僕らはもう、ヴィランでいい

@MaboHan

第一章:夜行性の花

 夜の繁華街には、昼の顔を持たない者たちがいる。

 日差しの下では身を焼かれるような感覚に怯え、名前のない影となって生きている者たち。望んでそうなったわけではない。

ただ、彼らは「違った」。


 柊(ひいらぎ)レンもその一人だった。

 身長は170センチに届くか届かないか、骨格は細く、顔立ちには中性的な影が差す。だがそれは“美しい”というより、“見分けがつかない”という言葉のほうがふさわしい。本人もそう思っていた。


 今夜も、渋谷の裏手にあるバー「YEN」では、妖しく光るネオンの海に紛れるようにして、レンは一人カウンターに座っていた。


「いつも通りでいい?」

 店主の灯(ともる)が低い声で訊く。左耳にはピアスが三つ。シェイカーを振る姿は静かな演技に満ちている。


「ああ、いつも通りで」

 レンは小さくうなずいた。低めのハスキーボイスをわざと強調しないと、初対面の人間には“女”だと思われる。そういうのが、面倒だった。自分が何者なのか、自分でも分からないのに。


「レンくん、今日は何かあった?」


 灯の問いかけに、レンはグラスを見つめたまま答えなかった。

 氷がひとつ、カランと鳴った。


「ううん。ただ……疲れただけ」


 口に出してみると、思ったよりもずっと柔らかい声だった。

 その柔らかさが、自分を裏切っていく気がして、嫌だった。


 


 この店に来る理由は、ひとつだけだった。

 ここでは誰も、「本当の自分」を暴こうとはしない。

 たとえこの店に来るとき、レンが“男のふり”をしていようと、灯はそれを知っていて、何も言わなかった。


 レンは、いわゆる「X」と「Y」のどちらにも馴染めなかった。

 男にしては細すぎて、女にしては無骨すぎると言われる。

 誰かの「期待」に、応えたくて、応えきれなくて、それでもどちらかを演じ続けなければならない。


 そんな毎日に、少しずつ体が腐っていくような感覚があった。


「……あの子、また来てる」


 灯が小さくつぶやいた。


 レンが目を向けると、入り口近くのテーブル席に、一人の若者が座っていた。銀縁の眼鏡をかけた端正な顔。白いシャツにネクタイ、スーツの上着は脱がれて、椅子の背に掛けられている。整いすぎた見た目に、レンは少しだけ息を詰めた。


「知り合い?」

「いや。最近、ちょくちょく来るようになってね。酒はほとんど飲まないけど、目線が……なんとなく、君の方ばかり向いてる気がするんだよね」


 冗談めかして灯は言ったが、レンは微笑まなかった。

 そんなこと、あるはずがない。


 それでも視線の先を追ってみると、確かにその男――スーツ姿の彼は、レンの方を見ていた。目が合った。瞬間、レンは心の底をひっくり返されたような感覚に襲われた。


(バレた? 何が? 男のふり? それとも……)


 逃げたい、と思った。

 けれど逃げるほどの理由も、強さも、持っていなかった。


 そのとき、その男が立ち上がった。

 まっすぐ、レンに向かって歩いてくる。


「……君の名前は?」


 近づいた男が、レンの隣の席に腰を下ろしながら言った。

 顔は綺麗すぎた。整いすぎた、壊れ物のような顔。


「……知らない人に教える義理はないよ」


 レンは低く答えた。

 男は少しだけ笑った。人を試すような、鋭くも儚い笑み。


「なら、僕が名乗るよ。結城イオリ。君のこと、知りたいんだ」


 レンは目を細めた。その目の奥で、長く凍っていたものが、ゆっくりと音を立てて解けていくのを感じていた。


 


 それが始まりだった。

 この街の片隅で、“ヴィラン”として生きる者同士が出会う物語。

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