足音が頭上から聞こえた。

現れた看守が手に持つカンテラが、ぼう、と辺りを薄く照らす。


(駄目だ、来るな――!)


そう感じたことに、理由などなかった。

ただあるのは、得体の知れない不吉な予感だけだ。


看守が格子扉の前までくると、女は、後ろを向いたまま急にすくっと立ち上がる。


わたしの根拠のない疑惑に、まるで答えを出すかのように。

そして、体をゆっくりとこちら側に向けた。


――何という艶かしさだろう?


悩ましく光る爛れた瞳。

爛熟した赤すぐりの実のように鮮やかでつやつやした口元。


(あれは――)


確かに、ハユンには違いがなかった。

けれど、わたしは別の『何か』をふと思い出した。


しかし、濡れた手が心臓に触れたかのような恐怖がそれを打ち消し、そのまま激しく胸の中を躍動する。


「ねぇ……」


女は、その看守をじっとりと見つめ、掠れ声を漏らす。

そして、その男が引き寄せられるように鉄の格子に近づくと、焦らすような風情で腰紐を緩め、肩を抜き、白い胸をあらわにした。


――まるで誘うようにふぅっと息をつく。


身も心も狂うほどの女の色香を前に、その男は完全に我を失ってしまう。


そしてまるで呪術でもかけられたように朦朧とした様子のまま、女の言うがままに鍵を外し、格子の扉を開ける。


(開けちゃ駄目だ――!)


息苦しさを感じるほどの胸の鼓動。

それに、ハンマーで殴りつけられるほどの激しい頭痛が、まるで覆い被さるようにしてわたしを襲う。


気絶しそうなほどの痛みに耐えきれず、その場に蹲る。

激痛は、わたしの聴覚も視覚も、意識の外へと追いやってしまう。


(あれは――誰だったのか)


こんなに頭が痛むのは、それが『優臣』としてのものではない、『わたし』の失われた記憶であるからに他ならない。

だから、悶え苦しみながらもその答えだけを必死に探した。


しかし、脳裏のうりに瞬いた、その輪郭が再び姿を表すことはなかった。


――諦めると、潮が引くように、すぅっと激痛が引いた。



ふと、何とも嫌な、生臭い匂いが鼻をつく。

看守が仰向けに倒れている。

わたしは慌てて床に転がったカンテラが照らす、その男の足元に近づいた。


(うっ!)


それを見て、驚愕するしかなかった。


(何てことだ……)


足は鼠蹊部そけいぶから引きちぎられ、無残に転がっていた。


首も、腕も、バラバラに引き裂かれた肉片が床に散らばり、鮮血に覆われた床には、割った柘榴からこぼれたような、血の滴る真っ赤な肉片が、ところどころで光っている。


それが看守のものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


わたしは鳩尾から迫り上がるような酸味を両手で抑えながら、もう一度辺りに目を凝らした。


そこには既に、ハユンの姿は無かった。


[つづく]

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