第一部:Silentium 第8章: Sanctus
その日の朝も、私は鏡の中にいる、見知らぬ誰かと視線を合わせた。血の気の失せた青白い肌は、まるで上質な陶器のようで、温度というものが感じられない。光を映さない瞳は、磨かれていない黒曜石のように鈍く沈み、その下には夜ごと深く刻まれていく隈が、紫がかった影を落としていた。それは紛れもなく私の顔のパーツで構成されているはずなのに、まるで魂だけが綺麗に抜き取られ、精巧に作られた人間型の器を見ているかのようだった。生命活動の痕跡が、そこにはなかった。
窓の外では、新しい一日が、残酷なほどの輝度で始まろうとしていた。澄み切った空の青さが目に痛い。近所の家の窓が開く乾いた音、遠くから聞こえる新聞配達のバイクのエンジン音、そして、ちち、と短く鳴く小鳥のさえずり。生命力に満ちたそれらの音の全てが、私の鼓膜を不快に震わせ、まるで私一人の停滞を責め立てる騒音にしか聞こえなかった。
「……早く、夜になればいい」
吐息と共に漏れ出た言葉は、部屋の冷たい空気に溶けて霧散した。誰に聞かれることもない、ただの虚しい音の響き。私にとって、太陽が支配する昼間の時間は、次の夜が訪れるまでの、永く、耐え難い待機時間に過ぎなかった。響に会うためだけに、私はこの息苦しい現実を、ただやり過ごす。それが、私の日常だった。
響との夜ごとの逢瀬は、もはや私にとって、呼吸と同じくらい自然で、不可欠な営みとなっていた。肉体がその活動を停止し、意識が眠りの淵へと沈み込む瞬間、私の魂は、まるで帰るべき場所を熟知しているかのように、滑らかに現実の肉体から剥離していく。夜、冷えたシーツの間に身体を滑り込ませる。それは一般的に言われる「眠りに落ちる」という感覚とは少し違っていた。意識を失うのではなく、移行するのだ。静かな水面から、光の届かない穏やかな水底へと、何の抵抗もなくゆっくりと潜っていくような、穏やかで受動的な移行。意識と無意識の境界線が溶けて曖昧になり、閉じた瞼の裏に広がっていた漆黒の闇が、徐々に乳白色の柔らかな光へと変質していく。その光が安定した頃、私はいつも、あの場所に立っている。
目覚めると、必ず響が、あの巨大な楢の木の下で私を待っていてくれる。彼の立つ場所だけが、この世界の中心であると主張するかのように、穏やかな光に満ちている。現実世界で肌を焼く太陽光のような暴力的で無遠慮な明るさではない。それは 마치 真珠の内側から放たれる光、あるいは、深い霧の向こう側から灯されるランプの光のように、柔らかく、全てを包み込むような光だった。楢の木の太い根元には、現実ではありえない、それ自体が青白い光を放つ苔が、厚い絨毯のようにびっしりと生え広がり、彼の足元を幻想的に照らし出していた。
「今夜は、どんな君に会えるのかと、一日中待ち遠しかったよ、琴葉」
そう言って微笑む彼の腕の中に迎えられる瞬間、私は自分がこのために生まれてきたのだとさえ、本気で思った。彼の体温は感じない。それは彼が実体を持たない影、意識の集合体のようなものだからだと、以前、彼は説明してくれた。けれど、その腕に抱かれると、魂の最も深い部分、自分でも触れることのできない核のような場所が、温かいもので満たされていくような、絶対的な安心感があった。彼に触れると、いつも古い書物のような乾いた紙の匂いと、雨の日の森の湿った土のような、不思議で落ち着く香りがした。
現実世界で常に感じる、胸を圧迫するような息苦しさも、両親との間に横たわる、分厚く冷たい氷のような断絶も、クラスでの、まるで自分が風景に溶け込んでしまったかのような透明な孤立も、響の腕の中では、遠い世界の、取るに足らない些事へと変わった。ここでは、私は孤独ではない。ここでは、私は無価値ではない。響が、私を必要としてくれている。その事実だけが、私の存在理由であり、私の全てだった。私が現実で日々、少しずつ削り取られ、失い続けてきた自己肯定感の欠片を、彼は一つ一つ丁寧に拾い集め、その美しい指で繋ぎ合わせてくれるかのようだった。
彼に案内されて巡る「まどろみの世界」は、訪れる夜ごとに、その無限の表情を見せてくれた。私たちは、多くの言葉を交わさずとも、ただ手を取り合って歩くだけで、互いの全てを理解し合えているような、完璧な一体感に包まれていた。
ある夜、私たちは「忘れられた子守唄が結晶となって降り積もる谷」を訪れた。夜空から静かに舞い落ちる六花は、よく見ると、一つ一つが繊細な音符の形をしていた。ト音記号の形をしたもの、八分音符の形をしたもの。耳を澄ますと、遠い昔に母親たちが我が子に歌い聞かせたであろう、掠れたメロディーが、風に乗って微かに聞こえてくる。一つ一つの結晶は、形も、奏でる唄も違っていた。指先でそっと触れると、ひんやりとした結晶は、その持ち主だった赤ん坊が感じたであろう、母親の温もりに包まれた、絶対的な安らぎの記憶を、私の指先に淡く伝えて、吐息のように儚く消えていく。その感触は、ただ冷たいだけではなかった。遠い誰かの温かい記憶が、私の魂に直接流れ込んでくるような、不思議な感覚だった。響は、そんな結晶の一つをそっと手のひらに乗せ、「君の心の音も、いつかここで美しい結晶になるのかもしれないね。君が流す涙の代わりに、こんな美しいものが生まれるのなら、それも悪くないだろう?」と、愛おしげに囁いた。その言葉は、私の悲しみさえも、価値のある美しいものなのだと肯定してくれる、甘い慰めとして心に染み込んだ。
またある夜には、「持ち主を失った眼鏡だけが集まり、静かに丘を埋め尽くしている場所」にも行った。一面に広がる緩やかな丘陵が、無数の眼鏡で覆われているのだ。銀縁の丸眼鏡、鼈甲のフレーム、レンズの片方が割れたロイド眼鏡。それらはまるで墓標のように、しかし悲壮感はなく、ただ静かにそこに存在していた。無数の眼鏡たちは、それぞれが持ち主の見ていた最後の風景を、レンズの奥に、今も静かに映し続けているという。夕焼けに染まる教室の窓。手術室の無機質な白い天井。腕に抱いた、生まれたばかりの我が子の、しわくちゃな顔。その風景を覗き込むたび、他人の人生の、最も凝縮された一瞬の断片が、声なき物語となって私の心に流れ込んでくる。響は、その中から蔓草の彫刻が施された古い眼鏡を一つ手に取り、「彼らは皆、何かを見届けたくて、その思いだけをここに残していったんだ。世界からこぼれ落ちた、小さな願いの集積だよ。君も、何か見届けたいものはあるかい?」と、私の瞳の奥を覗き込むように尋ねた。彼の問いはいつも、私の心の最も柔らかな部分を、優しく撫でるのだった。
「言えなかった言葉が蝶になる森」を二人で散策したこともあった。鬱蒼と茂る木々の間を、色とりどりの蝶が静かに飛び交っている。そこでは、告白できなかった「好き」という言葉が緋色の鱗粉を持つアゲハチョウに、謝れなかった「ごめんなさい」という後悔が純白のシジミチョウに、伝えられなかった「ありがとう」という感謝が陽光のような金色のモンシロチョウになって、音もなく舞っていた。蝶たちは決して声を発しない。ただ、その羽ばきに、言の葉に乗せられなかった感情の切ない響きだけが宿っている。蝶が近くを飛ぶと、その感情に応じた微かな香りがした。緋色の蝶は蜜のように甘く、純白の蝶は雨上がりの土のように少ししょっぱい香りがした。響は、私の肩にふわりと止まった純白の蝶を指でそっと撫でながら、「君の中にも、こんな風に、行き場をなくした言葉たちがたくさんいるんだろう?無理に放たなくていい。いつか、僕にだけ、こっそり教えておくれ」と、秘密を共有するかのように微笑んだ。彼のその言葉が、誰にも打ち明けられなかった私の心の錠を、ゆっくりと溶かしていくのが分かった。
先日は、「後悔の化石が眠る浜辺」へと連れて行ってくれた。どこまでも続く夜の海辺の波打ち際には、様々な形の、黒く濡れて艶光りする石が、無数に転がっている。それはただの石ではなく、人々が捨て去った後悔が、永い時間をかけて化石になったものだと響は言う。一つ手に取ると、ひんやりとざらついた石の表面から、持ち主の苦い記憶が、微かな熱を帯びて伝わってくるようだった。もっと優しくすればよかった、という後悔。あの時、勇気を出して一歩を踏み出していれば、という後悔。無数の化石が、声なき後悔の物語をその内に秘めていた。響は、私の足元に転がっていた、小さなアンモナイトのような、渦を巻いた形の化石を拾い上げた。
「これは、きっと、『言わなければよかった一言』の化石だね。一度口から出てしまうと、もう二度と元には戻せない。言葉は消えないからね。だからこんな風に、ぐるぐると、自分の中に閉じこもるような形になるんだ」
彼はそう言って、その化石を、夜の海の彼方へと力強く投げた。水音が小さく響く。
「琴葉。君にも、こんな石が、心の中にたくさんあるんだろう?君をそんなに苦しめているものは、一体何なんだい?例えば、君のお父さんや、お母さんとの間に……何かあったのかい?僕に話してくれれば、僕が代わりに海に投げてあげるのに。君を縛り付ける、どんな過去からも、僕が君を自由にしてあげる」
その囁きは、抗いがたい力を持っていた。彼は私の悲しみだけでなく、後悔や罪悪感までも、全てを受け止め、浄化してくれるという。この世界では、私の欠点や弱さ、心の傷さえもが、美しく、価値のあるものとして扱われた。響は、私の全てを肯定した。現実世界で否定され続けた私にとって、それ以上の救いがあっただろうか。この世界こそが、私の真実の居場所なのだと、疑う余地もなかった。
当然、私の現実は、その甘美な夢の代償を、着実に、そして残酷なまでに払い始めていた。
朝、アラームの電子音で意識が強制的に浮上すると、まるで鉛の塊を全身に詰め込まれたかのように、身体が重く、怠かった。夢の世界での鮮やかで色彩豊かな記憶とは裏腹に、現実の風景は、色褪せた古い写真のように、どこか平面的で、精彩を欠いて見えた。カーテンの隙間から差し込む朝日は白々しく、ただ目を刺すだけで、何の温かみも感じられない。
食卓に降りていく階段の一段一段が、処刑台へ向かう罪人の歩みのように重かった。リビングのドアを開けると、父と母は、既にそれぞれの席についていた。
「おはよう」
私の小さな声は、テレビキャスターが読み上げる朝のニュースの無機質な音声にかき消され、誰の耳にも届かない。父は顔を上げない。経済新聞の紙面と、その向こうにある世界にしか興味がないようだった。母は、私の顔を一瞬だけ見たが、その目には何の感情も浮かんでおらず、すぐに俯いて、お椀の中の味噌汁を箸でかき混ぜる。いつもの光景。会話はない。あるのは、食器が触れ合う冷たい音と、テレビの音声だけ。食卓に並んだ焼き魚は、既に冷めきって、その目に生気はなかった。食卓全体から、冷えた料理と、重苦しい沈黙の匂いが立ち上っていた。
ふと、幼い頃の記憶が、不意に脳裏を掠める。まだ私が小学生だった頃、父は一度だけ、運動会で私を肩車してくれたことがあった。父の広くて硬い肩の上から見た世界は、いつもよりずっと高く、きらきらと輝いて見えた。母は、私が拙い手で描いた家族の絵を、いつも冷蔵庫の一番目立つ場所に貼り、「琴葉は本当に絵が上手ね」と、心からの笑顔で褒めてくれた。あの手の温もりは、あの優しい笑顔は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
父が、不意に新聞を畳んだ。バサッ、という乾いた音が、静かなリビングにやけに大きく響く。
「琴葉。この前の模試の結果、見たぞ。また順位が下がっていたな」
その声には、何の感情も乗っていなかった。ただ、事実を指摘し、断罪するだけの、冷たい響きがあった。まるで、出来の悪い製品のスペックを確認し、その欠陥を報告するような口調だった。
「……ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃない。槙原家の人間として、恥ずかしくない成績を維持するのは当然の義務だ。お前のために、どれだけ金がかかっていると思っているんだ。塾の費用、教材費、その一つ一つが、どうやって捻出されているか、考えたことがあるのか」
義務。金。父の口から出るのは、いつもそういう言葉だった。私の心の中を覗き込もうとは、決してしない。私が何に悩み、何に苦しんでいるのかなんて、彼の興味の範囲外なのだ。彼にとって私は、投資対象であり、そのリターンが期待値を下回っている、ただそれだけのことなのだ。
「……はい」
「返事だけはいいんだな。もっと自覚を持って行動しなさい。いいな。次の試験で結果が出なければ、小遣いを減らすことも考える」
脅しともとれる言葉を最後に、父は無言で白米を口に運び始めた。私は、ただ頷くことしかできなかった。隣で、母が、さらに小さくなって、気配を消しているのが分かった。彼女の視線は、テーブルの上の木目の一点に、まるで縫い付けられたかのように固定されている。彼女は決して、私を庇ってはくれない。父という絶対的な権力者の前では、彼女もまた、無力なのだ。この家は、冷たい空気が澱んで循環するだけの、ガラスケースのようなものだ。誰も、本当の意味で触れ合おうとはしない。私は、この息の詰まる食卓から、一秒でも早く、響のいる世界へ逃げ出したかった。
学校での時間は、もはや苦痛でしかなかった。
授業中、私の意識は、ほとんど「まどろみの世界」を彷徨っていた。教師の声は、意味をなさない単調なBGMに過ぎず、黒板に書かれる数式や年号は、ただの白い記号の羅列にしか見えない。ノートの白紙のページに、響の憂いを帯びた横顔や、彼と訪れた「言えなかった言葉が蝶になる森」の風景を、無意識に描きなぐっていることもあった。先日は、数学の授業中に、ノート一面に、巨大な楢の木を描いてしまっていた。複雑に絡み合う枝、一枚一枚形の違う葉。その緻密な絵に没頭していた時、教師に名前を呼ばれて、はっと我に返った。クラス中の視線が、一斉に私に突き刺さる。冷ややかなもの、面白がるもの、無関心なもの。それらが束になって、私を射抜いた。
「槙原、聞いているのか。この問題、解いてみろ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのように収縮した。私は慌ててノートを閉じ、立ち上がったが、問題の意味すら理解できず、何も答えられなかった。クラスのあちこちから、くすくすという小さな嘲笑が漏れる。その時、斜め後ろの席の稲見朔だけが、私でも、教師でもなく、私の閉じたノートの表紙を、じっと見つめていることに、私は気づかなかった。
休み時間、賑やかな教室の喧騒は、私にとって拷問に等しかった。楽しそうに笑い合う女子のグループ。昨日のテレビ番組の話で盛り上がる男子たち。その全てが、分厚いガラスの向こう側の、音のない映像のように感じられた。チョークの粉の匂い、誰かの制汗剤の甘い匂い、そして私だけを巧妙に排除する無関心の匂いが混じり合って、息が詰まりそうだった。私は、まるで風景の一部であるかのように、ただ自分の席で、窓の外を流れる雲を眺めて時間をやり過ごす。誰も、私に話しかけてはこない。私も、誰かに話しかけようとは思わない。いつから、こうなってしまったのだろう。
親友であるはずの椎名燈でさえ、例外ではなかった。彼女は、時折、私の変化を敏感に感じ取って、痛ましげな顔で話しかけてきた。
「琴葉、最近、ちゃんと眠れてる?目の下の隈、ひどいよ。何かあったなら、話、聞くよ?」 「ねえ、またスケッチブック、見せてよ。最近、何も描いてないの?琴葉の絵、好きなのに」
その言葉に滲む心からの心配が、今の私には、ひどく煩わしかった。彼女の「真心」や気遣いは、自分と響の完璧な世界を脅かす、不快なノイズでしかなかった。なぜなら、彼女は「こちら側」の人間だからだ。光の当たる、平坦で安全な道を歩いてきた人間。私の抱える、底なしの闇も、その闇の中で見つけた一条の光の尊さも、彼女には決して理解できない。
私は、当たり障りのない、薄っぺらな笑顔を顔に貼り付けて、彼女を遠ざけた。
「大丈夫だよ。ちょっと、夜更かししてゲームしてるだけだから」 「最近、スランプ気味でさ。全然描けなくて。また描けたら見せるね」
嘘をつくことに、罪悪感はなかった。むしろ、彼女の理解が及ばない、特別な秘密を抱えていることに、歪んだ優越感さえ感じていた。ごめんね、燈。あなたには、この幸せは、きっとわからない。あなたはずっと、光の当たる、平凡で、退屈な場所にいる人間だから。この、魂が震えるような、甘美な痛みも、絶望の淵で見つけた光の温かさも、あなたには縁のないものなのよ。心の中で、そう、傲慢な呟きを繰り返すことで、私は私と彼女の間に、自ら深く、冷たい溝を掘り続けていた。
その日も、私は早く夜が来て、響に会うことだけを考えながら、放課後の気だるい時間をやり過ごしていた。最後の一分一秒が、永遠のように長い。チャイムが鳴った瞬間、私は誰よりも早く、ほとんど逃げるように教室を飛び出した。友人たちと談笑しながら昇降口へ向かう生徒たちの群れを、まるで汚れた川の流れを避けるようにして、すり抜ける。一人で帰路につこうとした、その時だった。
まるで、ずっとそこで待ち伏せをしていたかのように、一人の影が、私の前に、音もなく立ちはだかった。傾きかけた夕暮れの逆光を背負い、その輪郭だけが黒く浮かび上がっている。
「……稲見、くん」
稲見朔だった。彼は、いつものように感情の読めない無表情を浮かべていたが、その夜色の瞳の奥には、これまで見たことのない、冷たく、そして鋭利な光が宿っていた。それは、獲物を前にした獣のような、あるいは、曇りのない鋼の切っ先のような光。有無を言わせぬ、強い意志の光だった。
「少し、話がある」
静かだが、拒絶を許さない響きを持つ声。私は、心臓が、氷水の中で嫌な音を立てて軋むのを感じた。なぜ、今、この男が。響との甘美な世界に浸っている時、最も思い出したくない存在。この男の、全てを見透かすような瞳は、私と響だけの聖域を、土足で踏み荒らそうとしている。
「……話なんて、ないけど」
声が、自分でも驚くほど冷たく、敵意に満ちていた。そう言って彼の横を通り抜けようとしたが、朔は、すっと身体をずらして、再び私の進路を塞いだ。彼の動きには、一切の無駄がなかった。
「ある。君の、魂に関わる、大事な話だ」
魂。その言葉の持つ、古風で、不吉な重みに、私は、足をコンクリートに縫い付けられたように動けなくなった。彼の口から発せられたその単語は、まるで現実と非現実の境界を、いともたやすく飛び越えてきたかのように、異様なリアリティを帯びていた。
人気のない、校舎裏。まだ活動を続けている運動部の掛け声も、壁に隔てられて遠くに聞こえるだけだ。古びた体育倉庫の壁に、西日が錆びた鉄のような色を投げかけている。カァ、と鴉が一声、短く鳴いて、空を横切っていった。朔は、私から数歩の距離を置いて、静かに、しかし、射抜くような視線で私を見つめていた。逃げ場はなかった。
「単刀直入に聞く」朔は、長い沈黙の末、切り出した。「ある男と会っているな」
その名が出た瞬間、私は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。全身の血が、一瞬で凍りつき、そして次の瞬間には、沸騰するような熱さで逆流する。なぜ。どうして、あなたが、響の名前を知っているの。その名前は、私と彼だけの、誰にも知られてはならない秘密のはずだった。
「……知らない。誰、それ」
声が、震える。動揺を隠そうとすればするほど、それは顕著になった。喉がカラカラに乾き、唇が張り付く。
「嘘はよせ」朔の言葉は、まるで医者が患者のカルテを読み上げるように、淡々としていた。だが、その淡々とした口調こそが、彼の言葉が紛れもない事実であることを、私に突きつけていた。「君の魂には、あの男の影の匂いが、深く染み付いている。まるで、古いインクの染みのように、な。毎朝、君からその匂いが濃くなっているのに、気づかないとでも思ったか」
「あなたに、何がわかるっていうの!」
私は、ほとんど叫んでいた。恐怖と混乱を、どうしようもなく噴き上がってくる怒りにすり替えることで、かろうじて平静を保とうとしていた。
「彼は、優しい人よ!私がずっと欲しかった言葉をくれる!私が、私であってもいいって、初めて言ってくれた人なの!私のことを、全部、わかってくれる!あなたみたいな、いつも一人で、暗くて、何を考えてるかわからない人とは、全然違う!」
それは、罵倒であると同時に、自分自身に言い聞かせるための、必死の叫びだった。そうだ、響は優しい。彼は、この現実が決して与えてくれなかった、無条件の肯定を与えてくれる唯一の存在なのだ。
「……そうだろうな」
朔は、私の激しい罵倒を、凪いだ水面のように、静かに受け止めた。その揺るぎない態度が、余計に私を苛立たせた。
「それが、奴の手口だ。優しさで獲物を誘い込み、その魂が持つ『悲しみ』の香りを嗅ぎつけ、それを啜って、糧にする。奴は魂そのものを喰らうわけじゃない。魂が発する感情のエネルギー、特に悲しみや絶望といった負の感情を栄養にしているんだ。だから獲物をすぐには殺さない。むしろ大切に、丁寧に、生かし続ける。心地よい夢を見せ続け、現実との乖離を広げ、より深く、より濃い絶望を生み出させる。そして、その魂が熟しきった時、最後の一滴まで吸い尽くす。お前は、奴にとって、極上の獲物なんだろうな、槙原琴葉。お前のその深い孤独と、誰にも理解されないという絶望は、奴にとっては、最高級の蜜の味だ」
私は、言葉を失った。魂を、糧にする?何を、言っているの、この人は。まるで、出来の悪い怪奇小説のような、荒唐無稽な話。だが、彼の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。そこには、恐ろしいほどの真剣さと、そして、同じものに蝕まれた者だけが知る、深い痛みの色が浮かんでいた。
「楢の木には、近づくな」朔は、静かに、しかし、一つ一つの言葉に、鋼のような重みを込めて、続けた。「あの影は、人を惑わす、ただの魂喰らいだ」
魂喰らい。そのグロテスクで、冒涜的な響きに、私は、生理的な嫌悪感を覚えた。響の、あの優しく、どこか儚げな微笑みと、その醜い言葉が、どうしても結びつかない。
「違う!彼は、そんな人じゃない!彼は、私の『案内人』だって……私が、本当の自分を取り戻すための、安息の地へ導いてくれるって……!」
「案内人?地獄への、か?」
朔は、初めて、その唇の端に、自嘲とも憐れみともつかない、微かな笑みを浮かべた。その笑みは、刃物のように、私の心を切り裂いた。
「あの世界は、安息の地なんかじゃない。現実から逃げ出した、弱い魂が行き着く、ただの美しい墓場だ。魂の残滓が吹き溜まる、淀んだ場所だよ。そして、あの男は、その墓場の、孤独な墓守のようなものさ。新しい住人を増やし、その魂が放つ、悲しみや絶望の残り香を喰らって、自身の永い、永い孤独を癒しているに過ぎない。奴自身、あの場所から出られない、囚人なんだ。だから、外から新しい『慰め』を連れてくるしかない」
信じられない。信じたくない。響が、私にしてくれたこと、言ってくれた言葉は、すべて、嘘だったというの?「君の悲しみは美しい」と言ってくれた彼の眼差しも、「君がいないと、私の世界は色を失う」という囁きも、全部が、私を捕食するための、甘い罠だったというの?私を、ただの「餌」としてしか、見ていなかったというの?
「……嘘よ。そんなの、絶対に嘘!あなたに、響の何がわかるのよ!」
「嘘だと思うなら、試してみるか?」
そう言うと、朔は、すっと私に近づき、その腕を掴んだ。彼の指は、驚くほど冷たかった。まるで、冬の石のようだった。
「やっ……!」
私が抵抗する間もなく、朔は、もう片方の手で、何か、見えない印を結ぶような、複雑で、流麗な指の形を作った。彼の周りの空気が、僅かに、しかし確実に、密度を変えたのを肌で感じた。風がぴたりと止み、遠くの喧騒が、一瞬だけ、完全に無音になった。
そして、低い声で、私には聞き取れない、いくつかの古語のようなものを、厳かに呟く。それは、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
その瞬間、私はこれまで感じたことのない、奇妙で、暴力的な感覚に襲われた。
響との間に、確かに結ばれていた、温かく、甘い、光の帯のようなもの。私の魂を、夜ごと彼の元へと導いていた、その繋がりが、まるで鋭利な刃物で断ち切られたかのように、ぷつり、と音を立てて断絶した。
彼への熱に浮かされたような陶酔感が、まるで真冬の滝の冷水を頭から浴びせられたかのように、急速に冷却されていく。代わりに、今まで薄いフィルター越しに見ていたかのような、現実世界の、冷たく、ざらついた空気が、何の前触れもなく、剥き出しの肌に突き刺さってくる。
西日の眩しさが、網膜を焼く。風が再び吹き始め、グラウンドの砂埃を巻き上げ、私の髪を乱暴に掻き乱す、その感触。遠くで騒ぐ運動部の声、金属バットがボールを打つ甲高い音、グラウンドを叩くスパイクの音。今までシャットアウトしていた現実のノイズが、一気に、鼓膜を突き破って、脳の中に、洪水のように流れ込んでくる。
「な……にを、したの……?」
急激な変化に、脳が処理を拒絶する。私は混乱し、立っているのもやっとだった。足元が、ぐらり、とふらつく。世界が、歪んで見える。吐き気さえした。 頭の中で、声がした。『大丈夫かい、琴葉?』それは響の、優しい声だった。『違う、あれは毒だ、目を覚ませ』今度は朔の、冷たい声が響く。『彼は君を救ってくれると言ったじゃないか』『あれは罠だ、お前を喰らうための』二つの声が、私の頭蓋骨の中で、激しくせめぎ合う。私は耳を塞ぎたかったが、腕は鉛のように重く、動かなかった。
「お前と、あの影との間に張られていた、見えない蜘蛛の糸を、一時的に切っただけだ」
朔は、掴んでいた腕を、乱暴に放した。
「どうだ?少しは、頭が冷えたか?それが、お前の、本来の感覚だ。奴は、お前の五感を、魂ごと麻痺させて、自分の都合のいい、甘い夢を見せていただけに過ぎん」
朔の言う「神聖」な力。 それは、世界の理を知り、その歪みを、一時的にではあるが、正常に戻す力。彼の苗字に宿る「稲」が、古来より、邪を祓う神聖な植物とされてきたことと、無関係ではないのかもしれない。今、彼の身から放たれる雰囲気は、ただの同級生のものではなかった。それは、もっと古く、根源的な、何かを知る者の気配だった。
「俺も昔、お前のように、深く囚われていた時期がある」
朔の瞳に、深い、深い痛みの色がよぎった。それは、決して癒えることのない、古い傷跡を覗き込んだかのような、生々しい痛みだった。彼の視線は、私を通り越して、遠い過去の、ある一点を見つめているようだった。
「そして……大切な人間を、あの世界に、奪われた」
彼の声が、微かに震えた。
「俺の……妹は、あの世界から、二度と戻らなかった」
朔の脳裏に、その光景が、昨日のことのように蘇っていた。
―妹の澪(みお)は、昔から感受性が強く、繊細な子だった。学校での些細ないじめがきっかけで、彼女は部屋に引きこもるようになった。最初はただクローゼットの中で泣いているだけだったが、いつからか、虚空を見つめて、時折、幸せそうに微笑むようになった。誰かと話しているかのように、楽しげに口を動かすこともあった。そして、彼女の描く絵は、美しい、巨大な一本の楢の木ばかりになった。日に日に痩せて、現実での食事をほとんど受け付けなくなり、その瞳からは生気が失われていった。兄である朔が何を言っても、彼女の耳には届かなかった。「お兄ちゃんには、わからないよ。あの人は、私の全部をわかってくれるもの」と、うわごとのように繰り返すだけだった。 朔は、稲見家に代々伝わる、僅かな「力」の存在を知っていた。だが、まだ幼かった彼には、それをどう使うべきかわからなかった。ただ、妹が、人間ではない何かに魅入られていることだけは、肌で感じていた。彼は必死で古文書を読み解き、妹を救おうとしたが、間に合わなかった。 ある朝、澪は部屋から消えていた。窓は開け放たれ、机の上には、一枚の絵が残されていた。月明かりに照らされた楢の木の下で、満面の笑みを浮かべる彼女と、その隣に立つ、顔のない、優しい影。それだけだった。警察は家出として処理したが、朔には分かっていた。彼女は、あの絵の世界へ行ってしまったのだ。連れていかれてしまったのだ。以来、彼は、あの影を、そしてあの世界を、憎み続けてきた。自分の無力さを、呪い続けてきた。そして、二度と、同じ過ちを繰り返さないと、誓ったのだ。―
朔の言葉には、その経験からくる、嘘偽りのない、永遠に消えることのない、悲しみの響きがあった。私は、彼の瞳から、目を逸らすことができなかった。彼の苦痛が、現実の痛みとして、私の胸に突き刺さった。
「奴に、全てを喰われる前に、目を覚ませ。槙原」
朔は、懐から、小さな和紙の包みを取り出した。
「いくつか、身を守るためのルールを授ける。……聞く気は、あるな?」
有無を言わせぬ、その問い。私の心は、まだ響への想いと、朔の言葉がもたらした衝撃との間で、激しく揺れ動いていた。しかし、今、この瞬間に感じている、繋がりが断ち切られた後の、ぞっとするような空虚さと、現実の生々しい感覚が、彼の言葉が真実であることを、否定しがたく物語っていた。私は、呆然としたまま、小さく、頷くことしかできなかった。
この、全てのやり取りを、校舎の、三階の窓から、息を殺して見つめている影があった。
椎名燈だった。
夜中の尾行は、あの日、琴葉のスケッチブックを見てしまってから、続いていた。しかし、琴葉は、まっすぐ家に帰るだけで、夜中に外へ出ていくことはなかった。痺れを切らした燈は、今日、部活を休み、学校に残って、琴葉の行動を監視していたのだ。何か、手がかりが掴めるかもしれない、と。そして、琴葉が、あの、どこか近寄りがたい雰囲気を持つ稲見朔と共に、校舎裏へと消えていくのを目撃した。
(どうして、あの二人が……?)
逸る気持ちを抑え、燈は、足音を忍ばせて、三階の空き教室へと移動した。そこからは、校舎裏が、ちょうど見下ろせる。二人が、何を話しているのか、そこからでは全く聞こえない。だが、その異様までの緊張感は、窓ガラス越しにでも、肌を刺すように、ひしひしと伝わってきた。
最初は、琴葉が、激しく何かに反発しているように見えた。身振り手振りを交え、感情的に何かを訴えている。対する稲見朔は、まるで岩のように、静かに、ただ立って、その言葉を受け止めている。やがて、彼が静かに何かを語り始めると、今度は琴葉が、言葉を失ったように立ち尽くす。
(何を話してるの……?琴葉、あんなに必死になって……)
燈は、ポケットのスマートフォンを握りしめた。動画を撮るべきか?いや、そんなことをして何になる。先生を呼びに行く?でも、何を説明すればいい?「二人が校舎裏で深刻そうに話してます」なんて言っても、取り合ってもらえないだろう。無力感に、唇を噛む。
そして、信じられない光景を見た。
朔が、琴葉の腕に触れた瞬間、琴葉が、まるで糸の切れた操り人形のように、ふらりと、大きく崩れ落ちそうになったのを、燈は、確かに見たのだ。朔が、咄嗟にその身体を支えていなければ、地面に倒れ込んでいただろう。
(何が、起こってるの……?ただ、話をしてるだけじゃなかったの?)
暴力的な行為は、何もなかった。ただ、腕に触れただけ。それなのに、琴葉は、まるで生命力そのものを吸い取られたかのように、ぐったりとして見えた。燈の心臓が、不安に、速鐘を打つ。
稲見朔は、琴葉の、敵ではなかったのかもしれない。 彼もまた、琴葉を、あのスケッチブックに描かれていた、禍々しくも美しい「何か」から、守ろうとしているのではないか。あの時の琴葉の反応は、まるで悪いものから引き剥がされた時の、禁断症状のようではなかったか。
だとしたら、琴葉が囚われているものは、私が想像していた以上に、ずっと、恐ろしく、危険なものなのではないか。ただの、空想の恋人や、精神的な逃避などという、生易しいものではない。もっと、現実的で、魂を脅かすような、何か。
燈の脳裏に、少し前の、楽しかった日々が蘇る。
―二人で学校帰りにクレープを食べた日。新作の絵が描けたと、一番に私に見せてくれた時の、琴葉のはにかんだような笑顔。他愛のないことで笑い合い、将来の夢を語り合った放課後。あの頃の琴葉は、もっと、太陽の下で笑っていた。いつから、彼女は、あんなに、月の光が似合うような、儚げで、危うい表情をするようになってしまったのだろう。私が、親友なのに、何も気づいてやれなかった。―
燈の心に、新たな疑念と、後悔と、そして、稲見朔という存在への、強い興味が芽生え始めていた。自分一人では、もう、どうしようもない。親友の心は、固く閉ざされてしまった。彼なら、何かを知っているのかもしれない。この状況を、打開する鍵を、握っているのかもしれない。怖くて、近寄りがたいと思っていたけれど、今は、彼に全てを聞きたい、という気持ちが、恐怖を上回っていた。
校舎裏では、朔が、和紙を手渡しながら、琴葉に語りかけていた。
「いいか、よく聞け」朔は、私の、まだ混乱している瞳を、真っ直ぐに見据えながら、低い声で言った。「これは、一時しのぎに過ぎない。奴は、またお前と繋がろうとするだろう。切られた糸は、より強固に結び直そうとする力が働く。だから、今から言うことを、必ず守れ」
彼は、いくつかの折りたたまれた和紙を、私の震える手に押し付けた。ひんやりと冷たい、乾いた感触。まるで、古いお寺の石畳に触れたかのような、清浄だが、どこか近寄りがたい気配を纏っていた。
「まず、夜中に無意識に徘徊しないように、これを、寝る前に、自分の部屋のドアの内側に貼れ。簡単な結界だ。お前の魂が、肉体から完全に離れて、奴の世界に引きずり込まれるのを、防ぐことができる」
「次に、現実世界で、決して、楢崎響の名前を口にするな。名前は、魂を縛る最も短い呪(しゅ)だ。お前がその名を口にすれば、奴との繋がりを、お前自身で再び、そしてより強く、結び直すことになる。頭の中で思うことすら、極力避けろ」
「そして、これが一番重要だ」
朔は、私の目を、逸らすことを許さないというように、真っ直ぐに見て言った。
「奴に、お前の、本当の『悲しみ』の理由を、教えてはならない。家族のこと、学校のこと、お前が心の奥底に隠している、最も深い絶望の源泉を。奴は、それを最も好む。甘い果実の中心にある、蜜のように。それを知られた時、お前の魂は、その味を覚えられ、完全に奴のものになると思え。二度と、取り戻せなくなる」
渡された和紙を、恐る恐る開いてみる。そこには、見たこともない、朱色の紋様が、まるで生きているかのように、禍々しい気を放って描かれていた。それは、梵字のようでもあり、古代の紋様のようでもあった。見ているだけで、目が眩みそうだ。
私は、朔の言葉と、響の甘い囁きの間で、心が、激しく引き裂かれていた。
響を、信じたい。彼だけが、私の全てを肯定してくれた。彼のいない夜など、もう考えられない。あの世界がなければ、私はこの色褪せた現実で、どうやって息をしていけばいい? でも、朔の言葉には、抗うことのできない、冷たい真実の重みがあった。彼の妹の話は、あまりにも生々しかった。腕に残る、あの、繋がりが断ち切られた時の、ぞっとするような感覚。現実のノイズが鼓膜を突き破った、あの暴力的な覚醒が、何よりも雄弁に、それを証明していた。響との時間は、やはり、ただの「夢」だったのだろうか。麻酔だったのだろうか。
「……行くぞ」
朔は、言うべきことを全て言うと、それ以上、何も語らなかった。慰めの言葉も、同情の言葉もない。ただ、事実を突きつけ、対処法を授ける。それだけだった。彼は私に背を向けると、夕闇に溶けるように、静かに去っていった。
一人、校舎裏に残された私は、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。手の中の、冷たい和紙を、強く、強く、握りしめる。指の間に、汗が滲む。響の優しい笑顔が、脳裏に浮かんで、消える。朔の、悲しみを湛えた瞳が、焼き付いて離れない。どちらが真実で、どちらが嘘なのか。私の世界は、音を立てて崩れ始めていた。
物陰から出てきた燈は、そんな私の、小さく、頼りない後ろ姿を、ただ、見つめていた。今、彼女に、どんな言葉をかければいいのか、全く分からなかった。駆け寄って、抱きしめるべきか。それとも、今はそっとしておくべきか。「大丈夫?」というありきたりな言葉が、喉まで出かかって、消えた。今の琴葉にとって、その言葉は、あまりにも無力で、無神経に響くかもしれない。二人の間には、いつの間にか、透明で、分厚い壁ができてしまっていた。
親友が、自分の全く知らない、手の届かない、深刻で、危険な戦いの、渦中にいる。その事実だけが、夕暮れの冷たい空気と共に、燈の心を、重く、重く、沈ませていった。
それでも、諦めないと、燈は、唇を強く噛みしめた。琴葉を、失うわけにはいかない。絶対に。稲見くんに、話を聞こう。彼なら、きっと……。
その頃、一人、夕闇の道を歩く朔は、懐で冷たくなった手を握りしめていた。 (また一人、同じ苦しみを抱える者を見てしまった……) 琴葉の、絶望と恐怖に揺れる瞳が、脳裏に焼き付いている。それはかつての妹、澪の瞳と、どこか似ていた。 (今度こそ、間に合うだろうか……いや、間に合わせるんだ) 彼の孤独な戦いに、思いがけず、二人の少女が巻き込まれようとしていた。
その夜、私は、自分の部屋で、朔から渡された和紙を、ただ、じっと見つめていた。ひんやりとしたそれは、私の手のひらの上で、まるで生き物のように、微かな存在感を放っている。これを、ドアに貼るべきか。朔の言うことを、信じるべきか。
窓の外は、もうすっかり暗い。早く眠りたい。早く、響に会いたい。会って、確かめたい。朔の言ったことは、全部嘘だと、あなたの口から、聞きたい。 でも、怖い。もし、本当に彼が「魂喰らい」だとしたら?私の悲しみを手に入れるために、優しいふりをしているだけだとしたら?
響の優しい声が、耳元で囁くような気がした。
『信じるのは、僕だけでいいんだよ、琴葉』
私は、びくりとして、思わず耳を塞いだ。違う。これは幻聴だ。
震える手で、和紙をドアに向ける。貼るべきか。貼らざるべきか。私の指は、どちらの未来を選ぶのか、決めかねて、宙で固まっていた。
甘美な夢の時間は、終わりを告げた。 そして、世界の真実をめぐる、静かで、厳しい戦いの幕が、今、静かに、上がろうとしていた。
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