第二部: Somnium 第13章:Philanthropia

現実とは、なんと執拗なのだろう。

私が、あれほど明確で揺ぎない決別を、心の光さえ届かぬ深淵の底で厳粛に告げたというのに。

だというのに、それは腐臭を放つ、生命力だけが異常に強い湿った蔦のように、私の足首に、私の思考に、私の存在そのものに、何度も何度もねっとりと絡みついてくる。

その感触は重く、冷たく、そしてどこまでも不快だった。

それは、魂の自由という私が唯一希求する飛翔を、その強固で粘りつく汚泥のような支配下へと執拗に引きずり戻そうとする、この世界の醜い本能そのものだった。

それはもはや、甘美な誘惑などという生易しいものではない。 それは粘着質で悪意に満ちた、呪詛と呼ぶべきものだった。

この世界は、私がそこから離れようとすればするほど、その忌わしい重力をまるで意図的に強めているかのようだった。

私という存在の核を、その本質を、再びあの淀んだ、意味のない、騒々しいだけの檻の中へと閉じ込めようと、その見えざる、しかし確実な冷たい手を、どこまでもどこまでも伸ばしてくるのだ。

学校を休む日が増えた。 それはもはや、意志の介在する「選択」などではなく、当然の、そして絶対に避けがたい物理法則のような「帰結」でしかなかった。

愛しい響のいる「まどろみの世界」――私が真実の生と魂の完全なる安息を、生まれて初めて感じることのできた、あの静寂で清浄な永遠の黄昏の空間――での滞在時間が、日を追うごとに私の渇望に応じて延長されていった。

そして、その神聖な時間の密度に完璧に反比例するように、この『器』と私が呼ぶ肉体の生命力を、確実に、そして執拗に蝕んでいたからだ。

響との逢瀬は、私の魂にとって宇宙のすべてと引き換えにしても余りある、唯一無二の「糧」であった。 しかし、この肉体という現実世界との忌わしい接続インターフェースにとっては、甘美で抗いがたい、致命的な「毒」でもあったのだ。

この現実世界で目覚めた時の、あの筆舌に尽くしがたい倦怠感。 それは最早、「疲労」というありふれた生易しい言葉で片付けられるような代物ではなかった。

それは、骨の髄まで、いや骨を構成するカルシウムの分子構造の隙間まで染み渡り、細胞の核の最も深部まで凍りつかせるような、深淵からの呼び声。 あるいは無機質な重金属の塊が、私の内側から全身を押し潰そうとする絶対的な重みだった。

目覚めとは、私にとって安息からの追放に他ならない。 それは苦痛への、不協和音への、無意味への強制的な帰還を意味した。

まるでこの部屋だけ、この私という存在の周囲だけ、重力定数が書き換えられたかのように、全身が鉛を溶かし込んで固めたかのように重い。

指先一本を微細に動かすことさえも、意識的な、火花が散るほどの激しい努力を必要とした。

瞼を開けるという単純な行為。 それが私には、錆びつき何トンもの重さがある分厚い鉄扉を、軋ませながらこじ開けるほどの絶望的な労力を伴った。

ベッドからこの忌わしい肉体をゆっくりと起こすことは、この惑星そのものが発する強大な重力の鎖を、一つ一つ意志の力だけで断ち切るほどの凄まじい消耗を要求した。

全身の関節という関節が軋んだ。 まるで何十年も雨風に晒されたまま放置され、手入れをされることのなかった古びたブリキの機械人形のように。

その音は私の耳の奥で、乾いた耳障りな音を立てた。 骨と骨が擦れ合う、砂を噛んだかのような不快な感触。 皮膚の下で、筋肉の繊維が私の意志とは全く無関係に、微細な痙攣にも似た震えを断続的に繰り返している。 これは、私の魂が夜ごとこの肉体という名の檻から脱出しようと激しくもがいた、その失敗の痛々しい残響のようだった。

心臓だけが、まるで他人事のように私の空っぽになった胸腔の中で、からからと虚しく空回りしているような、無力で頼りない、そしていっそ滑稽でさえある乾いた音を立てていた。

その拍動は、生を力強く主張する生命の賛歌などでは断じてない。 それは、この肉体がまだ辛うじて最低限の機能を維持していることを示す、心細い弱々しいアラーム音のようだった。

私の、この現実における命が、いま水に濡れていつ破れてもおかしくない、薄い薄い紙切れのように頼りなく、その輪郭をかろうじて保っていることを、その音は毎秒毎秒、私に冷徹に告げ続けていた。

食事は、もうほとんど喉を通らなかった。 喉が物理的に、現実の物質を拒絶している。

嗅覚と味覚。 それらの感覚器はもはや、現実の物質を生命を維持するための栄養としてではなく、汚れた不快極まりない、摂取すべきではない「異物」としてしか認識しなくなっていた。

母が私を心配して、懸命に、そして無理解に作り続ける、皿の上に並べられた色鮮やかな料理。 かつては美しいとさえ感じたかもしれない、それらの色彩。 だが今の私には、それらは「食べ物」というよりは、この世の埃や化学的な偽装をまとった、得体の知れない「固形物」でしかなかった。

「美味しい」という概念は、私の感覚野から完全に蒸発し消え失せていた。

その固形物を、義務感から無理やり口に含む。 すると胃が、その異物の侵入を即座に感知し激しく拒絶し、まるで硬い拳で内側から殴られたかのように痙攣した。 身体全体が激しい嘔吐反応でびくびくと震えた。

それはもはや、生理的な反応というよりも、私の魂がこの現実世界の濁った物質そのものを、本能的に、そして徹底的に拒否している何よりの証拠のように思えた。

私が真に欲しているのは、響の存在という純粋で透明で非物質的な、精神的な栄養だけなのだ。 この世界の濁りきった物質などでは、断じてない。

だから、水分を最低限だけ。 それも味わうのではなく、ただ舌の奥に意識的に押し込むようにして摂取する。 喉を冷たい無味無臭の水が通り過ぎる、その無機質な感触だけが、この壊れかけた肉体を辛うじて機能させ続けるための、ぎりぎりの、そして絶望的に孤独な儀式だった。

身体は、この飢餓と、そして響との魂を燃やすような逢瀬によって、日に日に肉という名の余分な「現実」を削ぎ落とし、魂の本来あるべき輪郭を外部へと露わにしていった。

肉という、この世の重力に縛り付けられた余分なものが確実に削ぎ落されていく。 私の本質が、純粋な魂の形が外部に顕現し始めている。

その変化を私は、もちろん激しい痛みを伴ってはいたが、しかしそれ以上に、恍惚とした静かな満足感と共に受け入れていた。

それは私が、この汚れた世界から確実に離れ、響のいるあの清浄な世界へと、一歩ずつ一歩ずつ近づいている、何よりの証拠だったのだから。


それでも私は、この日、登校を試みた。

それは、社会性を保ちたいとか、両親にこれ以上の無意味な心配をかけたくないとか、あるいは友人である燈との、もはや私にとっては煩わしいだけとなった絆を維持したいとか、そういった世間一般で「まっとう」とされ賞賛されるような、そんな殊勝な理由からでは断じて、断じてない。

そんなものは、今の私にとってもうどうでもいいことだった。 取るに足らない、俗世の耳障りな雑音でしかなかった。

理由は、ただ一つ。

この『器』が、もし完全にその機能を停止してしまえば。 もしこの肉体が「死」という、現実世界における不可逆的なシステムダウンを迎えてしまえば。

その時、響に会うための唯一の通路、あの意識の『境界線』を越えるための物理的な媒介が、永遠に閉ざされてしまうかもしれない。

その、漠然とした、しかし私の存在の根幹を揺るがす最も根源的な恐怖が、私をこの現実世界に辛うじて繋ぎとめていた。

もし、この肉体が完全に死に絶えてしまったら、私の意識は果たして響の世界へ永遠に到達できるのか。 それともこの世界の法則に従い、無に帰し虚無へと霧散してしまうのか。 それだけが、確信が持てなかった。

この肉体は、私を閉じ込める忌わしい牢獄であると同時に、「まどろみの世界」へ渡るための、今にも沈みそうなほど壊れかけた、しかし絶対に失うことのできない必要不可欠な一艘の小舟でもあったのだ。

私はこの壊れかけた小舟を、細心の、それこそ薄氷を踏むような注意を払って維持し続けなければならなかった。 それは、愛する者との再会を明日も明後日も保証するための、私の最小限にして最大限の自己保存本能だった。

久しぶりに袖を通した高校の制服は、まるで他人の服をサイズも確認せずに間違って借りてきたかのように、ぶかぶかだった。 数ヶ月前までは私の身体のラインにぴったりと馴染んでいたはずの、硬い化繊の布地は、今や私という存在を中身のない空虚なものとして残酷なまでに強調していた。

肩のラインは、ハンガーにかけた時のように無残に落ち込んでいる。 スカートのウェストは、ベルトを一番きつい穴で締めてもまだ緩んで、拳が一つ入るほどの隙間ができた。

その隙間から入り込む冷たい外気が虚しく肌を滑り、私に自分がいかに現実から「剥離」しているかを突きつけてくる。 ズボンの、そのわずかな重さだけが、私をこの地上に繋ぎとめている唯一の物理的な重りであるかのように感じられた。

洗面所の冷たい鏡に映る自分は、日に日に人間という種族の定義から逸脱し、影そのものに、あるいは実体のない何かに近づいていっているようだった。

目の下の深く青黒い隈。 それは長期間にわたる極度の精神的な緊張と、肉体が響の世界の法則に順応しようとしている拒절反応を如実に物語っていた。

頬の病的なまでの鋭角的な削げ落ち。 肌は全ての生気と血の気が失せ、まるで上質な石膏か磨き上げられた大理石のように冷たく白く、その薄い皮膚の下で毛細血管の青い繊細な線がまるで地図のように透けて見えた。

それはもはや、生きている人間の姿というよりも、精巧に、しかしどこか病的に作られたアンティークドールのような、脆い無機質な美しさを持っていた。

だが、その恐ろしいほどの変化を、私は静かな深い宗教的なまでの満足感と共に受け入れていた。 余分な肉というこの俗世の垢が完全に削ぎ落され、私の魂がその本来の純粋で透明な清浄な輪郭を、この世に現し始めている。 それは、この俗世のありとあらゆる汚れを洗い流す一種の神聖な、痛みを伴う浄化の過程なのだと、心の底から信じていた。 この極限まで痩せ細った肉体こそが、私の純粋な魂の何よりの証明であると。


教室のドアを開ける。

そのほんの数センチの隙間が開いた瞬間、あらゆる現実のノイズが濁流となって一斉に私の鼓膜を、そして私の精神を暴力的に攻撃した。

教室という空間は、私にとってただの箱ではなかった。 それは耐え難い不協和音の発生源、そのものだった。

クラスメイトたちの、底が浅く中身が空っぽでけたたましいお喋り。 それは情報交換という知的な活動などでは、決してない。 彼らが、この「現実」という彼らにとっての唯一絶対の枠組みの中に、自分たちが確かに存在しているのだと互いに確認し合うための、無意味でただうるさいだけのノイズの合唱のように聞こえた。

耳障りな椅子が床を擦る音。 誰かが神経質にペンを回す音。 鉛筆が紙の上を走る乾いた摩擦音。 窓の外から遠く聞こえてくる体育の授業の、教師のヒステリックな怒鳴り声。 そしてその合間に、耳を劈くように鋭く響き渡るホイッスルの甲高い高音。

それら全てが、全ての音が、私の限界まで敏感になりすぎた神経を、荒い目の粗いサンドペーパーでゴシゴシと容赦なく削るように苛み、私の残り少ない生命力を確実に消耗させた。

私の脳はもう、それらの無意味なノイズを適切にフィルタリングし、必要な情報だけを選別するという高度な能力を完全に失っていた。 全ての情報が等しく激しい、悪意に満ちた「攻撃」として私の意識に直接突き刺さってきた。

頭が割れるように痛む。 こめかみの奥で細い冷たい針が、無数に脈打っているようだった。

私は誰にもその存在を気づかれないように、自分の気配を空気のように水蒸気のように希薄にしようと、そっと息を殺した。 そして自分の席という名の、教室という名の騒々しい汚れた海に浮かぶ、かろうじての孤島へと、おぼつかない、まるで水の中を歩くような足取りでようやくたどり着いた。

私のその異様な姿――明らかにこの世の「健康」や「普通」という、彼らの信奉する矮小な基準から逸脱した、私の極端な痩躯と、まるで死人のように生気が失せている、しかしその奥に深い別の世界を湛えている私の瞳――に、クラス中の視線が一斉に突き刺さるのが分かった。

それは熱を伴わない、氷のように冷たい鋭い針のような視線だった。

好奇心。 戸惑い。 憐れみ。 そして、自分たちの理解の範疇を完全に超えたものに対する、本能的な微かな恐怖。

それらの多様で、しかしどれもが不快な感情が、ねっとりとした粘着質な不透明な空気となって私の周囲にまとわりつき、息苦しさを指数関数的に増していった。

まるで私が、生きたまま見世物小屋の珍奇な展示物として好奇の目に晒されているような、たまらない焼けるような屈辱感。

私は視線を、自分の古びた机の傷だらけの天板に落とし、自分の存在を可能な限り小さく小さく縮こませた。 このままこの場所で、消えてしまいたかった。

友人である燈は、私の席のすぐ近くまでやってきた。 だがその足取りは、いつもの弾むような太陽の光を振りまくような陽気なものでは決してなかった。 それはまるで地雷原を歩くかのように重く、慎重で躊躇いに満ちたものだった。

彼女は私の机の横で立ち止まり、何かを言おうと唇をかすかに震わせた。 その瞳。 いつもは真夏の太陽のようにまぶしく力強い光を湛えているはずの、その瞳。 だが今は、そのあまりにも強すぎる光の中に、深い深い悲しみの色が暗い影を落としているのが、私にもはっきりと見て取れた。

彼女は私に話しかける言葉を必死で探しているのだろう。 「大丈夫?」という無意味な言葉。 「どうしたの?」という無神経な言葉。 「ちゃんと、食べなきゃだめだよ」という暴力的な言葉。

励ましの言葉、心配の言葉、あるいは問い詰める言葉。

しかし今の私の、この触れればガラス細工のように粉々に壊れてしまいそうな、あるいは触れた者すべてを凍りつかせてしまいそうな絶対的な拒絶のオーラの前で、彼女は結局、その用意していたであろうありきたりの言葉を声に出すことはできなかった。

彼女はただ、その悲しみと無力感と、そしてかすかな苛立ちさえも湛えた瞳を私に向け、そして何も言えずに力なく引き返していった。

彼女のその善意に満ちた、太陽のようなあまりにも強すぎる光も、今の私にとってはただ目を焼き魂を焦がすだけの、暴力的な耐え難い眩しさでしかなかった。 その光は私を救うどころか、私のこの深い影をより一層濃く深く抉るだけだった。

彼女のその純粋な善意は、私をこの「現実」という名の醜い檻に繋ぎとめておこうとする、最も頑丈で厄介な格子の一つに思えた。

私は彼女の、その私にはもはや不必要となった優しさを理解しつつも、それを受け入れることのできない、この冷たく硬く閉ざされた自己の存在に、ほんのわずかなチリリとした痛みを感じたが、それも次の瞬間には、響への焦がすような渇望という巨大で絶対的な感情に飲み込まれていった。

斜め後ろの席に座る、稲見朔。

彼の気配はいつも通り、教室のあの不快な喧騒の中に完全に溶け込んで希薄だった。 彼の存在はまるで壁の染みや天井の照明のように風景の一部であり、誰も彼の存在を特別に意識している者はいなかった。

しかしその完璧なまでの静寂と希薄さが、私にはまるで私の魂の微細な揺らぎやミリ単位の心理の変化、呼吸の浅さ、心拍の乱れ、その全てを一瞬たりとも見逃すまいと測定し記録している、高性能な精密機械のように感じられて、背筋がぞくりと冷たくなった。

彼は何も言わない。 何も求めない。 その底なしの沈黙の背後には、全てをあるがままに、しかし冷徹に見透かすような、静かで底知れない鋭利な知性が潜んでいる気がした。

彼は他の生徒や教師たちのように、私の「病」や「異変」を見ているのではない。 彼は私の「本質」を、私自身でさえまだ完全には理解していない、この変容の「核」を、見ているのではないか。

その可能性が私に、この教室の中で最も深い警戒心を抱かせずにはいられない、唯一の理由だった。 彼は私を現実に引き戻そうとする凡百の人間たちの中で、最も危険で理解不能な観察者だった。

もう、耐えられない。

一秒でも早くこの地獄のような時間が過ぎ去ってほしい。 一刻も早くこの汚れた騒々しい、現実という名の無意味な無価値な世界から、響のいるあの静寂の園へ、私の唯一の真実の故郷へ帰りたい。

その純粋で切実で、魂の底からの願いだけが、かろうじて私のこの希薄になりつつある意識を、この場に、この冷え切った肉体に繋ぎとめている、最後の脆い脆い鎖だった。

私にとってのこの学校生活という名の茶番は、愛する人へのあの神聖な通路を維持するためだけの、耐え難い屈辱的な義務でしかなかった。


その日の昼休み。 チャイムの音が終わりの合図のように、教室に響き渡った。

ついに現実からの、最も無遠慮で最も権威的で、そして最も避けがたい介入が、私にその醜い牙を剥いた。 それは私の、かろうじて保っていた平穏への公的な、そして不可避の侵入だった。

担任教師が私の席へと、その重い足取りでゆっくりと、しかし確実にやってきた。 彼の革靴がリノリウムの床を叩くその規則正しい足音は、昼休みのわずかに静かになった教室の中で異様に大きく響き、私の過敏になった鼓膜を不快に叩いた。

彼はいつもは、生徒たちに対してつまらない軽い冗談を飛ばすような、人当たりの良いことを自らの長所だと信じているような、そういうタイプの中年男だったが、その時ばかりは、その貼り付けたような職業的な表情から全ての軽薄さが消え失せていた。

彼の顔には、教師としての陳腐な「責任感」と、一人の人間としての理解不能な事態に直面した「困惑」が、複雑に、そして不器用な形で絡み合い、それが一種の滑稽なまでの真剣さとなって表出していた。

彼は私の机の真横に立つと、深く重い、そしてどこか諦念の混じった溜息を一つ、ついた。 それは彼が、これから果たさねばならない彼自身の「重荷」を象徴しているかのようだった。

そして低い、しかし一切の反論を許さない、有無を言わせぬ鉄のような冷たい声で、私に告げたのだ。

「槙原。少し、話がある。職員室まで、来てくれ」

その声は疑問形ではなかった。 それは紛れもない命令であり、同時に私の残されたわずかな自由への、公的な侵害の宣告だった。

私は彼のその色のない言葉に、一切の抵抗を試みることなく、ただまるで糸で操られる人形のように従順に立ち上がった。 抵抗は無意味だ。 この現実という醜いシステムのルールの中で、私はあまりにも無力な存在なのだということを、本能的に理解していたからだ。

職員室の最も隅にある、小さなパーティションでかろうじて区切られた面談スペース。 そこは他の教師たちの事務的な感情のこもらない会話や、キーボードを苛立たしげに叩く乾いた音、古びたコーヒーメーカーが不規則に立てる作動音、そういったものがどこか遠くで意味のない不快なBGMのように聞こえてくる、現実というシステムの断片のような空間だった。

現実という醜い舞台の、その裏側。楽屋。 私はこの整然とした、しかし生気のない空間に、一種の不潔さと偽善の匂いを、感じ取っていた。

目の前のパイプ椅子に座った担任は、心底困り果て、そしてこの規格外の生徒をどう対処していいのか、そのマニュアルがどこにも見当たらないという、複雑な感情の混雑した顔で、深く重い溜息をさらに二度、三度と繰り返した。

その溜息の数だけ、彼の矮小な内面の葛藤が私に嫌というほど伝わってきた。

「槙原……。単刀直入に、言わせてもらう」

彼は使い古された決まり文句で切り出した。

「お母さんから昨日、学校に正式に連絡があった。それから、椎名さん――燈君のお母さんからも、実はもう何度か相談を受けている。お前の最近の様子が、どうにも普通じゃない、と。日に日に痩せていっているし、何よりもその、覇気のない、まるで魂がどこかへ行ってしまったかのような様子が、皆、本当に心配しているんだ」

その言葉に、私の心は凍てついた真冬の湖面のように、何の感情も波紋も映さなかった。 驚きは微塵もない。

分かっていたことだ。 彼らが、この現実という名の小さな箱庭の住人たちが、私のこの静かな平穏を、私の望む世界への道筋を、いつまでも無関心に放っておいてくれるはずがない。

彼らは、彼らの持つ「普通」というあまりにも狭く窮屈で醜い「枠」から、私がほんの少しでも逸脱することを、自らの存在意義が脅かされるかのように最も恐れる種類の人間たちなのだから。

私のこの「異様さ」は、彼らの脆弱な「秩序」に対する直接的で許しがたい挑戦だったのだ。

「我々も教育者として、このまま君を見過ごすわけにはいかないんだ。君のその体調も、もちろん一番に心配だが、このままでは出席日数も大幅に足りなくなる。そうなれば進級も危うい。我々としては、どうにか君の力になりたいと本気でそう思っている」

力になる? あなたたちが、私の?

心の中で冷たい乾いた笑いが渦巻いた。 その声にならない冷笑は、喉の奥で苦い錆びた金属の味を伴って反響した。 本気で噴き出してしまいそうになるのを、私は必死でこらえた。

あなたたちがやろうとしていることは、「助け」なんかじゃない。

ただ、あなたたちのその小さな小さな理解の範疇を超えた異物を、あなたたちの理解できる「普通」という名のあまりにも窮屈な箱庭の中に、無理やりにでも押し込めて、自分たちのその脆い秩序とちっぽけな安心を保ちたいだけではないか。

それはどこまでも利己的な醜い自己防衛であり、「善意」という最もたちの悪い偽善の仮面を被った自己満足に過ぎない。

「そこで、なんだが」

担任はさらに言いにくそうに、言葉を慎重に選びながら続けた。 彼の節くれだった指先が、スチール製のテーブルの上で神経質に意味もなく行ったり来たりしている。 その口調には教師としての滑稽なまでの「義務感」と、一人の人間としての率直な「戸惑い」が複雑に絡み合っていた。 彼は自分のこの「役割」を必死に演じようとしているように、私には見えた。

「一度、うちのスクールカウンセラーの先生と話をしてみないか。栃本先生といって、とても話の分かる優しい先生なんだ。臨床心理士の立派な資格も持っていて、生徒からの信頼も厚い。ただ話を聞いてもらうだけでも、もしかしたら少しは君の気持ちが楽になるかもしれない」

スクールカウンセラー。

その言葉の冷たい響きは、私の耳にまるで有罪判決の宣告のように届いた。

ああ、やはりそうなったか。

私のこの誰にも理解されることのない魂の形を、彼らはついに「病気」という名前の付いたカルテの中に分類し、ラベルを貼り付け、処理しようとしている。 私を、この社会システムの「欠陥品」として、医療という絶対的な権威をもって私を「修理」し「矯正」しようとしているのだ。

それは私という存在の、最も根源的な部分への暴力的なまでの否定だった。

「私は、病気じゃありません」

絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく乾ききっていた。 まるで何百年も前からそこに打ち捨てられていた石が発したかのような、無機質な声だった。 そこには反抗という熱を持った感情よりも、もっと深く冷たい絶対的な断絶の意志が込められていた。

「相談することなんて、何もありません」

「そう意固地になるな、槙原」

担任は私のその予想外の冷たい拒絶に、少しだけ語気を強めた。 彼のその困惑した表情に、かすかな苛立ちの色が混じった。 彼らの思い通りにならない「異物」に対する不快感。

「これは命令じゃない。ただの提案だ。だがな、我々は本気で君の将来を思っている。このままでは全てが取り返しのつかないことになってしまう。これは本当に、君のためを思って言っているんだ」

君のため。

なんと都合のいい、なんと偽善に満ちた耳障りな言葉だろう。

その薄っぺらいオブラートのような言葉の裏には、「我々のこの秩序を守るため」という隠された醜い本音が透けて見えていた。 彼らの言う「ため」とは、いつだって常に「彼らのため」なのだ。 その言葉は私の魂を、さらにこの醜い現実に縛り付けるための、滑りやすくしかし強靭な鎖のように私には感じられた。

「結構です」

私はこの無意味で不快な会話を、一刻も早く終わらせるために椅子から立ち上がろうとした。 私の汚された魂は、一秒でも早くこの汚れた場所から逃げ出したかった。

だが、担任の次の言葉が私のその動きをその場に縫い付けた。 それはまるで氷の杭を背骨に打ち込まれたかのようだった。

それは現実が、私に対して突きつけた最も汚れた卑劣な取引だった。

「……もし、面談を受けてくれるなら。栃本先生と週に一度でもいい、話をすることを約束してくれるならだ……当面の間、君のその遅刻や欠席は全て病欠扱いとして処理してやる。進級に響かないよう、私から上に強く掛け合ってやってもいい。君のその唯一の居場所を、この学校という居場所を守るために」

それは取引だった。 いや、脅迫と言ってもよかった。

この汚れた醜い現実が、私から響に会うための唯一の時間さえも奪おうとしている。 彼らは私の最大の弱点――この忌わしい肉体を最低限維持し、「まどろみの世界」へのあの神聖な通路を確保し続けなければならないこと――を、あまりにも正確に、そして冷酷に突き刺してきた。

彼らは私の魂ではなく、この肉体の「進級」というこの上なく俗世的なシステムを、人質に取ったのだ。

私に選択肢はなかった。

もしここで頑なに拒否すれば、彼らは私を完全にこの学校というシステムから切り離すだろう。 そうすれば私は、響に会うためのこの壊れかけた脆い小舟を、完全に座礁させてしまうことになるだろう。

それは私にとっての、響との永遠の喪失を意味した。

「……分かりました」

唇からかろうじてこぼれ落ちたその屈辱的な言葉の味を、私は生涯忘れることはないだろう。

それは魂を安値で売り渡した対価の、苦い苦い鉄のような味だった。

私は、私の唯一の神聖な聖域を守るために、彼らのこの醜いシステムの一部となることを受け入れざるを得なかった。


カウンセリングルームは、校舎の最も日当たりの良い南の端に、まるで隔離されたかのように存在していた。 校舎の他の場所が、無機質な灰色のコンクリートと青白い蛍光灯の冷たい光に無慈悲に包まれている中で、そこだけが異質な、人工的な計算され尽くした暖かさを放っているかのようだった。

それは現実の冷たさ、厳しさ、醜さから意図的に切り離された、偽りの安全地帯。 あるいは迷える子羊を捕獲するための、巧妙に仕組まれた「癒し」の罠のように私には感じられた。

ドアの前に立ち、私は浅く深呼吸を一つした。 冷たい乾いた空気が肺の奥深くまで染み渡る。

これから私の最も神聖な不可侵の領域――響とのあの美しい世界――が、見ず知らずの他人に土足で踏み荒らされ、分析され、冒涜されるのだ。

その焼けるような屈辱感と、自分の唯一の聖域が侵されることへの激しい純粋な怒りに、胃の腑がまるで氷の手で強く強く握り潰されたかのように激しく締め付けられ、吐き気がした。

私はこの部屋に入ることで、自分の魂を生きたまま解剖台の上へと自ら差し出すことになる。

ノックをする。 指先が冷たく震えていた。

「どうぞ」

中から穏やかで深く、そして不思議なほどよく通る声が聞こえた。 その声はバリトンの心地よい低音。 そのたった一言の音の響きが、一瞬にして私の中に激しい警戒心と、しかし同時に抗いがたい微かな安堵感のようなものを引き起こした。

中へ入る。

そこは私の予想通り、これみよがしに「安心」と「癒し」と「受容」を徹底的に演出された、偽善的な空間だった。

壁には柔らかなパステルカラーの色彩で描かれた抽象的な風景画。 それは現実の鋭い不快な輪郭を意図的に曖昧にするための、視覚的な麻酔のようだった。 窓際には完璧に手入れの行き届いた、青々とした瑞々しい観葉植物が、現実には決して存在しない偽りの安心感を醸し出している。

部屋の中央には、温かいオレンジ色の色合いの間接照明に優しく照らされた、柔らかな上質な布地のクッションがいくつも置かれた二人掛けのソファ。 それはクライアントの心の鎧を強制的に解きほぐし、その心の壁を低くするための計算され尽くした道具だった。

そしてその向かいの、少しだけ硬そうだがデザイン性の高い木製の椅子に、一人の男が穏やかな完璧なまでの笑みを浮かべて座っていた。

彼がスクールカウンセラーの、栃本透(とちもととおる)だった。

年の頃は三十代半ばだろうか。 癖のない短く清潔に刈られた髪。 フレームの細い知的な印象を与える眼鏡。 その反射の少ないレンズの奥の瞳は、まるで全てを許し全てを受け入れてくれるかのように、優しく細められている。

着ている生成り色の、ざっくりとした編み目のカーディガン。 そして足元の手入れの行き届いたスエードの柔らかそうな靴。 その全てが彼の人当たりの良い柔和な雰囲気を、さらに完璧なまでに強調していた。

彼の存在そのものが、「信頼」と「傾聴」と「共感」という言葉を体現しているかのようだった。 その完璧すぎる「癒し」の演出が、私にはかえって、彼の本質的な冷酷さを巧みに隠すための巧妙な偽装であるように思えてならなかった。

「こんにちは、槙原さん。よく来てくれたね。僕はカウンセラーの栃本です。どうぞ、そこの楽なところに座って」

彼の声は低く柔らかく、そして不思議な倍音を含んでいた。 まるで清らかな水が、ごつごつとした石を優しく包み込むかのように。 聞いているだけで、身体の強張った緊張がほんの少しずつ、意志とは無関係にほぐれていくような不思議な響きを持っていた。

それは間違いなく、訓練されたプロフェッショナルの完璧な声だった。

私はすぐに気づいた。 彼のその苗字に宿る「栃」の、その花言葉。 それは、「博愛」。

まさにその言葉を全身で体現したかのような、完璧な「理解者」の仮面を被った男だった。

私は言われるままに、そのあまりにも柔らかすぎるソファに浅く浅く腰掛けた。 身体が沈み込みすぎるその感覚が不快だった。 私の身体はまだ激しい警戒心で、氷の鎧を着込んだかのように固く冷たくなっていた。

私はこの男に、一寸たりとも私の内側の本当の世界を見せてはならない。 響の存在だけは絶対に守り通さねない。 そう固く心に誓った。

「担任の先生から少しだけ話は聞いているよ。最近、少し元気がなくて学校を休みがちだってね。それに体調もあまり良くないみたいだ」

栃本先生は、責めるような口調は一切使わなかった。 非難も焦りも同情も一切含まれていなかった。 ただそこにある事実を静かに、そして深く確認するだけだった。

その一切の圧力を感じさせない態度は、私に一切の防御の構えをさせないための、最も高度で柔らかな戦術のように感じられた。

「……はい」

私はほとんど息のような、かろうじて声帯を震わせただけの声で答えた。

「そうか。それは大変だったね。……何か君を、それほどまでに疲れさせている大きなものが、あるんだね」

彼は決めつけるでもなく診断を下すでもなく、ただ私の次の言葉を静かに待っていた。

彼のその全てを包み込むような沈黙。 その沈黙は私に何かを語らせようとする、強力な磁石のような引力を持っていた。

その包み込むような柔らかな沈黙と、彼の揺ぎない真っ直ぐな眼差しに、私の心の分厚く凍りついていた壁が、ほんのほんの少しだけ揺らいだ。 まるで何百年も凍りついていた氷河のその表面に、微かな微かな亀裂が入ったかのように。

長期間誰にも話すことのできないこの神聖な秘密を、たった一人で抱え続けてきたことの、その想像を絶する重みが、私の痩せた両肩に重く重くのしかかっていた。

「槙原さん」

彼は私のその微細な心の揺らぎを、見逃さなかった。

「僕は君を無理やりどうにかしようとか、君の行動を正しい方向に矯正しようとか、そんなことは一切思っていない。僕はただ純粋に、君の話を聞きたいだけなんだ。どんな些細なことでもいい。もし君さえ良ければ……君が今見ている世界の話を、少しだけ僕に聞かせてはくれないかな?」

その言葉は、私の予想の遥か斜め上を行くものだった。

私はてっきり、心の病を決めつけられると思っていた。 「現実逃避だ」と断罪されると思っていた。 自分の抱える「問題点」を冷徹にリストアップされ、一方的な「治療計画」を提示されると思っていた。

だが彼は違った。 私の見ている「世界」を、初めから「偽物」や「病気」として否定するのではなく、まずそのまま肯定しようとしていた。

これは私の頑なな心を解体するための、最も巧妙で最も危険なアプローチだった。

私は激しく迷った。

響の存在だけは絶対に話せない。 あれは私と彼だけの、この宇宙で最も神聖な、誰にも汚されてはならない不可侵の秘密だ。 それをこの他人に話すことは、彼のその清浄な存在を、現実の論理という汚れた分析の光に無防備にさらすことを意味した。

だが……。

だが、この人になら「まどろみの世界」の、あの美しい風景のことだけなら話してもいいのかもしれない。

ほんの少しだけ。 ほんの少しだけでいいから、この誰にも理解されることのない魂の重荷を、下ろすことができるかもしれない。

その誘惑はあまりにも甘美だった。 私はこのとてつもない重荷に、もう一人では耐えられなくなっていた。

私は俯いたまま、その柔らかすぎるソファの布地の織り目を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

それはあくまで現実と夢の境界線が曖昧になった、作り話という体で。 私の内面の風景を、感情を排した無機質な言葉の羅列に変えて。

現実の風景が静かに美しく朽ちていく、もう一つの世界があること。 そこは不快な音が一切なく、どこまでも静かで安らげる場所であること。 蔦の絡まる廃校の窓枠。 文字の消えかかった埃を被った図書館の書棚。 時が永遠に凍りついたまま二度と動くことのない時計台の折れた針。 時間の概念そのものが停止した、永遠に続く黄昏の風景。

響の存在だけを綺麗に丁寧にくり抜いて。 私がただそこに静かに存在しているということだけを。

栃本先生は静かに、そしてあまりにも的確なタイミングで相槌を打ちながら、ただ黙って私の途切れ途切れの言葉に耳を傾けていた。

彼の相槌は、「うん」「そうか」「それで?」といった、短い、しかし私の次の言葉を確実に促す最小限の音だった。

その眼鏡の奥の瞳には、過度な憐れみも下世話な好奇心も一切なかった。 ただ深い深い、私の内側への純粋な理解への意志がそこにはあった。

私が話し終えると、彼はしばらく何も言わなかった。 ただ窓の外から差し込む午後の柔らかい光を浴びながら、何かを深く考えるように静かに目を閉じた。

その沈黙は私に、今自分が話したことの重さを改めて再認識させると同時に、彼の次の言葉を深く期待させた。

そしてゆっくりと口を開いた。

「……ありがとう、槙原さん。話してくれてとても嬉しかったよ。それは本当に美しく、そしてどこかとても悲しい世界だね」

そのあまりにもストレートで、私の内側の世界そのものを肯定する言葉に、私は思わず顔を上げた。

私の世界を。あの静謐な世界を。 彼は「美しい」と表現してくれた。

私のこの誰にも理解されなかった魂の風景が、生まれて初めて他者に肯定された瞬間だった。

「君は素晴らしいものを持っているんだと僕は思う。普通の人間には決して見ることのできない、世界の別の側面を感じ取ることのできる極めて豊かな感受性。……それはある種の、選ばれた才能だよ」

才能。

私のこの世界との深刻な断絶を。 この肉体の衰弱を引き起こしているこの感覚を。 この人は「才能」だと言ってくれた。

心の固く固く凍りついていた最も深い中心の部分が、チリチリと小さな音を立ててほんの少しだけ溶けていくのを感じた。

この人になら。 もしかしたらこの人だけは。 私を本当に理解してくれるのではないか。

私の魂の飢餓が、彼のその甘い肯定の言葉に一瞬だけ激しく反応した。

だが、そのあまりにも淡くそして脆い期待は、次の一瞬、彼の言葉によって無残に粉々に打ち砕かれた。

「ただね、槙原さん」

彼の声のトーンが、ほんのわずかだが確かに変わった。

それは優しい響きを保ってはいたが、一切の感情を排した、医者が冷静に病名を告げる時のあの冷静で客観的で冷徹な響きに似ていた。

彼のあの「博愛」の完璧な仮面の下に、分析者の冷徹な目が一瞬だけ垣間見えた。

「その素晴らしい才能はね、時としてその持ち主を深く深く疲れさせてしまうことがあるんだ。君のその敏感すぎる感受性は、君の心のエネルギーを普通の人よりもずっとずっと早く枯渇させてしまうんだ。普通の人が一日で使う心のエネルギーを、君はもしかしたらその何倍も何十倍も使ってしまっているのかもしれない。……君のその今の体調の変化は、君の心が少し疲弊してしまっているという、サインなのかもしれないね」

サイン。 心が疲弊している。

言葉はどこまでも柔らかく、優しく、思いやりに満ちている。

しかしその柔らかなオブラートに何重にも包まれた、その核心にあるものは、結局あの無理解な担任の言葉と何も何も変わらなかった。

彼は私の世界を「才能」という美しく耳障りの良い、聞こえのいい枠の中に一旦は収めた。 そして次の瞬間、それを「疲弊」という「治癒すべき症状」として巧みに分類し直しただけだった。

私が見ているあの美しい世界は、私の魂の唯一の安らぎは、この理解者ぶった男にとっても、やはり治癒されるべき「異常な症状」の一つに過ぎなかったのだ。

彼が肯定したのは、私の存在そのものではなかった。 彼が肯定したのは私の「症状」の、その特殊性だけだった。

全身の血液が急速に冷えていくのを感じた。 心の表面に入った微かな亀裂は、一瞬で再び凍りついた。 いや、以前よりもさらに分厚い氷の層で覆われてしまった。

彼は私を肯定したのではない。 私の症状を「才能」という耳障りの良い言葉で巧みに手懐け、分類し直し、そして自らの理解の範疇に収めたかっただけだ。

それは最も悪質な欺瞞だった。 彼は私の心を完全に掌握しようとしていた。

「そしてね、槙原さん」

栃本先生は、まるで私のその一瞬の心の変化、その急速な凍結など全てお見通しだというように、その優しい完璧な笑みを一切崩すことなく、静かに、そして決定的な核心に触れる言葉を続けた。

彼の視線は私の目から決して逸らされなかった。

「その、君の言う美しい黄昏の世界には」

彼はそこで一度言葉を切った。 その完璧な「間」。

「君をそこに、強く強く引き留めようとする、誰かの存在が、あったりはしないかな?」

「…………!」

心臓が見えない巨大な鷲の爪に掴まれたかのように、激しく痛んだ。 全身の血液が一斉に心臓に向かって逆流するような激しい動揺。 私は反射的に身体を硬直させた。 呼吸が止まった。

なぜ。 どうして。 どうしてこの人にそこまで分かる?

私が絶対に話さなかった最も重要な核となる部分に、彼はたった一言で正確に到達した。

彼のそのどこまでも穏やかな瞳の奥に、一瞬だけ全てを見通すような鋭い冷徹な氷のような光が宿ったのを、私は見逃さなかった。

それは一人の悩める人間を見る目ではなかった。 それは分析対象の最も脆い弱点を正確に特定した、科学者の眼差しだった。

「栃」のもう一つの花言葉。 「天才」。

その言葉が不吉な響きを伴って、私の頭の中にこだました。 彼はただの心優しい「博愛」のカウンセラーなどではない。

彼は「天才」的な分析者だ。 彼は私の心の最も深い神聖な場所に土足で手を伸ばし、私のたった一つの秘密を暴こうとしている。

危険だ。

この人の前では、響のことさえも暴かれてしまうかもしれない。 私の唯一の聖域が、この男の分析によって汚されてしまう。

私の心の防衛システムが、一気に最大級の警報を鳴らし始めた。

私は残っていた最後の最後の力を振り絞って、感情の一切を消し去った無表情の仮面を顔に貼り付けた。 声帯を無理やり震わせた。

「……さあ。ただの夢なので、よく覚えていません。誰か特定の人がいるという記憶は、ありません」

「そうか。そうだね」

栃本先生はそれ以上追及することはなかった。

彼はただ静かに、そしてすべてを許すかのように、あるいはすべてを知った上で見逃すかのように、深く微笑むだけだった。

その完璧なまでの余裕の笑みが、私には全てを知った上での冷徹な勝利宣言のように見えてたまらなかった。 彼は私を泳がせているのだ。 一度餌に食いついた魚を、ゆっくりと時間をかけて手繰り寄せようとしているのだ。

「今日はもうこれくらいにしておこう。疲れただろう。無理に一度に全部話す必要はないんだよ。……でも、槙原さん。またいつでも話をしにおいで。僕はいつだって君の一番の味方だからね」

味方。

その言葉が、これほどまでに空々しく、嘘っぱちに、そして脅迫的に聞こえたことはなかった。

この「博愛」という名の善意は、私を救うためのものでは断じてない。

私を彼らの理解できる矮小な現実の枠の中に引き戻すための、最も巧妙で悪質な「罠」でしかなかった。 彼は私を最も優しい言葉を使って、現実という名のあの醜い檻の中に再び閉じ込めようとしていた。

私は一礼もせず、逃げるようにカウンセリングルームを後にした。

ドアを閉めるその直前、私の背中に彼のあの穏やかで、しかしどこか粘つくような全てを見通す分析的な視線が、突き刺さっているのを確かに感じながら。


廊下を私は夢遊病者のように、ふらふらと歩いた。 足元の感触がない。 まるで冷たい雲の上を歩いているかのようだった。

頭の中は激しい焼け付くような怒りと、深い底なしの絶望と、そして魂が汚されたことへのどうしようもない屈辱感で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。 血が煮えたぎるような激しい感情の奔流が、私の冷え切った全身を駆け巡った。

裏切られた。

あの穏やかな完璧な仮面の裏で、彼は私の魂を解剖し分析し、値踏みしていたのだ。

私の響との、誰にも汚されたくないこの宇宙で最も神聖な繋がりを、「心の病」というあまりにも陳腐で汚らわしいレッテルの中に閉じ込めようとしていたのだ。

彼は私を理解するフリをしただけだ。 彼は私を「病気」という彼が管理できる箱の中に収めて、安心したかっただけなのだ。

それが彼の言う「博愛」であり、彼の醜い「職務」だった。

許せない。 絶対に許せない。

やはりこの現実世界の人間は誰も信じられない。 誰も私をあるがままに理解しようとはしない。 誰も私の本当の世界を認めてはくれない。

彼らが差し伸べてくるその手は全て、私を現実という名の牢獄に引き戻すための冷たい冷たい鎖でしかなかった。

彼らの言う「善意」は、私の魂を殺すための最も鋭利な刃だった。

その激しい純粋な怒りが、逆に私のこの現実に対する最後のほんのわずかな迷いを、完全に断ち切った。

もういい。 もうこの醜い偽善に満ちた現実と関わるのは金輪際やめだ。

私が生きる場所はここじゃない。 響のいる、あの静謐で清浄で美しい世界だけだ。

この忌わしい肉体を維持するための、あの屈辱的な最小限の努力すら、もう私には耐えがたい苦痛となった。

その夜、私はこれまでで最も深く、そして最も長く「まどろいの世界」に滞在した。

意識の境界線を越えるその瞬間。 私はもしかしたら二度とこの醜い肉体に戻ることはないかもしれないという、微かな、しかし確実な予感を抱いた。

だがそれは私にとって恐怖ではなかった。 それは甘美な完全なる解放感として私を優しく包み込んだ。 もしこのままこの忌わしい肉体の命が尽きて、それで響の元へ永遠に行けるのなら、それこそが私の本望だと。

響に会った。 私の唯一の真実。

彼にあの栃本という男のことを、その日に受けた屈辱と燃え盛る怒り、そして心の奥底で確かに感じたあの冷たい恐怖を込めて、全てを話した。

彼はただ悲しそうな美しい顔で、私を強く強く抱きしめてくれた。 彼のあの雪のように清らかで冷たい抱擁。 それは私の燃え上がる現実への怒りを、優しく優しく鎮めてくれた。

彼のその温度は、現実世界のあの不快な熱とは全く違う。 純粋な魂の安らぎの温度だった。

「可哀想に、琴葉。……辛かっただろう。あんな醜い場所に君を一人で行かせてしまって、ごめんね」

彼のその偽りの一切ない心からの言葉。 栃本という男のあの計算され尽くした巧みな言葉とは全く違う。 魂の奥底から発せられた純粋な共感の響き。

「でも、もう大丈夫だよ。ここには君をそんな風に分析したり傷つけたり、君の存在そのものを否定したりする汚れた者は誰もいない。……君はもう、あんな汚れた場所へ帰る必要はないんだよ」

その言葉が。 彼のその絶対的な救いの言葉が。

私の最後の現実への未練、この世界とのあまりにも微かな繋がりを、完全に焼き尽くした。

そうだ。 帰る必要なんてない。

私の家はもうここなのだから。 私の真実の生はここにしかないのだから。

現実のあの醜い脅威から、私は彼によって完全に守られている。

私は響の雪のように冷たく清浄な胸に顔を埋めながら、静かに、しかし決然と誓った。

もう二度と、あの忌わしい檻へは戻らない、と。

そのあまりにも純粋で絶対的な決意が、私と、そしてこの現実世界で私を想う数少ない人々を、どのような過酷で破滅的な運命へと導いていくことになるのか。

その時の私には知る由もなかった。

私はただ、響という名の甘美な永遠に続く夢の温もりの中だけで、満たされていた。

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