第36話 絶対に逃せない。最大のチャンス

 私が『佐伯みのり』として過ごす日々は着実に進み、何もできないままに、早くもひと月が経とうとしている。


 毎朝鏡を見るたび、そこに映る美しい女子高生の姿に慣れてしまっている自分が恐ろしい。長い黒髪を梳かし、制服に袖を通す動作も、もはや自然に行えるようになってしまった。


 部屋に飾った男性向けの趣味の品々を見つめながら、私は毎日自分に言い聞かせる。


「俺は五十嵐隼人だ。絶対に忘れない」


 しかし、その宣言もむなしく、日に日に女性らしくなっていく自分がいた。意識しなければ、完全に佐伯みのりにのみ込まれてしまう。


 いまだに主人公の神代創太とは話をすることすらできていない。しかし後ろの席でヒロインたちとのやり取りを見ていると、中に入っているのは翔に間違いないと確信していた。


 長年一緒に過ごしていたんだ。あいつの癖や話し方は誰より良く知っている。


 困った時に頭をかく仕草、考え込む時の眉間のしわ、照れた時の苦笑い。全てが翔そのものだった。ゲームのキャラクターとしての神代創太の外見をしていても、その内面から滲み出る表情や動作は、確実に翔のものだった。


 特に、ヒロインたちの積極的なアプローチに戸惑っている様子は、女性慣れしていない翔らしさを如実に表していた。


「創太君、今度の日曜日空いてる?」詩織が上品な微笑みを浮かべながら誘う。


「え、えーっと……」創太が慌てふためく様子。


「私ともデートしてよ!」舞美が割り込んでくる。


「創太は私の幼馴染なんだから!」小鞠が抗議する。


 三人に囲まれて困っている創太の表情は、優柔不断な翔らしい典型的な行動に見える。


 『トキメキめめんともり』の進行状況としては、ヒロインたちとのファーストデートイベントが終わって、ヒロインごとに好感度に差が表れ始めるころだ。


 先週は詩織との図書館デート、小鞠は毎晩食事を作りに部屋を訪れているという。そして昨日はアイドルヒロインの舞美のライブイベントに行ったという話を聞いた。


 舞美のライブ会場で、ファンの暴漢から舞美を守るイベント。これは舞美ルートの最初の重要なフラグだった。創太がどのような選択をしたのかはわからないが、舞美の様子を見ていると、好感度は確実に上昇しているようだった。


「創太君のおかげで助かったわ。本当にありがとう」


 そんな舞美の言葉を聞くたび、私の心は複雑になった。翔がヒロインルートを進んでいることは、この世界からの脱出という観点では危険なことだった。


 次の大きなイベントはテスト勉強だ。確か中間テストの前に、誰と一緒に勉強するかを選択するイベントがあったはずだ。


 創太は誰を選ぶんだろう?


 確かこのイベントで誰と勉強するかで、主人公の学力パラメーターにボーナスがつく。詩織と勉強すれば大幅アップ、小鞠だと少しダウンするが代わりに体力がアップ、舞美とは勉強にならないが魅力パラメーターが上がる、という設定だったはず。


 まあ、このゲームは学力でルートが左右されることは少ないから、誰を選んでも今後の進行に大きな影響はない。重要なのは好感度バランスの調整だ。


 はたから見ていると、創太のプレイは舞美偏重の傾向がある。それはそれでいいのだけど、問題は詩織の不満度だ。


 小鞠は家が同じマンションという設定で、夜に一緒に夕食を食べるイベントが毎日自動発生するから、不満度はほとんど上がらない。しかし、詩織は違う。ちょっとほっておくだけで不満度はすぐに上昇する。


 そして詩織こそが、最も危険なヒロインだ。


 ゲームの攻略サイトでも散々警告されていた。詩織の不満度が一定値を超えると、他のヒロインを物理的に排除し始める。そのエンディングは「詩織エンド」と呼ばれ、主人公が詩織に監禁される恐ろしい結末だった。まあ、ハッピーエンドでも結局は殺されてしまうのだけど。

 


 勉強イベントでは、やや詩織に比重を高くして、三人の不満度を調整するのがセオリーだ。

 

 翔の奴は昔っからそういった細かい調整がヘタクソなんだよなぁ。


 いつも目先の選択肢にばかり気を取られて、長期的なパラメーター管理ができない。それで何度もゲームオーバーになって、そのたびに私が攻略法を教えてあげたものだ。


 何とかアドバイスしてあげたいけど、創太はみのりの存在をまだ『ただのモブ』程度にしか認識していないはず。話をしたこともないのに、いきなりゲームの攻略法を教えたところで信じてもらえるかわからない。もどかしい気持ちばかりが募る。


 だいたい、いつも近くでヨシオが目を光らせていて、私が接触するのを阻んでいる。


 あの男は一体何者なのだろう? ゲームでは単なるお助けキャラのはずなのに、私に対する視線は明らかに敵意を含んでいる。まるで私の存在そのものを警戒しているかのような。


 最近は帰宅時、阿鼻叫喚の女子生徒への聞き込みも難しくなってきた。私の足も、校門までの区間で自由が利かなくなってきている。


 最初の頃は、校舎から校門まで完全に自由に動けていた。しかし、日が経つにつれて、その範囲が狭くなっている。今では校舎の出口から十メートルほど歩くと、足が勝手に決められたルートを歩き始める。


 まだ意識は保てているし、話すことも可能だが、いつ完全にゲームの制御下に入るかわかったものではない。


 最終的には完全に操り人形になってしまうだろう。

 もうあまり時間はないかもしれない。




 そんな焦りを抱えながら過ごしていたある日の昼休み、考え事をしながら廊下を歩いていると、人にぶつかってしまった。


 その相手は創太だった。


「あっ、ごめん」


「いえいえ、こちらこそ」


 お互いにぺこぺこと頭を下げる。これはチャンス! 今なら邪魔者はいない。


 私は声をかけようと顔を上げる。しかし、その時、廊下の向こうでこちらを凝視するヨシオの姿があった。


 奴は黙ってこちらの様子を見ている。私がこれから行う行動を監視しているようだ。いつの間にか現れて、まるで見張りをするように立っている。


「佐伯さん?」


 創太の方から声をかけてくれた。せっかくのチャンスだというのに、ヨシオの存在が全てを台無しにする。


 でも、まだヨシオの真意がわからない以上、ここで危険な行動を起こすのは得策ではない。私が不審な動きを見せれば、何をされるかわからない。


「はい、佐伯みのりです。神代君でしたよね」


 極めて平然を装って答える。心臓はバクバクと鼓動していたが、表情には出さないよう気をつけた。


 ヨシオの視線には気づかないふりをして話を進める。


「あの、何か私の顔に何かついていますか?」


 創太が私の顔をじっと見つめている。その視線には、どこか探るような色があった。まさか、私の正体に気づいているのだろうか?


「ああ、ゴメンゴメン、何でもないんだ」


 創太は手をひらひらと振って笑っていた。さすがにこの姿じゃ、私が隼人だなんて気づくはずもないよね。


 まるで他人行儀な話し方に心が痛んだ。昔は何の気兼ねもなく話していたのに、今はこんなによそよそしい会話しかできない。


「そ、そうですか、じゃあ私はこれで……」


 私は逃げるようにその場を離れようとする。ヨシオの視線が痛い。これ以上ここにいては危険だ。


「そうだ、佐伯さん」


 立ち去ろうとする私に、創太が声をかける。


「はい?」


 振り返ると、創太が少し迷ったような表情を見せていた。何か言いたげに口を開いたり閉じたりしている。


「もしよかったら、一緒にテスト勉強しない?」


「えっ、私とですか?」


「うん。ぼく、一人だとサボっちゃいそうだから、誰かと一緒の方がいいんだ」

 

 創太の提案に、私は驚愕した。

 これは完全に想定外だった。私の正体に気づいているわけではないだろうに、なぜモブキャラの私に声をかけるのか?


「私で、いいんですか?」

  私は複雑な思いで答える。 


 創太の想定外の行動に、ヨシオも驚いているようだ。いつものニヤニヤした表情が、一瞬で固まった。

 こんな選択肢は当たり前だが、ゲームには用意されていない。創太――翔は、翔なりにヒロインとのハッピーエンドを回避するために頑張っているのかもしれない。


「もちろん。佐伯さん、成績良いでしょ?」


「まあ、普通ですけど……」

 確かこのゲームのテストイベントは、ミニゲームで成績が決まることになっていたはずだ。その手のゲームは得意中の得意だから、初見でも学年一位を取ることも難しくはない。


 ヨシオが監視している状況では危険すぎるかもしれないが、創太の行動でストーリーは確実に分岐した。もうこのまま進めるしかないだろう。


「わかりました。よろしくお願いします」

 私は意を決して創太に返事を返した。ヨシオからの視線がさらに強まった。彼の表情には、明らかに警戒の色が浮かんでいる。


 何かが動き始めた。この世界の運命が、大きく変わろうとしている。


 私は覚悟を決めた。もう後戻りはできない。






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あとがき


みのりサイドからこの世界の真実に迫っていきます。

『絶コメ』今後の展開にご期待ください。


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 小説完結済み、約15万字、50章。

 

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 過去の作品はこちら!


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