第6話 だいだい〜 Orange
激しい火の手は一向に、収まる気配を見せない。
秋の夜空に青白く輝く月の視点で、わたしはその様子を見守っていた。
ここから見下ろすそれは、恐ろしいというよりはむしろ、光炎の照度だけが際立つ。そしてそれは、朱墨液を落とした様に、外側に向かってじわりじわりと広がっていく。
既に辺りには、そこを囲む様にして人だかりができていた。
火消しらが駆けつけ、鎮火に乗り出したものの、吹き付ける風に煽られ、激しさを増す炎を前に、途方に暮れている。
優臣は、燃え盛る母屋の前に呆然と立ちつくす数人の侍女たちに向かって、息を切らせながら必死に問いかける。
「何処だ? ハユンは何処に居る?」
しかし、命がけで逃げて来たばかりの彼女たちは、虚ろな目をして放心したまま口を利く事すらできない。
「頼む、答えてくれ! 中にまだ人はいるのか?!」
顔なじみだった一人の両肩を鷲掴みにしてぐらぐらと揺すると、わななく口元がようやく動き始める。
「ご主人様と奥様が……!
お嬢様も……いちどここまで一緒に逃げてきたのに――!」
「まさか、探しに戻ったのか?」
「ええ、ええ……!二人のお姿が見当たらないと、もう一度中へ――」
話終わるのを待たずして優臣は、一瞬の迷いも無く、さらに勢いづいた火の海に飛び込む。
彼女はその背中を祈るような気持ちで見つめていたが、突然何かに気付いたようにはっと息を呑んだ。
「……変ね、わたしの見間違いかしら?
――角。 優臣様に、角があったわ」
◇◇◇
天井が、柱が、バリバリと叫び、轟々と唸りながら次々に焼け落ちる。
それに重なる全く異質な秋の虫たちの声、木々のざわめきといった音。
それらが入り交じる歪んだ不協和音の残響が、グアン、グアン、と頭の中を掻き回す。
脳みそが粟立つような不快さに軽い目眩を覚えながらも、降り掛かる火の粉をはね除け、奥へ奥へと急ぐ。
ー 間に合ってくれ、どうか。
周りをどんどん飲み込んで大きくなる津波のごとく、既に手のつけられない程巨大化した炎の隙間を全速力で走り抜けながら、ただひたすら祈った。
「ハユン!ハユーン――!!」
名前を呼ぶたびに胸を突き上げる、激しい焦燥。
それは彼、優臣のものでもあり、『わたし』のものでもあった。
「ハユン! 何処だ、何処にいる――?!」
その時だ。
『ハユン』
強烈な既視感が、わたしの瞳を霞める。
わずかであっても鮮明な記憶に紐づく、
炎に包まれゆく宮殿。
そうだー。
あの時も、わたしは確かにその名を口にした。
瞬く間に広がる炎を前にして、どうする事もできずに。
◇◇◇
ふと気がつくと――
わたしは優臣として、ふたたびあの桜の木の下に立っていた。
ハユンを抱きかかえたまま、
鼻をすすると、まっ黒い骨組に成り果てた残骸から漂ってくる、きな臭さが奥の方を突いた。
……もうすぐ夜が明ける。
わたしの腕の中でこくこくと眠るハユン。
幼い子供のような寝顔に、
それに耐えきれなくなったわたしは、桜の花びらがびっしりと埋め尽くす、地面の上にハユンのからだをそっと横たえた。
……ようやく探し当てた3人は、一番奥にある夫妻の寝室の前で、もつれ合ったまま、床に倒れていた。
真っ先にハユンに駆け寄り、胸に耳を当てると、鼓動はまだ健在だった。
しかし他のふたりは、苦痛の跡を顔に貼付けたまま、白目を剥いて既に息絶えていた。
祈りをあげてやる
わたしは自分の手のひらを、見開かれたままの瞳にそっと当てがい、それを閉じた。
そして、ふたりを残し、ハユンを背中に担ぎ上げ、最後の力を振り絞るようにしてここまで逃げてきた。
それしか、なす術がなかった。
あいつらは、王、などとほざいていた。
けれど、なんて無力なんだ。
何の意味も無い。
……ぽたり。
それはわたしの瞳から溢れた涙で、黒い煤を溶かし、濁った筋となって米神へと滑り落ちていった。
……ぽたり、ぽたり。
救う事ができなかった。
彼女がそれまであたりまえのように手にしていたもの、何ひとつ。
今は安らかに眠るその
――どうしたらいい?
――何もかもがやかましくて、考えをまとめる事すらできない。
わたしは鬼族たちの住む世界をようやく知った。
そしてわかった事実がある。
……ハユン。
俺が打たれているときに漏らす、断末魔のような苦痛に喘ぐ悲鳴も、
夜が更けて、恋しくておまえの名を呟くときの熱を帯びた掠れ声も、
見えない明日につく、長い嘆息も――情けない独り言も。
おまえには、ぜんぶ聞こえていたはずだ。
なのに、おまえはいつも、俺に向かって花のように笑いかけた。
(ハユンはいつも、俺を救ってくれた)
そう呟いて、手を伸ばす。
しかし、それは空くうをつかむ。
――朝など、来なければいい。
永遠に明ける事のない夜を漂ただよって、明日など来なければ、どんなにかいいだろう?
わたしは、生まれて初めてそう願った。
しかし、無情にも、それはやって来る。
藍色の空の裾には、火の色に良く似た鮮やかな色彩がうっすらと滲み始めていた。
[つづく]
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