先輩、それ俺以外に見せちゃダメです。

夜道に桜

第1話

大学から電車で二駅、徒歩十数分。坂の上にある古びた一軒家は、今どき珍しい“学生限定シェアハウス”だった。


「――ただいま」


 玄関を開けて、靴を脱ぎかけたときだった。


「あっ、おかえり、陸くん」


 やわらかくて、どこか眠たげな声が出迎えてくれた。


 その声の主は、日向ななみ。このシェアハウスで暮らす、大学三年生で、俺より二つ年上の――


「ごはん、もう少しでできるから、手だけ洗っててくれると助かるな?」


「うす。風呂も沸かす?」


「ううん、それはさっき入ったから大丈夫」


 ――なんつーか、天使だ。


 日向先輩は、マジで天使なんだと思う。


 誰にでも分け隔てなく優しくて、いつも微笑んでて、料理も家事もなんでもできる。

 このシェアハウスの住人、俺含めてみんな、何度「結婚したい」と思ったかわからない。


 ……まあ、俺が一番思ってる自信あるけど。


「今日も大学疲れた? バイト、あるって言ってたよね?」


「あー、別に。ちょっとジジイに説教されたくらい」


「え、また店長さん?」


「“陸くんはもっと笑いなさい”だって。俺、笑ってるつもりなんすけどね」


 そう言って口角を上げると、ななみ先輩がくすくすと笑った。


「うん。……それ、笑ってるっていうより、威嚇?」


「なんすかそれ。俺、ライオンっすか」


 素っ気ない言葉とは裏腹に、たぶん、顔はちょっと赤かった。


 こういうとき、たいてい先輩は、さらっと褒めてくれるから。

 今日もどうせ、「でもその笑顔、けっこう好きだけどな」――みたいなことを言ってくるんだ。油断ならない。惚れる。


「……ふふ。あのね、陸くん」


 はい来た、好き発言。


 俺はそっと心の準備をして、振り返った。


 すると、ななみ先輩は――


「エプロンのひも、ほどけてるよ。ほどけたまま歩いたら、危ないよ?」


 ……はあ、そうですか。


 今日も平和だ。死ぬほど好きだけど。


 


 * * * 


 


 このシェアハウスには、俺たち含めて五人が住んでいる。


 リビングとキッチンは共同、風呂とトイレは2箇所ずつ、部屋はひとり一部屋。男女混合ということで、それなりにルールは厳しいけど、みんな大人だしトラブルはない。


 でも最近は――


「……お前らさ、もう付き合えよ」


 晩飯の時間、向かいに座った先輩がぽつりと呟いた。


「えっ?」


 ななみ先輩がきょとんとする。


「は?」


 俺は箸を止める。


「いやいやいや、ふたりとも隠す気ゼロじゃん。なんつーか、甘酸っぱいっていうか、俺の味噌汁が苦ぇんだわ」


 うるせえわ、諒先輩。

 あんたは元カノに未練タラタラで電話しながら泣いてたくせに。


「な、なに言ってんの、諒くん……」


 ななみ先輩は慌ててお茶を口に運ぶけど、耳まで真っ赤だった。


 ……やばい。

 この人、照れてる顔が世界一かわいい。


「俺、洗いもんするっす。じゃ、風呂もらいますわ」


 限界を感じた俺は、食器を持ってさっさとキッチンに立った。


 あとで一人、真顔で天井見ながら「なんだこの感情」って反芻するんだろうな。


 ――ただ、気づいてないだけで。


 このときにはもう、ななみ先輩も、まったく同じ気持ちで背中を見つめていた。

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