ずきずき虫とぐるぐる様:2

 「Vの所為で先生に怒られた」

 翌日の行間休み、図書室で顔を合わせるなりあたしはNに言った。

 ただの愚痴だった。それを言える相手はあたしにはNだけだった。しかしそのNは最低限度の対応とばかりに微かに視線をこちらに向けるだけで、特に何も答えることなく再び窓の方へと視線を戻した。

 「何とか言えよ」

 「はあ」

 「というか聞いてくれよ。昨日の帰りしな、あたしが教室の後ろのロッカーに向かう時、Vの奴がいきなり背中から突き飛ばして来やがったんだ。突き飛ばされたあたしはロッカーの上に置いてある花瓶に肩をぶつけてさ」

 「はあ」

 「花瓶が倒れて床に落ちて、ガラスが割れちゃったんだ! Vの奴は『しらねー』とか言いながら、走って教室出てってさ。どうにか隠蔽できないかとガラスを集めてたら、そこに先生がやって来て、あたしが怒られたんだよ! ムカつくだろ! Vが悪いだろ!」

 吐き出し切ったあたしは息を吐いてNの隣に座った。うんともすんとも言ってくれないが、とりあえず相槌は(「はあ」と力なくだが)打ってくれるNに愚痴をこぼしたことで、微かに溜飲を下げたつもりになった。

 Nが何も言わないのであたしは取って来た本を開いた。しばらく無言の時間が続いて、鉄面皮のまま窓を見詰めていたNがふと口を開いた。

 「言わなかったんですか?」

 「は?」 

 Nは何も言わずに窓を見詰めていた。

 無言の時間が流れる。五秒。十秒。あたしはたまりかねてNに尋ねた。

 「言わなかったって何をだよ」

 「今の話です」

 「Vに突き飛ばされた所為だって? 言わないよそんなの。チクったらチクったってまた標的にされるだろ?」

 Vは教室で一番やんちゃな、一番体の大きな、一番威張っている一番腹の立つ男子だった。

 勉強も運動も一番出来るが、良くクラスの弱い奴からものを取り上げたり、突き飛ばしたり足を掛けたりしていじめるという、しょうもない奴だ。

 その加害性は主に同じ男子グループの中で発揮され、最も標的になっているある男子などは、酷いとトイレで裸にされるようなこともあるらしい。女子であるあたしのことはそれほど興味がなさそうだったが、時には気が向いたように突発的な意地悪を仕掛けて来ることもある。

 そこにはきっと理由なんてない。ただそこにいたから、背中を押したくなったから、そういう理由であたしは突き飛ばされ花瓶を割る羽目になり、その場に現れたM先生に虚偽の申告をして怒られることになったのだ。

 「M先生なら、後からあたしに何も言って来れないくらいに、ちゃんとしっかり怒ってくれたりしたのかな? でもあの人なんか頼りないっていうか、覇気がないところもあるじゃん? 信用しきれない以上、こっちも我慢して飲み込むしかなかったんだよ」

 「そうですか」

 再び沈黙が訪れた。

 三分が経ち、五分が経つ。あたしは本を読んでいたがNはひたすら窓を眺めていた。こいつは本を読みに来ているのではなく時間つぶしにただいるだけなのだ。

 時間つぶしに来ているのはあたしも同じだ。本だってそれほど好きじゃない。休み時間の喧騒の中を一人で過ごす、あのいたたまれなさを味わうのが嫌だからここに来て、ここに来るからには本を読んでいるだけなのだ。

 でもこいつはどうなんだろう?

 こいつだったら教室で一人でいたって何も感じないんじゃないか? 

 だったらなんでここにいるんだ?

 こう見えてあたしと同じだったりするのか?

 まさかな。碌に字を追うこともせず考えていたあたしの目の前に、Nがおもむろに一本の瓶を置いた。

 一匹の虫が入っていた。

 「ひ……っ」

 あたしは思わず息を飲み込み、身震いをした。

 見たことのない虫だった。いや虫かどうかも正直良く分からないが、しかし虫以外の他の何にも当てはまらないような姿をしている。それは大きく赤ん坊の拳くらいのサイズがある。そして脚が多かった。左右合わせて十数本ありそうな黒い針金のような長い脚は節が一つあって、.鋭角に折れ曲がって瓶の底を捉えていた。密集する脚の中央の胴体は小さく、しかしアタマは大きく、中でも突き出した二つの目玉はとりわけ巨大だった。小さなビー玉くらいのサイズはあって、血走った白目と赤茶けた黒目は、人間の眼球をそのサイズに縮小したようにしか見えなかった。

 カサカサと脚を動かしながら瓶の中をはい回る虫は気色悪かった。この図書室のどの図鑑にも載っていない虫だとあたしは思った。

 「何それ?」

 「ずきずき虫です。姉さまはそう呼んでいます」

 「なんだそれ? というかおまえ、それ、どこから出した?」

 瓶は大きくあたしと同じ制服のポケットに入るサイズとは思えない。そしてNは服のポケットの他に何かを入れておけるようなものを身に着けていない。

 「Vと言う人に腹が立つのなら、これをくっ付けておきますよ」

 「くっつけるって……」

 「ずきずき虫はぐるぐる様の家来なんです。くっつけた人をぐるぐる様に連れて行くんです」

 「おまえ、何言ってんだ?」 

 Nはそれ以上何も言わず、瓶の蓋を開けて『ずきずき虫』を中から出した。

 あたしがあっという間もなくずきずき虫は図書室の床へと降り立った。そしてその何本あるか分からない脚をせわしなく動かしながら、図書室のどこかへと消え去り、見えなくなった。

 何も言えないでいるあたしに、Nもまた何も言わず、ぼんやりと窓を眺める作業に戻った。


 〇


 翌日、Vは腕を大きく腫らした状態で登校した。

 見たことも無いほど巨大な炎症だった。V本人の拳と同等かそれ以上の大きさがある。傍目にもぶよぶよとして見えるそれは内部に相当な化膿を伴っているようで、Vは顔を顰めながら炎症に手を触れ、いじくっていた。

 「すげぇ熱い」

 「あんま触らない方が良いぞ」

 あたしは思わずそう声を掛けた。普段なら話すような相手ではないし、増して心配してやるような相手でもないが、昨日の図書室での出来事が気になったのだ。

 「うるせぇよ。ほっとけよ」

 「どんな感じなんだ? 痛いのか?」

 「普段は痛くない。中に何かいるような感じがするだけだ。でも時々、気が狂う程痛くなる」

 「中に何かいる……?」

 「針金の塊が暴れるみたいに痛むんだ。ズキズキして……うぅ!」

 Vは絶叫をあげた。それは教室中にとどろいた。Vは普段強がったように眉間に皺を寄せている顔をくしゃくしゃにして、泣き叫びながら椅子から転げ落ちた。両足をばたつかせ、ぼろぼろと涙を流しながら、痛みに悶え狂っている。

 「お……おい! 大丈夫なのか?」

 Vは何も答えない。しかしやがて痛みは治まったのか、息も絶え絶えの様子でゆらゆらと立ち上がる。

 「ほ、保健室行くか? それか先生呼んで来た方が良いよな?」

 「そ、そうだな……うぅ!」

 再び炎症を手で押さえて悶え苦しむV。あたしは教室を飛び出して職員室に向かう。

 「M先生! 来て!」

 M先生は何も言わずに立ち上がった。そして駆け足であたしの方に近付いて来る。

 「なんでかっていうと、あの、Vの奴が……」

 あたしがどう説明したものかを逡巡していると、M先生は言う。

 「なんだか知らないがとりあえず向かおう。急いだ方が良いんだろう?」

 「う、うん」

 この先生のこういうところは、少し好きだ。

 結局何も説明出来ないまま、先生を連れて来たわたしを待ち受けていたのは、放心状態で座り込んでいるVだった。

 「苦しんでいるんだったな? 今は大丈夫なのか?」

 「……何でもないよ」

 振り絞ったような声を出して、Vは視線をM先生から逸らした。

 「そんなはずないだろ? あんなに苦しんで……」

 「何でもねぇよ!」

 Vは恐怖に塗れた表情で吠え、立ち上がった。

 「もうほっとけよ! さっきのだって、多分おまえの所為だよ!」

 「は……? いや、あたしの所為って、どういうことだ?」

 「うるせぇよ。何もすんなよ。邪魔なんだよ!」

 あたしは意味が分からなかった。そしてVの剣幕に鼻白んで何も言えなくなっていた。一方で、M先生は考え込むように口元に手を当てながらVの方を観察し、腕に出来た大きな炎症に気が付いて指をさした。

 「その腕、どうしたんだ。偉く腫れてるな」

 「……腫れてねぇよ」

 「いや腫れている。それが痛くて苦しんでいたんだな?」

 「ち、違うよ」

 「どうして否定する?」

 「それは……」

 Vはその場で蹲って悲鳴をあげ始めた。ばたつかせた脚が近くにある机を蹴り飛ばし、傍にいた女子生徒に短い悲鳴をあげさせた。しかしVの絶叫はそんなものは容易く掻き消す程であり、あたしは心配や恐怖以上にその金切り声が齎す頭痛を感じていた。どうすれば人間がこんな声を出せるのか? そう思わせるような悪夢のような叫びだった。

 やがて痛みは治まったらしくVは腕を押さえながら涙目で立ち上がった。

 「もう放っておいて……先生」

 M先生は鋭い視線でVの炎症を見詰めつつ、口元に手を当てて考え込んでいた。その様子に動揺は見られない。先生らしい威厳も迫力もないが、いつだって冷静な人ではあった。

 「おいN。おまえ、何か知っているんだろう?」

 先生はその矛先をNに向けた。Nはまるで無関心な態度で席に着いて窓の方を眺めていた。こいつは何があってもどんな状況でもぼんやり窓を見ている。授業中はかろうじて教科書こそ出してはいるが、ノートだって取らないし黒板の方を見向きもしない。きっとテストは酷いもんだろう。それをほったらかしにしているM先生だったが、今回ばかりはNの方に剣呑な表情で駆け寄って低い声で訪ねた。

 「説明してみろ。Vには何が起きている?」

 「…………」

 Nは黙り込んで何も言わない。M先生は珍しく生徒を睨むような表情になり、凄みのある声でNに尋ねた。

 「あんなに苦しんでいるんだぞ? 知っているのなら知っていると言え」

 Nは何も言わない。

 「お、おいN。先生が訊いてるんだぞ? 説明したらどうなんだ?」

 あたしはたまりかねてNに言った。

 「ナントカ虫とかいうのをVに付けたんだろう? その話を先生にすれば良いだろう」

 「ナントカ虫? なんだそれは」

 先生はあたしの方を見た。普段見ないような精悍な表情をしていたので、あたしは思わず鼻白んだ。

 「わ……分かんないよあたしは何も」

 「Nなら知っているのか?」

 「だと思う」

 「ずきずき虫です」

 Nは静かな声で言った。

 M先生はNの方を向いて、先程までより穏やかな声で訪ねた。

 「なんだそれは?」

 「ぐるぐる様の家来です。ずきずき虫は、憑いた人間をぐるぐる様のところに連れて行きます」

 「連れて行かれた奴はどうなるんだ?」

 「ぐるぐる様のものになります」

 「ぐるぐる様のものになるとどうなるんだ?」

 「…………」

 「どうやったら助けてやれる?」

 Nは話すことをやめたようだった。沈黙して何も言わないNに、M先生は諦めた様子で相手をするのをやめた。

 M先生は座り込むVを優しく助け起こした。

 「医者へ行こう」

 「やめろ!」

 Vは叫び声をあげてM先生を振り払った。

 「俺に何もしないでくれ! おまえらが俺を苦しめているんだよ!」

 走って教室を抜け出すVを、M先生は額に汗して見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る