Yの末路:1
それはただの悪戯のつもりだったわ。
良くいじめていた子がいたの。理由は今じゃ思い出せないわ。本当にただなんとなく、他の友達を巻き込んで無視をしたり、嫌がらせをしたりしていたのよ。楽しかったわ。
それである日……階段を降りている最中のその子の背中を、軽めにポンと押してみたのよ。
驚くと思ったし、怖がるとも思った。ほんの小さな力しか込めなかったし、その子は手すりに手をかけていたから、まさか転げ落ちたりなんてしないと思った。その場で踏みとどまって、怯えとか嘆願とかを含んだ顔で、こちらをふり向くのを期待した。
だっていうのに……あの子は間抜けだったのよ。あっけなく転がり落ちて……床に頭を打ち付けて、首があり得ない方向に曲がって。
勘弁して欲しい。そう思うわよね? こんなちょっとしたいじめの所為で、人殺しにされるだなんてまっぴら。別に私の所為で誰が死のうと知ったことじゃないけれど、少年院に行くのは嫌よ。
だから、なんとか証拠を消すことにした。私は首の折れたその子に近寄って、名前を呼びながら彼女の背中に手を触れて、揺すり続けたの。さも友達の死に動揺して、彼女の亡骸に取りすがって泣いているかのような、そんな演出でね。そうすれば、その子の背中を押した時の私の指紋が、紛れて分からなくなるでしょう?
警察がやって来て、私を含む傍にいた人達に聴取が行われた。私は、彼女は足を滑らせて落ちたと証言したわ。
正直……生きた心地はしなかった。背中の指紋は言い訳出来るようにしたとしても、被害者が転落死した直前私がすぐ背後に立っていた事実はどうにもならない。それなりに熱心に疑われ、何度も事情を問いただされたわ。黙っているのは大変だったわよ。
でもね、結局、私の自供がなければ証拠不十分。これも読み通りだった。やがて彼女の死は事故として処理されて、私はこうしてシャバにいるって訳。
人生最大のピンチを、私は機転と精神力で無傷で乗り切った。大したものだと思わない? 乗り越えた後も苦しみは続いて……季節が一巡りしてようやく自分は安全だという実感も沸いて来た頃。
『それ』は始まった。
階段を降りようとする時、『それ』は起こるの。どこかから現れた冷たい手が、私の背中をポンと押す。私は足を滑らせて、階段から転げ落ちそうになる。実際に落ちてしまったことも、何度かあったわ。
誰かが私の背中を押している。近くにいた人間に、何度も食って掛かったわ。けどね、いつも犯人は見付からない。どころか、明らかに周りに人がいない、一人っきりの状況でも、それは起こるの。
やがて私は悟るようになる。私の背中を押しているのが、この世の人間ではないことを。
いつか背中を押された時、私は手すりを掴んでその場を踏みとどまって、すかさず後ろを振り向いてみたの。
そしたらね、私は見たのよ。
宙に浮く闇色の穴の奥から、突き出された一本の死者の手が、開いた手の平をこちらに晒している光景を。
それが誰の手なのか、誰が私の命を狙っているのか。そんなことは考えるまでもないわよね。
〇
平成十六年五月某日。
〇
「まるでこの世ではないみたいに感じるわ」
並んで山道を歩きながら、Yがそう言った。
「なんで?」
「こんなところ、もう長いこと来ていなかったからよ。いつだってコンクリートに覆われた地面を踏みしめ、ビルや建物に囲まれて、電線で覆われた空を見ながら生きている。だから土と木と小鳥のさえずりなんて、私にとってはこの世のものには思えない」
小さい頃は、私とYの二人はこの山の中で良く一緒に遊んだ。でもその日々は、Yにとって遠い思い出に変わっているらしかった。それもしょうがないだろう。十六歳の子供にとって、五年や六年と言う月日はまるで、世界を一つまたぐのよりも尚大きい。
「さあAちゃん。案内して。私、件の冷蔵庫の場所なんてとっくに忘れてしまったわ」
Cと二人で山を降りた数日後、私はYに電話を掛けていた。過去に、Yと二人で冷蔵庫の中に閉じ込めた女の子の顛末を知らせる為に。そうして予定を合わせ、一緒に山を訪れたのが今日と言う訳だ。
「ここだよ」
私とYは件の冷蔵庫の前に辿り着いた。Yは臆することなく冷蔵庫に向かって歩き、躊躇の無い手つきでその扉を開けてしまった。いくら安全になったと説明していたとしても、Yもその胆力に、私はあっけにとられる。
「……確かに。もう何も入っていないわね」
Yは冷蔵庫の中を覗き込んで言う。
「本当に何もないでしょう? だからYちゃんも、もう安心して良いよ」
「そうかしら?」
Yは訝るような顔をした。
「電話で説明された話だとね。その女の子は冷蔵庫から出て来た後で、あなたが謝ったからどこかへ消えて行ったんでしょう?」
「そうだけど」
同行したCのことは黙って置いた。Cに口止めされた訳ではない。彼女の持つ何かしらの超常能力を、私はどこか神聖なもののように感じている。無暗に人に話すべきではないように思われたのだ。
「でもね。その話を聞く限りじゃ、許されたのはあなた一人ということにならない? 冷蔵庫の中から這い出したあの女の子が、私の方に復讐しに来るということは、考えられないかしら?」
「それはないよ」
私は言った。
「根拠は?」
「根拠は……。ええと、その」
私が口ごもると、Yが目を見開いて、私を呑んでかかるかのような表情でじっと見つめる。
「あなたは自分の手でこの冷蔵庫を開けて中の怪物を外に出したのよ? ずっと冷蔵庫の扉は開けないようにしようって、二人で約束したにも関わらず。その所為で、私は今とても不安な気持ちを感じているわ。怪物に復讐されてしまうかもしれないのだから。それとも私なんて霊に殺されても良いって思ってでもいるのかしら?」
こうやって他人に凄んで見せる時、Yには迫力があった。この人を敵に回せば、執念深く冷酷な悪意がどこまでも自分を追い回すだろうと思わせる、邪気のような気迫をYは持っていた。
「……違うよ。そんなこと思ってない」
私は思わず目を反らして言った。
「だったらなんで私が安全なのかを説明してもらえるかしら」
「……友達に、霊感のある子がいるんだ」
私は観念せざるを得なかった。
「その子が言うには、私がちゃんと謝ったことで、あの女の子の憎しみは癒えてるっていうんだよ。元々そんなに悪い霊じゃないらしくって……。だから、Yちゃんのことももう安全だって」
「…………ちょっと待って。あなた、どうしてそんな話を信じるの?」
Yが鋭い視線で私を見竦める。
「確かに私達は超常的な存在に出くわしたわ。でもね、霊感なんてのは所詮は本人の自己申告よ。そう主張することで何か特別な自分を演出できると思っている能無しの類。そんな奴の戯言をなんで信じることができるの?」
「……それはその、嘘を吐くような子じゃないから、その」
Yは私の胸倉を掴んで、森の中の木に私の背中を押し付けた。
端正なYの顔がじっと私を見詰めている。胸倉を掴まれた私は身動きが取れないでいる。Yは力も強かった。そしてその顔立ちには迫力があった。切れ長の瞳を持つのはBと同じだが、精悍さを思わせるBと異なり、Yの目には怜悧さや残酷さが秘められている。いつだって澄ました冷静な表情には、彼女の性格の『キツ』さが滲み出るかのようだ。
「そんな脆弱な根拠で私に安心しろっていうの?」
「……脆弱な根拠なんかじゃない。その子が言うなら本当に安全で」
「そのナード臭い不思議ちゃんのことをあなたはどうして信じるのかしら?」
Yはますます私の胸倉を掴む手に力を加える。
「だって、私、目の前で。その子が、呪文を唱えて、それで、私、助けられ……。ゲホっ」
私を締め上げるYの手が緩んだ。私は木にもたれながらずるずると土の上に尻餅を吐く。Yは探るような目に僅かな喜びと期待を滲ませながら、私を見下ろしてこう言った。
「だったらその子について詳しく訊かせて。そしてその子に会わせてちょうだい。実際に会って話を聞いて判断するわ。良いわよね?」
ダメだと言ったら、そのカモシカのような脚が私の顔面を蹴りつけることは容易に想像できたので、私は黙って頷いた。
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