第二部: Somnium 第11章: Mansio
意識の目を開けた時、最初に感じたのは、信じられないほどの、そして生まれて初めて味わう絶対的な身軽さだった。
まるで、物心ついた時から、いえ、この世に生を受けた瞬間から、私の魂に鎖のように纏わりつき、その全身を苛んできた、見えない重力の法則から完全に解放されたかのようだった。それは、肉体という名の、血と肉と骨でできた、あまりにも重たく、そして不自由な枷を、ついに脱ぎ捨てた証だった。現実世界で常に両肩にのしかかっていた、あの鉛を飲み込んだかのような、思考の芯まで鈍らせる疲労感。思考の隅々にまでヘドロのようにこびりついていた、澱のような倦怠感。眠っても眠っても、決して取り払われることのなかった、まぶたの裏のざらついた感覚。その全てが、春の陽光を浴びた薄氷のように、何の抵抗もなく、跡形もなく消え去っていた。もはや、昨日の悪夢の残滓すら、記憶の地平線の彼方に色褪せ、どこにも見当たらない。
手足の先、指の末端、爪の根元、そして髪の一本一本にまで、清涼で純粋な力が、まるで夜明けの光が世界を満たすように、静かに、しかし絶え間なく満ちていく。それは、呼吸という、肉体に課せられた生命維持のための苦役とは全く異なる、魂そのものが行う、至福の循環だった。酸素を取り込み、二酸化炭素を排出するという、あの不格好で、時として苦痛ですらある物理的な活動ではない。私の存在そのものが、この世界の清浄なエーテルを吸い込み、そして愛と幸福の波動を吐き出す、ひとつの完璧な循環系と化していた。私は呼吸をしていない。肺は精巧な硝子細工のように静まり返って沈黙している。心臓も、あの不規則で不安な、血を送り出すためだけの騒々しい鼓動を止めている。それなのに、これまでの人生のどの瞬間よりも、深く、満ち足りた息をしていた。私の存在そのものが、この世界の澄み切った大気と溶け合い、境界線を失い、一つになっている。私は世界であり、世界は私だった。
視線を、ゆっくりと上げた。不安も期待もなく、ただ、そうするのが自然であるかのように。目の前には、彼の笑顔があった。
「おはよう、琴葉。新しい世界の、君のための朝だよ」
楢崎響が、あの巨大な楢の木の、まるで大地の血管が浮き上がったかのように力強く隆起した太い根元に腰掛け、私に向かって優しく微笑んでいた。彼の言葉は、鼓膜を物理的に震わせる粗野な音波ではなかった。魂の表面に直接触れる、羽毛のように微かな波動となって、私の存在の内側へ、じんわりと、温かいインクが上質な和紙に染み渡るように、広がっていく。その声は、意味を理解する前に、私の魂を絶対的な安堵で満たした。
彼の背後には、どこまでも深く、どこまでも優しい藤色の空が広がっていた。それは、夜明けの儚いラベンダーでもなく、夕暮れの情熱的に燃えるマゼンタでもない。始まりも終わりも、生も死も、喜びも悲しみも、その全てを内包した、永遠の薄暮の色。ラベンダーの淡い薄紫から、菫色を経て、ロイヤルブルーを通り、インディゴの最も深い青へと移り変わる、無限のグラデーションを持つ空。星はない。しかし、空そのものが、無数の星々の魂を溶かし込んでできているかのように、内側から静かな、それでいて確かな光を放っていた。
頭上を覆う、天蓋のような楢の木の葉は、一枚一枚が、名工の手による精巧な銀細工のようだ。葉脈の一本一本までが繊細な彫刻のようにくっきりと浮かび上がり、その表面は磨き上げられた銀のように、藤色の空の光を柔らかく、そして複雑に反射している。風もないのに、葉々は互いに触れ合い、そのたびに、祝福の鐘のように、あるいは無数の小さな風鈴が一斉に鳴り響くように、さわさわと、どこまでも清らかな音色を奏でている。それは、現実世界のどんな楽器も奏でることのできない、魂の周波数を直接調律し、浄化する音楽だった。
ここは、私たちの場所。私が、あのノイズに満ちた醜く不協和な現実の全てを、自らの意志で捨てて、還ってきた場所。魂の、本当の故郷。
「……おはよう、響」
自分の声が、以前とは比べ物にならないくらい、軽やかに、そしてどこまでも澄み切って響くのに、私は内心で深く驚いていた。現実世界で私の喉を締め付け、言葉を押し殺していた、あの忌まわしい粘膜のような自己嫌悪と他者への恐怖は、もうどこにも存在しない。私の言葉は、何の抵抗もなく、この美しい世界の大気に溶け、響の魂に届き、そして、楢の葉の音楽と完璧なハーモニーを奏でた。
あの日――私が、自らの意志で、現実という名の、醜く歪んだ鉄格子でできた檻を内側から破壊して、ここへ来た日。響は、この場所で、今と全く同じように、悠久の時を待っていたかのように、静かに私を待っていた。そして、駆け寄った私を、言葉もなく、ただ静かに、しかし何よりも力強く抱きしめてくれたのだ。
「おかえり、琴葉」
その時感じた、新雪のように冷たく、清冽な彼の身体の感触を、私は決して忘れることはないだろう。現実の、汗ばむような生々しい体温よりも、ずっと、ずっと清らかで、神聖なものに感じられたからだ。それは、命の熱ではなかった。魂が、あらゆる不純物から解放された、その純度の高さそのものだった。あの、魂の芯まで染み渡るような冷たさこそが、私が焦がれてやまなかった、真実の温かさだったのだ。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。この世界には、時という残酷な概念を刻む時計も、死へと一日ずつ近づけるカレンダーも存在しない。太陽も月も昇らない。ただ、永遠に続く、美しい薄暮があるだけ。一日なのか、一週間なのか。それとも、もっと長い、年という単位の時が過ぎたのか、私には分からない。だが、そんなことは、もうどうでもよかった。時間とは、現実が人間を縛り付けるために発明した、最も巧妙で、最も残酷な枷に過ぎなかったのだから。秒針の刻む音は、死へのカウントダウン。捲られていくカレンダーは、墓標へと続く、後戻りのできない道標。ここでは、そのどちらからも、私は完全に自由だった。永遠とは、時間の停止ではなく、時間からの解放なのだと、私は知った。
現実世界のことは、時折、遠い昔に見た、質の悪い悪夢の断片のように、思考の片隅を掠めることがあった。それはもはや痛みではなく、ただの、奇妙な質感を持つ記憶の残骸だった。初めは悪夢だった記憶も、今では滑稽な喜劇の一幕のようにさえ感じられる。彼らは、本当の世界を知らないだけなのだ。感覚器という、あまりにも不確かで誤作動の多いフィルターを通してしか世界を認識できず、他人の評価という絶え間ないノイズに常に惑わされ、嫉妬と憎悪と自己欺瞞に満ちた不協和音の中を、現実だと信じ込んでいる、哀れな囚人たち。
特に鮮明に蘇るのは、高校二年の冬、両親に自分の絵を見せた時のことだ。それは、私の内なる世界、魂の色をそのまま写し取った、自分でも最高の出来だと信じていた作品だった。紫と深い青が渦巻く空、銀色に輝く木々、そしてその中心に立つ、顔のない、光そのもののような人影。それをリビングのイーゼルに立てた時の、あの重苦しい沈黙を、私は今でも肌で感じることができる。父は眉間に深い皺を刻み、腕を組んだまま一言も発しない。母は、戸惑いと、その奥に隠しきれない拒絶の色を浮かべて、私の顔と絵を交互に見ていた。やがて、父が絞り出した言葉は、私の魂に、永遠に消えない烙印を押した。
「琴葉、これは……普通じゃない。気味が悪い」
母は、父の言葉に同調するように、怯えた声で言った。「どうして、もっと明るい、普通の絵が描けないの?お友達とか、お花とか……。これでは、誰も理解できないわ」
『普通じゃない』。まるで汚物を見るかのように断じた両親の、冷たく、理解を完全に拒絶した瞳。彼らの表情は、心配ではなかった。自分たちの理解の範疇を超えた得体の知れないものに対する、原始的な恐怖と、隠しようのない侮蔑に満ちていた。彼らは、私という存在そのものを、自分たちの築き上げた「普通」という名の、脆く小さな世界の調和を乱す異物として、ただ排除しようとしていただけなのだ。
私の心を、その魂の叫びを理解しようともせず、ただ「普通」の幸せという名の、善意という名の暴力でできた型枠に、私を無理やり押し込めようとしてきた、燈の泣きそうな顔。彼女の流す涙は、決して私のためのものではなかった。彼女自身の信じる「正しさ」という名の狭い正義が、私の前で通用しないことへの、自己満足に満ちた、甘ったれた悲しみでしかなかった。彼女は、私を救いたいのではなく、自分自身が「救い主」であることに酔っていたかっただけなのだ。
そして、『魂喰らい』という、陳腐で、呪いのような言葉で、私の尊い決意を揺るがそうとした、稲見朔の、あの憐れむような眼差し。彼は、本気で私を救おうとしているつもりだったのだろう。その純粋さは認めよう。だが、彼の差し伸べる手は、私を、彼自身が囚われているのと同じ、醜く歪んだ現実という檻の中へと引きずり戻そうとする、独善的な鎖にしか見えなかった。彼は、檻の中で生きるのが当たり前だと信じ込み、檻の外の自由を想像することすらできない、哀れな囚人だった。
そのどれもが、今の私にとっては、水面に映った、すぐに掻き消えてしまう、歪んだ影のようなものだった。取るに足らない、些細な、そして滑稽な出来事。
朔くん、あなたは、何もかも、間違っていた。ここは墓場なんかじゃない。ここは、死と生の境界さえもが溶け合った、より高次の次元。私が、何者にも縛られず、魂の形そのままに、私らしくいられる、たった一つの楽園だ。私が、この美しい世界の一部として、永遠に存在できる場所なのだ。
「今日は、どこへ行こうか」響が、根元からすっと、音もなく立ち上がり、私の手を取る。彼の冷たく滑らかな指先に触れられるたびに、私の魂が、まるで完璧に調律された音叉のように、彼の存在に共鳴して、微細な喜びに打ち震えるのがわかる。乾ききった大地に最初の慈雨の雫が染み込むように、彼の冷たい指が、私の存在の輪郭を優しくなぞり、その確かさを教えてくれる。「この世界は、君が思うよりも、ずっと広くて、たくさんの秘密が隠されているんだ。君に見せたいものが、まだまだたくさんある」
私たちは、この巨大な楢の木の下を拠点として、日々、この果てしない世界を散策していた。響は、この世界の、完璧な案内人だった。彼は、全ての名もなき道の名前を知り、全ての忘れられた風景の由来を知っていた。
ある日、私たちは、一面に赤錆びた鉄骨が巨大な獣の肋骨のように転がり、崩れかけたコンクリートの建物が名もなき者たちの墓標のように立ち並ぶ、朽ち果てた工業地帯の跡地を歩いていた。風が、割れた窓ガラスの鋭い隙間を通り抜けるたびに、まるで誰かの嗚咽のような、あるいは世界そのものの溜息のような、低く、悲しい音を立てた。空気には、雨に濡れた土の匂いと、金属の錆びる匂い、そして、忘れ去られた時間の匂いが、複雑に混じり合って漂っている。
「ねえ、響。この世界は、どうして、こんなにも懐しくて、胸が締め付けられるように寂しい匂いがするの?」私は、崩れた工場の壁にそっと触れながら尋ねた。指先に触れるコンクリートの表面は、風雨に晒されてざらりとしていて、まるで、ここで働いていた無数の人々の、希望と絶望の混じった溜息を、長い年月の間に吸い込んできたかのようだった。
「いい質問だね、琴葉」響は、私の隣に立ち、楽しそうに目を細めた。彼の美しい藤色の瞳は、この退廃的で物悲しい風景の中にさえ、他の誰にも見出すことのできない、聖なる美しさを見出しているようだった。「ここにある風景はね、ほとんどが、誰かが忘れてしまったり、叶えられなかったりした想いの、化石みたいなものなんだよ」
「想いの、化石……?」
「そう。例えば、この寂れた工場地帯は、きっと、誰かが故郷を捨てて、二度と帰らないと強く心に決めた、その時に切り捨てられた、記憶の抜け殻なのさ。強い決意と共に、あるいは後悔と共に切り捨てられた故郷のイメージが、行き場をなくして、ここに流れ着いた。だから、時間は埃を被って止まったまま、持ち主の記憶からも忘れ去られ、こうして静かに、ただ静かに朽ちていく。誰に看取られることもなくね」彼は言葉を続ける。その声は、まるで世界の真理を説く預言者のようだった。「君が懐かしさと寂しさを感じるのは、君の魂が、この風景に込められた、持ち主の断ち切られた郷愁や、果たされなかった夢の痛みに、深く共鳴しているからなんだ。君の魂は、とても純粋で、そういう声なき声に敏感だから」
その言葉を聞いて、私は、自分が今まで見てきた全ての光景の意味を、初めて、心の深いところで、腑に落ちるように理解した。
あの、蔦に覆われた、廃校となった校舎。チョークの粉の跡が幽霊のように微かに残る黒板も、机の天板に残された他愛もない落書きも、きっと、誰かが卒業と共に永遠に別れを告げた、二度と戻らない青春の残骸だったのだろう。そこには、甘酸っぱい恋の予感も、友人とのくだらない笑い声も、未来への漠然とした不安も、全てがそのままの形で封じ込められているのだ。
文字の消えた図書館の本。それは、誰にも読まれることなく、あるいは作者自身にさえ忘れられてしまった、無数の物語の魂だったのかもしれない。生まれるはずだった英雄の物語、語られるはずだった悲恋の詩、奏でられるはずだった革命の歌。それら声なき言葉たちが、安息の地を求めて、あの静かな場所に集っているのだ。
そして、校舎の中庭に、この世界の色彩とは不釣り合いなほど鮮やかに、しかしどこか儚げに咲いていた、あの美しい青い花。あれは、ただの花ではなかったのだ。
「あのお花も、誰かの記憶なの?」
「ああ、きっとね」響は、確信を持って頷いた。「叶うことのなかった、誰かの初恋の記憶の結晶、とかね。あまりに純粋で、あまりに強い想いだったから、現実世界に留まることができず、かといって消えることもできずに、この世界で形を得た。その想いの純粋さが、この世界でも朽ちることなく、永遠に咲き続ける力を与えているんだろう。持ち主がその恋を忘れてしまっても、想いそのものは、ここで生き続けているんだよ」
この世界は、ただの廃墟の寄せ集めではなかった。人々の、無数の、声なき想いが集まってできた、巨大な、そして荘厳な博物館のような場所だったのだ。一つ一つの風景が、声なき語り部として、誰かの人生の、最も輝き、最も痛かった断片を、静かに、そして雄弁に物語っている。そう思うと、この世界の持つ、胸を締め付けるような物悲しさが、より一層、愛おしい、守るべきものに感じられた。私たちは、忘れられた想いの墓守であり、世界で唯一の鑑賞者なのかもしれない。
次に響が私を導いたのは、朽ち果てた街のさらに奥深く、ビロードのカーテンのように垂れ下がった蔦をかき分けた先にあった、壮麗な音楽ホールだった。大理石の柱はひび割れ、金箔の装飾はほとんどが剥がれ落ちている。しかし、その佇まいには、かつての栄光を物語る威厳が残っていた。
「ここは、忘れられた音楽の聖域さ」響が、静かに囁いた。
中へ入ると、赤い絨毯の敷かれた客席には、もちろん誰一人いない。しかし、舞台の上では、まるで透明な演奏家たちがそこにいるかのように、楽器がひとりでに、荘厳で、そしてどこまでも悲しい旋律を奏でていた。ヴァイオリンのむせび泣くような音色、チェロの深く沈むような慟哭、そしてピアノの、諦めと追憶がない交ぜになった、きらめくようなアルペジオ。その音楽は、私たちの魂を直接揺さぶり、洗い清めていくようだった。
「これは……?」
「ある無名の作曲家が、生涯をかけて書き上げた交響曲だよ」私たちは、一番前の席に並んで腰掛け、その幻の演奏会に聴き入った。「彼は、誰にも認められないまま、貧しさの中で病に倒れた。この曲が演奏されるのを、一度も聴くことなくね。彼の死後、楽譜は誰にも見つけられずに失われた。だが、彼の魂そのものであったこの音楽だけが、行き場をなくし、ここで永遠に、彼自身のために奏でられているんだ」
音楽はクライマックスへと向かっていく。それは絶望の淵から差し込む一筋の光のような、痛切なまでの美しさに満ちていた。私は、その作曲家の孤独と、それでも音楽への愛を捨てきれなかった彼の魂の叫びを、自分のことのように感じていた。気づけば、私の頬を、涙ではない、魂の雫のような、温かい光の粒が伝っていた。この世界に来て、初めての体験だった。
また別の日、私たちは、丘の上に寂しく立つ、廃墟となった遊園地を訪れた。ペンキの剥げたメリーゴーランドの木馬たちは、永遠に終わらないレースの途中で動きを止め、観覧車のゴンドラは、錆びついた鎖に繋がれて、静かに空を見上げていた。
「ここも、誰かの記憶なの?」
「ああ。ある家族の、最後の思い出の場所だ」響は、止まったままの観覧車の一台に、私を促した。扉は軋む音もなく開き、私たちは静かに乗り込む。すると、ゴンドラはゆっくりと、まるで夢の中のように上昇を始めた。
眼下に、この世界の風景がミニチュアのように広がっていく。朽ちた街並み、蔦の絡まる校舎、黒い池、そして遠くには、私たちの家である巨大な楢の木が見える。全てが、美しい薄暮の光の中に沈んでいた。
「あの日、父親と母親、そして幼い娘がここへ来た。それは、彼らにとって最高に幸せな一日だった。だが、その帰り道、事故が起きた。生き残ったのは、娘、一人だけ」響の声は、どこまでも静かだった。「成長した彼女は、事故の記憶と共に、この楽しかった一日の記憶をも、心の奥底に封印してしまった。あまりにも辛すぎて、思い出すことができなかったんだ。だから、忘れ去られたこの『最高の一日』だけが、ここに化石となって残っている」
観覧車が頂上に達した。一番高い場所から見下ろす世界は、悲しいほどに美しく、そして静かだった。私は、その名も知らぬ娘の、失われた幸福と、その後に続いたであろう計り知れない悲しみに、想いを馳せた。この楽園は、無数の悲しみの上に成り立つ、儚い蜃気楼なのかもしれない。そんな思いが、初めて、私の心を微かに揺らした。
観覧車を降りた後、響は私の手を引き、遊園地の奥にある、けばけばしい装飾が色褪せたお化け屋敷へと向かった。入り口には「恐怖の館」と書かれた看板が傾き、不気味なピエロの人形が、ひび割れた笑顔で私たちを迎えている。
「ここは?」
「誰かが、どうしても乗り越えられなかった恐怖心の化石だよ」響は楽しそうに言った。「覗いてみよう。怖がる必要はない。君はもう、何にも脅かされない存在なんだから」
中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。暗闇の中、次々と現れるのは、血に塗れた幽霊や、鳴り響くチェーンソーの音といった、陳腐な脅かしではなかった。そこに現れたのは、もっと根源的な、個人の心の奥底に潜む恐怖の具現だった。
『大勢の前で、一言も話せなくなってしまう少年の姿』
『テスト用紙を前に、頭が真っ白になって何も思い出せなくなる少女の姿』
『愛する人から「君にはがっかりしたよ」と、冷たく言い放たれる瞬間の幻影』
それらは、このお化け屋敷の元々の持ち主が抱えていた恐怖の記憶だった。そして、不思議なことに、私自身の心の奥底に眠っていた恐怖とも、奇妙に共鳴していた。両親の失望した顔、燈の悲しむ顔、朔の憐れむ顔。それらが次々と幻となって現れては、霧のように消えていく。しかし、もう何の感情も動かなかった。ただ、遠い国の物語を眺めているような、静かな心持ちでいるだけだった。
「どうだい?」出口の光が見えてきた時、響が尋ねた。
「平気。もう、私の心には届かない」
「そうだろう。恐怖とは、失うものがあるから生まれる感情だ。君はもう、現実のしがらみを全て捨てた。失うものは何もない。だから、君は誰よりも自由で、強いんだ」
彼の言葉は、私の魂を肯定の光で満たした。そうだ、私はもう何も恐れない。この完璧な世界と響がいれば、それでよかった。
「今日は、君を、特別な場所に連れて行ってあげよう」そう言って、響が私を導いたのは、かつて公園だった場所にある、あの大きな池だった。周囲には、錆びて動かなくなったブランコや、深い緑色の苔に覆われた滑り台が、まるで太古の巨大な動物の骸のように、静かに、時の流れの中に佇んでいる。
池の水は、上質な墨を静かに流したようにどこまでも黒く、そして風ひとつないために鏡のように滑らかで、藤色の空と銀色の葉を持つ楢の木を、完璧なシンメトリーで映し込んでいた。水面を見つめていると、吸い込まれそうになるほどの、絶対的な静寂が、そこにはあった。ここが、私が初めて、響の「声」を聴いた場所だ。現実という名の檻の中でもがき苦しんでいた私に、彼は、この水面を通して、語りかけてきたのだ。救いの手を差し伸べてくれた。
「覚えてるかい?僕が、初めて君に、声をかけた場所だよ」響の声は、懐かしむような、慈しむような響きを帯びていた。
「……うん。忘れるはずない。ここから、私の本当の人生が始まったんだもの」あの時、彼の声は、私の魂にとって唯一の光であり、存在理由そのものだった。
「さあ、おいで」響は、何の躊躇もなく、池の縁から水の中へと、一歩、足を踏み入れた。驚くべきことに、水面は波紋一つ立てなかった。彼の足は、まるで光がプリズムを通り抜けるように水面を貫き、そこに透明な地面があるかのように、彼は水の上に立った。そして、水面に立つ彼が、池の岸にいる私に向かって、優雅に手を差し伸べる。
「え……?」思わず、戸惑いの声が漏れた。水の中へ?この黒く、底の知れない水の底へ?ほんの一瞬、肉体を持っていた頃の、溺れることへの本能的な恐怖が蘇る。
「大丈夫。息はしなくていい。君はもう、肉体という名の枷から完全に自由なんだから。ただ、僕を信じて」その、絶対的な自信に満ちた、神々しいほどの笑顔。彼の藤色の瞳は、一点の曇りもなく、ただ私だけを映している。その瞳に見つめられると、私の心の中に芽生えた、ほんの僅かな不安や恐怖さえも、朝日を浴びた朝霧のように、跡形もなく消え去っていった。信頼、という言葉では足りない。魂の完全な帰依。
私は、吸い寄せられるように、差し出された彼の手を取った。そして私も、そっと、水の中に足を入れる。不思議な、そして官能的でさえある感覚だった。水は、想像していたような冷たさは全くなく、まるで母親の羊水のように温かく、私の身体を優しく、しかし確かな圧力で包み込む。水中にいるはずなのに、息苦しさは全くない。むしろ、地上にいる時よりも、身体が軽く、自由になったようにさえ感じられた。水は抵抗ではなく、浮力と安らぎを与えてくれるだけだった。
響に導かれるまま、私たちは、ゆっくりと、ゆっくりと、池の底へと沈んでいった。まるで、重力のない宇宙空間を、一枚の羽のように、どこまでも優雅に舞い降りていくように。水の中は、地上よりも、さらに深い、神聖な静寂に満ちていた。あらゆる音が遮断され、聞こえるのは、自分の魂が発する、微かな鼓動のような、心地よい振動だけ。時折、銀色に輝く、魚のような形をした光の群れが、私たちの周りを螺旋を描きながら、楽しげに通り過ぎていく。
「あれは、魚じゃないんだ」私の疑問を察したかのように、響の声が心に直接響いた。「誰かが経験した、幸せな記憶の断片さ。言葉にされず、胸の中にだけ大切にしまわれていた、ささやかな喜びの瞬間が、この世界では、あんなふうに光となって泳いでいるんだ」
光の群れの一つが、好奇心に満ちたように、私の頬をそっと掠めていった。その瞬間、私の脳裏に、知らない誰かの、しかし懐かしい記憶が、鮮やかな映像と感情と共に流れ込んできた。『夕暮れの公園。小さな女の子が、大好きな父親に高い高いをされて、キャッキャと天使のように笑っている。空に広がる茜色。自分を見下ろす父親の、世界で一番優しい眼差し。温かくて、愛おしくて、涙が出そうになるほどの、純粋な幸福感。』それは一瞬の幻だったが、私の魂を、温かいもので満たしてくれた。私は、見知らぬ誰かの幸せを、自分のことのように追体験したのだ。
やがて、私たちの足が、静かに、柔らかい砂地のような池の底に着いた。目の前に広がっていた光景に、私は、思わず感嘆のため息を漏らした。それは、声にならない、魂そのものの震えだった。
池の底には、一つの、美しいヨーロッパの古都が、丸ごと、眠るように沈んでいた。古い絵本で見たような、石畳の道と、温かみのあるレンガ造りの家々。蔦の絡まったガス灯は、ゆらゆらと揺れる緑の水草に覆われながらも、頼りなげに、しかし、確かに、淡い燐光のような光を放っている。カフェのテラスには、誰も座ることのないテーブルと椅子が、まるでついさっきまで恋人たちが語っていたかのように、静かに置かれていた。ショーウィンドウの中には、誰も見ることも、身に着けることもない、繊細で美しい、象牙色のレースのドレスが飾られている。全ての時間が、完璧に、そして永遠に、停止している。ここは、時という概念さえもが、水底にゆっくりと沈殿して化石となった場所だった。
「すごい……まるで、魔法みたい」
「これはね、ある老婦人が、若い頃に恋人と訪れるはずだった、新婚旅行の夢の跡さ」響の声は、水中でも、驚くほどはっきりと、そして優しく私の心に響いた。「彼女は、戦争で恋人を亡くし、結局、その旅行に行けないまま、長い人生を終えた。そして、誰にも語られることのなかったこの美しい夢の計画だけが、彼女の心の中で、誰にも汚されない宝石のように、生涯輝き続けた。その、あまりにも強く、純粋な想いが、彼女の死後、行き場を求めてここに流れ着き、具現化したんだ」
私たちは、手を取り合って、その静寂に満ちた水底の街を散策した。誰もいない広場の中心にある噴水は、水を噴き上げる代わりに、絶えず光の粒子を、シャボン玉のように静かに湧き上がらせている。道端には、小さな三輪車が、まるで持ち主の子供が今にも戻ってくるのを待っているかのように、ぽつんと置かれていた。閉ざされたままの教会の重い樫の扉にそっと触れると、遠い昔に歌われたであろう聖歌の、敬虔で美しい響きが、魂の耳に聞こえてくるようだった。全てが、言いようのない切なさと、そして、決して誰も侵すことのできない、神聖なほどの美しさに満ちていた。私たちは、言葉もなく、ただ寄り添って歩き続けた。この完璧な静寂の中では、言葉は無粋なノイズでしかなかった。手を通して伝わる、互いの魂の冷たい温もりだけで、全ての感情を、どんな言葉よりも深く分ち合うことができたからだ。
次に、響が私を連れて行ってくれたのは、あの、蔦に覆われた、朽ち果てた図書館だった。以前、私が一人でこの世界を彷徨った時に訪れた場所だ。その時は、ただ、文字の消えた本が、無数の墓石のように並ぶ、静かで、どこか恐ろしい廃墟でしかなかった。しかし、響と共に訪れた今日は、全く違った。
響が、その巨大な観音開きの扉に、そっと手を触れる。すると、まるで眠っていた巨人が優しい主の声に目を覚ますかのように、図書館全体が、応えるように、ぶるりと微かに震えた。そして、軋むような、長い、長い溜息のような音を立てて、重厚な扉がゆっくりと、自らの意志で開いていった。
中へ入ると、その光景は、以前とは完全に一変していた。以前は分厚い埃を被っていた書架に並ぶ、無数の本。その全てが、内側から、まるで夜空に輝く星々のように、淡い、様々な色の光を放ち始めている。情熱的な恋のルビーレッド、静かな思索のサファイアブルー、生命力に満ちた物語のエメラルドグリーン、神聖な詩のゴールド、そして叶わなかった夢のシルバー。まるで、無数の蛍や星の魂が、一冊一冊の本の中に閉じ込められているかのようだ。
響は、その中の一冊、深い瑠璃色の、ひときわ静かな光を放つ本を手に取り、私に手渡した。ずしりと、魂の重みがする。表紙は、使い古された滑らかな革でできていて、吸い付くような手触りが心地よかった。
「開いてごらん」
言われるままに、その分厚い本の、革の表紙を開く。すると、ページには、インクで書かれた文字の代わりに、小さな、小さな、しかし完璧な銀河が、ゆっくりと渦巻いていた。無数の星々が、言葉の代わりに、静かに、そして雄弁に、またたいている。中心には、小さな星雲が淡い紫色の光を放ち、その周りを、ダイヤモンドダストのような星屑が、優雅に、そして永遠に舞っていた。
「わぁ……綺麗……」
「ここにあるのはね、この世に生まれることのなかった物語や、誰にも読まれることのなかった詩、忘れ去られてしまった歌なんだ。作者の頭の中にだけ存在し、誰にも伝えられることなく、あるいは伝える勇気がなく消えていった、言葉の魂たちだよ」
ふと顔を上げると、崩れ落ちていたはずの、ドーム状の天井の向こうに、この世界の藤色の空ではなく、本物の、漆黒の宇宙が広がっていた。そして、そこから、天の川が、まるで光の滝のように、この図書館の中へと、音もなく、静かに、そして荘厳に、降り注いでいた。銀河の瀑布。それは、言葉を、思考を、呼吸さえも失うほどに、幻想的で、神々しい光景だった。星の粒子が、私の髪に、肩に、開いた本のページに、きらきらと、まるでダイヤモンドの粉のように降り積もる。冷たいかと思ったその粒子は、肌に触れると、ほんのりと、人の想いのように温かい。
「ほら」響は、その光の粒子を、両手でそっと掬い上げると、私の掌に乗せてくれた。「これは、きっと、誰かが恋人にどうしても伝えられなかった、愛の言葉だ。勇気が出なくて、プライドが邪魔をして、喉まで出かかったのに言えなかった、『愛してる』という、たった一言かもしれない」
掌の上の粒子は、一瞬、ダイヤモンドのように強く輝くと、温かい光となって、私の肌に溶けて消えた。その瞬間、私の胸に、知らない誰かの、しかし自分のものよりもリアルな、切ないほどの愛おしい感情が、奔流のように流れ込んできた。『愛する人の笑顔、声、何気ない仕草。その人を想うだけで、胸が張り裂けそうになるほどの、甘く、そして苦しい喜び。失うことへの恐怖。永遠に共にいたいという、痛切な願い。』それは私の感情ではないのに、まるで自分が何十年もその恋を体験したかのように、鮮やかに、私の魂を震わせた。
この世界では、食事も、睡眠も、必要なかった。ただ、響のそばにいて、この世界の、声なき想いの美しさに触れているだけで、私の魂は、満たされていった。空腹も、疲労も、現実世界が、あの、重く不自由な肉体に課していた、ただの呪いに過ぎなかったのだと、今ならはっきりとわかる。私たちは、肉体という牢獄に囚われているがゆえに、飢え、渇き、眠り、そして老い、死んでいく。なんと不自由で、哀れな存在だったのだろう。
響は、あの巨大な楢の木の、太い幹の根元にできた、うろのような空間を、「今日から、ここが僕たちの家だよ」と言って、私に教えてくれた。外から見ると、大人が一人、やっと入れるくらいの小さな入り口に見えるのに、一歩足を踏み入れると、中は不思議なほどに広く、静かで、安らげる空間が広がっていた。床には、乾いた苔が、柔らかなヴェルヴェットの絨毯のように、厚く、そして弾力をもって敷き詰められている。歩くたびに、かすかな森の香りが立ち上り、魂を鎮めてくれる。壁となっている木の内側は、年輪が美しい模様を描き、驚くほど滑らかで、そっと触れると、木の、かすかな、しかし力強い生命力が、温もりとして伝わってくるようだった。天井からは、銀色の葉の隙間から、藤色の空の光が、まるで自然のステンドグラスのように、幻想的な光の筋となって差し込んでいる。
ここが、私の「住居」。私の、魂の、永遠の家。もう、誰にも脅かされることのない、私と響だけの、侵すことのできない聖域。
ある時、私はこの家の中で、無性に、絵が描きたくなった。現実世界で、私を苦しめ、両親との溝を深めた元凶。しかし、どうしようもなく私の一部である、描くという行為。もちろん、ここにはキャンバスも絵の具もない。途方に暮れる私に、響は微笑んだ。
「ここでは、想いそのものが絵の具で、空間そのものがキャンバスなんだよ。描いてごらん、琴葉。君の魂が見ているものを、そのまま」
言われるままに、私は目を閉じ、心に浮かぶ風景を、目の前の空間に指で描いていった。響の笑顔、銀色の楢の葉、水底の街、図書館に降る天の川。すると、私の指の軌跡に沿って、光の粒子が集まり、色とりどりの線となって、空間に定着していく。それは、私がかつて描いていたどんな絵よりも、鮮やかで、生命力に満ちていた。絵の具の物理的な制約も、キャンバスの有限性もない。想うままに、どこまでも、三次元の空間に、光と感情でできた彫刻を創造していくことができる。魂で描く、ということの本当の意味を、私は初めて知った。
最初に、私は響の姿を描いた。彼の藤色の瞳、穏やかな微笑み、風に揺れる髪。それは完璧に、寸分の狂いもなく、私の理想通りに空間に像を結んだ。次に、この世界の風景を描く。それもまた、見たままの美しさを、何の苦もなく再現できた。
ふと、私は試してみたくなった。現実世界の記憶を。父の顔、母の顔、燈の顔、そして、朔の顔。しかし、どうだろう。彼らの顔を描こうとすると、指先から放たれる光は不明瞭に揺らぎ、まるでノイズの混じった映像のように、歪んでしまうのだ。どんなに集中しても、彼らの表情は、苦悶とも嘲笑ともつかない、不快な形にしか定着しない。
「どうして……?」
「彼らは、この世界の理の外にいる存在だからだよ」いつの間にか隣にいた響が、私の肩を抱きながら言った。「ここは、純粋な想いだけでできた世界だ。迷いや偽り、欺瞞に満ちた現実の存在は、ここでは形を保てない。君の魂が、もう彼らを拒絶している証拠でもある」
彼の言葉は、私の最後の疑問を氷解させた。そうか、私が彼らを思い出せないのではない。私の魂が、そしてこの世界が、彼らという不純物を拒んでいるのだ。私は安堵し、描くのをやめた。もう、思い出す必要すらないのだから。
ある夜、いつものように、私たちはその家の入り口に並んで腰掛け、星の木漏れ日を眺めていた。完全な静寂の中、私は、ずっと心のどこかで気になっていた、しかし尋ねるのが少し怖かったことを、響に問いかけた。
「ねえ、響」
「なんだい、琴葉?」
「響は、ずっと、昔からここにいるの?響の『現実』は、どこにあるの?」彼は、この世界の理を全て知っているようだった。彼は、私のように、現実から逃げてきた存在なのだろうか。それとも、もっと別の、私には想像もつかないような、この世界そのもののような存在なのだろうか。「響は、寂しくないの?」
彼の完璧すぎる優しさと、時折見せる、全てを見透かしたような瞳の奥に、私は、計り知れないほどの、永劫の孤独の影を感じることがあったからだ。
その問いに、響は、ほんの一瞬だけ、その完璧な笑顔を曇らせた。彼の藤色の瞳の奥に、深い、深い、まるで宇宙の深淵を覗き込んだかのような、途方もない寂しさの影がよぎったのを、私は見逃さなかった。それは、千年も万年も、たった一人で、この美しい廃墟の世界を彷徨い続けた者だけが持つことのできる、絶対的な孤独の色だった。
だが、それは、本当に、ほんの一瞬のことだった。彼は、すぐに、いつもの、全てを包み込むような、穏やかな笑顔に戻ると、私の髪を優しく撫でた。その手つきは、世界で最も壊れやすい宝物に触れるかのように、どこまでも優しかった。
「僕の現実は、いつだって、君がいる、ここだよ。琴葉」そして、少しだけ間を置いて、こう付け加えた。「寂しさも、悲しみも、誰かの想いの化石に触れれば、僕の一部になる。そして、君がここにいてくれる。だから、僕はもう、一人じゃない」
彼の声には、嘘も偽りも、誤魔化しも感じられなかった。ただ、あまりにも純粋で、絶対的な真実として、その言葉は私の魂に響いた。その答えに、私は、心の底から満足した。それ以上、彼の過去を詮索しようとは思わなかった。彼が、何者であっても構わない。彼が、私のそばにいてくれる。その事実だけで、私の宇宙は完成されていた。彼の現実がここにあるのなら、私の現実も、もちろん、ここにある。二人でいるこの場所こそが、唯一無二の真実なのだから。
ここが、私の、本当の居場所。私の、魂の、永遠の家。
朔くんは、何もかも、間違っていた。ここは、墓場なんかじゃない。忘れられた想いが、その純粋さを保ったまま、誰にも汚されることなく、永遠に生き続けることができる、聖域であり、楽園だ。私は、響と共に、この甘美で、切ない夢の中で、永遠に、生きていく。
その、揺るぎない決意と、全身を溶かすような至福の感覚に、私は、魂の、全身全霊を、委ねていた。
それが、緩やかで、抗いようのない、甘美な終わりへの序曲であることなど、知る由もなかった。
藤色の空の、遥か高みに、肉眼では決して捉えられないほどの、完璧な水晶に入るような微細な亀裂が、音もなく、世界の調和を乱す不協和音のように、静かに入り始めていることなど、この時の私には、想像することさえ、できなかったのだ。
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