◆第3章|笑わせる、ということ

樋井野の「合格」という一言は、重力がおかしくなったかのような奇妙な浮遊感をスタジオにもたらした。他の挑戦者たちは、あんぐりと口を開けてステージ上の二人を見ている。理解を超えたものが目の前で肯定されたことへの戸惑い。そして、自分たちの必死のプレゼンが、まるで子供の学芸会のように思えてくる屈辱。いくつかのペアは、安堵の表情で勝ち抜けを喜んでいるが、その視線は明らかに、異物を見るように杏里と江莉に向けられていた。


やがて、勝ち残った五十組、百名の名前がスクリーンに無情に映し出され、不合格者たちが再び黒服のスタッフによって機械的に退出させられていく。祭りの第一幕は、こうして唐突に終わった。


「第一チャレンジ通過者の皆さんは、指定された第二待機室へ移動してください」


無機質なアナウンスに従い、杏里と江莉は他の合格者たちと共に、ぞろぞろとスタジオを後にした。廊下ですれ違うスタッフたちは、誰一人として挑戦者に声をかけない。彼らにとっては、これもまた毎年繰り返されるルーティンワークの一部でしかないのだろう。


第二待機室は、だだっ広いリハーサル室のような場所だった。壁は一面鏡張りで、パイプ椅子が百脚、無造作に並べられている。先ほどの熱狂が嘘のように、そこには気まずい沈黙と、互いを牽制し合うような空気が漂っていた。


「……なんか、品評会が終わった後の豚の気分」


杏里が壁に寄りかかりながら呟くと、隣でミネラルウォーターのボトルを煽っていた江莉が、ふっと笑った。


「上出来だろ。特選A5ランクの認定をもらったようなもんだ」


「あのジジイの舌が確かだっていう保証はどこにもないけどね」


「まあね。でも、少なくとも、他の連中とは違う土俵に立てた。それは確かだ」


江莉の言う通りだった。他の合格者たちは、どこか遠巻きに二人を眺めている。賞賛でもなく、敵意でもない。ただ、理解できないものに対する、一種の畏れのような視線だった。


「いやー、お見事! まさにコロンブスの卵。俺、マジで鳥肌立ったよ」


そこに、能天気な声が割り込んできた。会沢晴真が、人懐っこい笑みを浮かべて立っている。彼の隣には、プレゼンで巫女役をやらされていた女の子が、まだ少し頬を染めながら恥ずかしそうに控えていた。


「あんたも、無事生き残ったみたいだね」と江莉が皮肉っぽく言った。


「おかげさまでね」晴真は肩をすくめた。「悲劇の巫女と、その涙が染み込んだ聖なる石。我ながら、百点満点の凡庸な解答だったと思うよ。テレビ的には、君たちより俺の方がよっぽど使いやすいはずだ」


「分かっててやってるなら、タチが悪い」


杏里の言葉に、晴真は「心外だな」と大げさに胸を押さえた。「これも戦略だよ。このゲーム、目立ちすぎても潰される。かといって、埋もれても意味がない。大事なのは、審査員と、そして『見えない誰か』に、自分のキャラクターをどう売り込むかだ」


「見えない誰か?」杏里は眉をひそめた。


「そりゃ、スポンサーとか、業界の偉いさんとか、色々いるでしょ。この番組は、ただのバラエティじゃない。巨大なオーディション会場でもあるんだから」


晴真の言葉は、この狂った祭りのもう一つの側面を的確に言い当てていた。これは、剥き出しの欲望が渦巻く、巨大な見本市なのだ。


「あんた、詳しいんだな。このゲームのこと」江莉が探るように言った。


「去年、痛い目に遭ってね。少しは学習したってワケ」晴真はそう言うと、意味ありげに片目をつぶった。「さて、問題は次だ。あのジジイ、最初の前菜でこれだけ遊んでくれたんだ。メインディッシュは、きっととんでもない代物が出てくるぜ」


その言葉を証明するかのように、突如、部屋の壁に設置された巨大なモニターが、音もなく点灯した。砂嵐の後、樋井野隆司の顔がアップで映し出される。その表情は、先ほどのスタジオでのものとは違い、一切の感情が抜け落ちていた。


「第一チャレンジ、ご苦労だった」


淡々とした声が、静まり返った待機室に響く。


「残った百名の諸君に、第二チャレンジを発表する。これより諸君は、このテレビ局の敷地から、一時的に解放される」


その言葉に、室内にわずかな安堵のどよめきが起こった。


「ただし、行き先は指定させてもらう。この湾岸エリアから電車で三十分ほどの場所にある、汐見商店街。知っている者もいるかもしれんが、今やシャッター通りと化した、寂れた商店街だ」


モニターに、錆びついた看板や、雑草の生い茂るアスファルトの映像が映し出される。


「そこへ行き、『最も価値のないもの』を、各自一つ見つけてくること」


価値のないもの。その言葉に、杏里は先ほどの石ころのプレゼンを思い出した。また同じようなテーマだ。だが、樋井野の言葉は、そこで終わらなかった。


「そして、その『価値のないもの』だけを使って、商店街にいる人間を、誰か一人、心から笑わせること。いいか、愛想笑いや苦笑いじゃない。腹の底から、こいつは面白い、と思わせて、笑わせるんだ」


待機室は、今度こそ完全な沈黙に包まれた。それは、あまりに悪趣味で、そして本質的な課題だった。観察眼、発想力、コミュニケーション能力、そして何より、人間の心を動かす力。そのすべてが試される。


「制限時間は、本日午後六時。タイムリミットまでに、笑わせた証拠となる動画を指定されたアドレスに送ること。ペアは解散だ。これより先は、個人戦となる。健闘を祈る、とは言わん。せいぜい、無様に足掻いて、俺を楽しませてくれ」


映像は、ぷつりと切れた。


モニターが暗転し、待機室の照明がやけに白々しく感じられる。誰もが、課題のあまりの難易度に言葉を失っていた。


そんな中、会沢晴真が、ふーっと長い息を吐いた。


「……なるほどね。商店街そのものを、巨大なステージに見立てたわけか。あのジジイ、やることがえげつない」


「笑わせる、ね」江莉は口の端を上げて、面白そうに呟いた。「人を泣かせるより、よっぽど難しい芸当だ」


杏里は何も言わず、窓の外に広がる、灰色の空を見つめていた。汐見商店街。価値のないもの。そして、心からの笑い。ばらばらのピースが、頭の中でカチリと音を立てて繋がるような感覚があった。


これは、ゲームだ。樋井野が仕掛けた、壮大で、悪趣味で、そしてどこまでも人間臭いゲーム。


「……面白くなってきたじゃないか」


杏里の口から漏れた言葉は、自分でも意外なほど、楽しんでいる響きを帯びていた。隣で、江莉と晴真が、同じ種類の光を目に宿して、不敵に笑った。第二の幕は、もうすでに上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る