植物を愛した老人が転生したのは、なんと一塊の苔!?

@kusutohu1128

第一章 調和の目覚め

第一話 静寂の目覚め

# 第一話 静寂の目覚め


**世界で一番優しい苔らしい**


---


 最初に感じたのは、冷たさだった。


 それは頬に触れる風でも、足元に忍び寄る朝露でもない。存在そのものが冷たさと一体となり、境界を持たずに溶け合っているような——自分自身が、その冷たさの一部分であるかのような感覚。


 次に伝わってきたのは、微かな振動。


 規則正しく、ゆっくりと。まるで大地の奥底で巨大な心臓が脈打っているかのように、世界全体が静かに息づいている。その鼓動に合わせて、何かが自分の中を通り抜けていく。水?それとも別の何か?


 そして、匂い——いや、それは匂いとは違う。


 舌で味わうのでもない。もっと直接的に、細胞の一つ一つが情報を受け取っているような感覚。鉄錆のような、土のような、そして微かに甘いような。それらが複雑に絡み合い、この場所の「記憶」を語りかけてくる。


(ここは、古い。とても古い場所だ)


 その時、記憶の断片が意識の端に触れた。


 温室の、あの湿った暖かさ。翡翠葛ヒスイカズラの青い花房が、穏やかな風に揺れていた光景。午後の陽だまりで、妻と一緒に眺めた庭の草花たち。そして——最後に感じた、あの深い安らぎ。


「わしは...」


 声にならない想いが、意識の奥底で形を取ろうとする。


「わしは、静かに眠ったはずじゃった」


 混乱は、徐々に理解へと変わっていく。体がない。手足がない。目も、耳も、鼻も、口も。それなのに、世界がこんなにも豊かに感じられる。


 岩の表面の冷たい質感が、全身に——いや、全存在に染み渡っている。地中深くから湧き上がる水分が、細胞の隅々まで行き渡り、生命力となって循環している。そして、日陰の涼しさと、時折差し込む陽光の暖かさが、まるで呼吸をするように、ゆるやかに交替していく。


「これは...夢かの?」


 だが、この感覚は夢にしては余りにも鮮明だった。


 小さな虫が岩の上を歩く度に伝わってくる振動。遠くで鳥が羽ばたく時の空気の微細な変化。地面に落ちた一滴の露が持つ、天空の記憶。


 全てが、今までに経験したことのない方法で、意識に流れ込んでくる。


「まあ、よいか」


 相田静雄あいだしずおという老人が抱いていた達観が、この新しい存在にも受け継がれているのだろう。混乱は静まり、代わりに深い安堵が心を満たしていく。


「わしが望んだのは、静寂じゃった。争いのない、穏やかな時間じゃった」


 そして、今ここにあるのは、まさにその通りの世界。


 時の流れは人間のそれとは異なり、もっとゆっくりと、もっと深く。季節の移ろいを、年輪を刻むように味わうことができる。生命たちの営みを、せかすことなく見守ることができる。


 何者かに急かされることもなく、何かを成し遂げねばならない焦りもなく。


 ただ、在る。


 ただ、感じる。


 ただ、静かに、世界と共に息づいている。


「これもまた...悪くないものじゃな」


 新しい存在として歩み始めた最初の想いは、深い満足だった。


---


 時間が経つにつれて——それがどれほどの時間なのかは、もはや人間の尺度では測れないが——感覚はより鮮明に、より詳細になっていった。


 最初に気づいたのは、自分が岩の表面に「根を張っている」ことだった。


 根といっても、樹木のそれとは違う。もっと繊細で、もっと密やかな。髪の毛よりも細い無数の糸が、岩の微細な隙間に入り込み、そこから水分や養分を吸い上げている。


 そして、何より驚いたのは——光が、直接的に生命力に変わっていることだった。


 日が差し込む度に、身体の表面で何かが起こる。温かさが、そのまま活力となって全身に満ちていく。これは、人間の頃に学んだ知識で言うなら——


「光合成...じゃな」


 植物学者としての記憶が、現在の体験と重なり合う。葉緑素。二酸化炭素。酸素。生命の基本的な営み。それを、今度は自分自身が行っている。


 息をする必要がない。食べる必要がない。歩く必要がない。


 ただ、そこに在るだけで、太陽と大地と空気から、生きるのに必要な全てを得ることができる。


「わしは...植物になったということか」


 いや、もっと正確に言うなら——


 意識を集中させると、自分の「姿」が朧げながら感じ取れるようになってきた。岩の表面に薄く広がる、緑の絨毯のような存在。小さく、柔らかく、しかし確実に生きている。


「苔...じゃな」


 植物園で数え切れないほど観察してきた、あの小さな生命体。湿った場所を好み、目立たないが確実に存在し続ける、緑の小さな世界。


 それが、今の自分。


 奇妙なことに、その事実に恐怖や拒絶感は湧いてこなかった。むしろ、深い納得感があった。


「そうか...わしは、ずっと植物たちと共にあったからのう」


 人間としての生涯を、植物と共に過ごしてきた。彼らの成長を見守り、彼らの美しさに心を奪われ、彼らの静かな生命力に癒されてきた。


 だとすれば、今度は自分がその一員になることも、自然な流れなのかもしれない。


 風が吹いた。


 以前なら、ただの空気の動きとして感じていたであろうそれが、今は全く違って感じられる。風が運んでくる情報の豊かさに、意識が震える。


 遠くの花の香り。鳥たちの羽音。他の植物たちが放つ、化学的なメッセージ。そして——


「おや?」


 何か、自分と似た存在を感じた。


 岩の向こう側、少し湿った窪みに、同じような生命の気配がある。苔仲間、とでも言うべき存在たちが、静かに息づいている。


 彼らからは、敵意も競争心も感じられない。ただ、穏やかな共存の意志だけが伝わってくる。


「皆、一緒に生きておるのじゃな」


 それは、人間の社会では得難かった感覚だった。争うことなく、奪い合うことなく、ただ共に在ることを受け入れ合う関係。


 虫たちも、鳥たちも、そして恐らく周囲の草木たちも、皆が大きな調和の中で、それぞれの役割を果たしている。


 自分もまた、その一部なのだ。


「これは...素晴らしいことじゃ」


 人間の頃に感じていた孤独感が、綺麗に消えていることに気づく。一人ではない。決して一人ではない。森全体が、一つの大きな生命体のように感じられる。


 その中で、自分は小さな、しかし確実な役割を担っている。


 岩の表面を緑で覆い、小さな生き物たちに住処を提供し、雨水を蓄え、そっと酸素を空気中に送り出す。


 目立たない。派手ではない。しかし、確実に世界に貢献している。


「これこそが、わしの求めていた生き方かもしれんな」


 相田静雄あいだしずおとして生きた八十八年間を振り返る。植物園で、植物たちと共に過ごした静かな時間が、最も幸せだった記憶として蘇る。


 そして今、自分自身がその一員となった。


 これ以上の幸福があるだろうか。


---


 夕暮れが近づいているのだろうか。温かさが徐々に和らぎ、代わりに心地良い涼しさが忍び寄ってくる。


 人間だった頃なら、そろそろ家に帰る時間を気にしていたかもしれない。しかし今は、帰る場所を探す必要もない。


 ここが、自分の居場所なのだから。


「名前かのう...」


 ふと、そんなことを考える。相田静雄あいだしずおという名前で八十八年を生きてきた。今度は、何と名乗ればよいのだろうか。


 だが、すぐにその考えを苦笑と共に手放した。


「今さら、名前など気にしてどうするかの」


 人間の社会では、名前が重要だった。身分を表し、関係を規定し、個人を識別するための記号として。


 しかし、この静寂な世界では、そんなものは必要ない。


 風は名前など知らずに吹き、雨は誰彼構わず潤しを与え、太陽は分け隔てなく光を注ぐ。


 自分もまた、そのような存在になれば良い。


「相田静雄と呼ばれようと、何と呼ばれようと...いや、誰にも呼ばれずとも、わしはわしじゃ」


 大切なのは、名前ではない。どのように在るか、ということ。


 そして今、自分は確かに在る。小さく、静かに、しかし確実に。


 森の一部として、世界の調和の一端として、生命の環の中の一つとして。


「ゆっくりと学んでいこう」


 急ぐ必要はない。この新しい感覚、この新しい世界、この新しい生き方を、時間をかけて味わい尽くせばよい。


 季節が巡り、年月が流れる中で、きっと多くのことを知るだろう。この森に住む生き物たちのこと。空と大地の営みのこと。そして、自分自身の新しい可能性のこと。


 もしかすると、いつか誰かがこの場所を訪れるかもしれない。その時は、そっと見守ってあげよう。道に迷った者がいれば、微かな光で道しるべとなってあげよう。疲れた者がいれば、柔らかな緑で休息の場を提供してあげよう。


 それが、自分の新しい生き方。


 押し付けがましくなく、目立ちすぎることもなく、ただ穏やかに、必要とされた時にそっと手を差し伸べる。


「これこそが、本当の意味での植物園の園長かもしれんな」


 最後にそう思い、深い満足感と共に意識を森の静寂に溶け込ませていく。


 新しい章の、静かな始まり。


 それは争いも焦りもない、ただ在ることの深い充足感に満ちた時間だった。

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