第一部:Silentium 第4章:Vox
月曜日の朝は、いつもよりさらに重く、色褪せていた。世界の色彩が根こそぎ私から奪われたかのような、薄暗い始まりだった。空は、鉛色の雲に覆われ、地上の全てを鈍く押し潰している。空気は湿気を帯び、冷たい。梅雨明けを思わせる、不快な蒸し暑さが、私の部屋の隅々にまで立ち込めている。遠くの空には、わずかに稲光が走ったような、薄い光の筋が見える。
カーテンの隙間から差し込む光ですら、鈍く、部屋の隅々にまで届かない。使い古された壁紙の淡い模様も、毛羽立った絨毯のくすんだ色も、重厚な家具の木目も、全てが曖昧な陰の中に沈んでいた。目覚めと共に広がるのは、鉛色の空と、それに呼応するような、内面の倦怠感だった。部屋の中には、微かに埃っぽい匂いが漂い、それがさらに私の気分を沈ませた。
遠くで、かすかに聞こえる救急車のサイレンの音。そのけたたましい響きは、私の静かな朝の空間に、不意に切り込んでくる。普段なら気にも留めない生活音も、今の私には、ひどく耳障りに感じられた。その音は、私の心の奥底に眠る、漠然とした不安を揺り起こすようだった。サイレンの音は、ゆっくりと遠ざかり、再び静寂が部屋を支配した。
目覚まし時計の無機質な電子音は、遠くで鳴り響く工事の音と混じり合い、耳障りな不協和音となって、私の意識の淵を掻き乱した。それは、金属同士が擦れ合うような、ざらついた音。私の神経を逆撫でするように、脳の奥で響き渡る。その音の振動が、頭の奥でじんじんとした痛みを引き起こす。寝返りを打つたびに、首の筋が軋むような感覚があった。
シーツに絡まる身体は、鉛のように重く、深い眠りから覚めたばかりだというのに、既に倦怠感が全身を支配していた。手足の関節は、ぎこちなく、重い。ベッドから起き上がる動作一つにも、全身の筋肉が軋むような感覚があった。夜の間に、誰かに魂を抜き取られたかのような、ひどい脱力感だった。昨夜の悪夢の残滓が、まだ脳裏にまとわりついているかのように、頭は重く、思考は鈍い。枕に顔を埋め、もう一度眠りに落ちようとしたが、それは叶わなかった。
瞼の裏には、まだ昨夜の夢の残像が、ぼんやりと焼き付いているようだった。あの藤色の空。あの静寂。あの図書館の崩れかけた書架と、無数の崩れ落ちる本。現実の光が差し込むにつれて、その残像は、泡のようにゆっくりと消えていく。それでも、その残像の美しさは、現実の灰色の世界とは対照的に、私の心に深く刻まれていた。鮮やかな夢の色と、くすんだ現実の色とのコントラストが、私の心を締め付けた。
私は、ゆっくりと身を起こし、重い足取りで自室の机に向かった。椅子に座る動作も億劫で、背もたれに体を預けると、全身の重さが、より一層ずしりと感じられた。机の上は、乱雑に積まれた教科書やノート、使いかけの筆記用具などが散らばっていた。昨日読んだまま開かれた本のページには、無関係な授業のメモが書き込まれている。そのインクの匂いが、部屋に僅かに漂っていた。読みかけの小説が、開かれたまま置かれ、その表紙は埃をかぶっていた。
その中で、ひときわ小さなガラスの小瓶が、朝の光を浴びて、ひっそりと佇んでいた。他のあらゆる雑多なものとは一線を画すかのように、そこだけが、澄んだ空気をまとっている。小瓶の周りだけ、世界の時間が、ゆっくりと流れているような錯覚を覚えた。
私は、その小瓶をそっと手のひらに乗せた。手のひらに伝わるガラスのひんやりとした感触が、私の意識を現実へと引き戻す。それは、元々は薬が入っていたと思われる、何の変哲もない、透明な手のひらサイズの瓶だった。ガラスの表面には、細かな傷がいくつか見られる。しかし、私が週末に念入りに磨き上げたおかげで、光を反射して微かに輝いていた。瓶の底には、微かに水滴の跡が残っていた。
中には、一枚だけ、あの青い花びらが入っている。週末、私はそれを大切にティッシュに包み、埃をかぶっていた古い小瓶を念入りに磨いて、そこに移し替えたのだ。指先で丁寧に拭き清められた瓶の表面は、光を反射して微かに、しかし確かに輝いていた。瓶を透過する光が、花びらの青をさらに鮮やかに際立たせる。コルクの栓でしっかりと封をされた花びらは、その鮮烈な青を保ち続けていた。
その青は、深海の底を思わせる濃密な色合いから、夜明け前の空のような淡いグラデーションまで、一枚の花びらの中に複雑な表情を見せていた。見る角度によって、青の中に紫が混じり、あるいは緑がかった色合いを見せることもあった。それは、見る角度によって微妙にその色合いを変えるのだった。光を透かすと、花びらの微細な葉脈までが鮮明に浮かび上がり、その繊細な構造に、私は改めて目を奪われた。その青は、私の心に、静かな波紋を広げた。
私は、小瓶をそっと握りしめた。手のひらの温もりが、冷たいガラスにゆっくりと伝わっていく。その温もりは、私の心にも、微かな安堵を広げた。その安堵は、じんわりとしたものだった。
これは、ただの花びらではない。私にとって、それは現実と「まどろみの世界」を繋ぐ、唯一無二の物理的な絆だった。私が現実から持ち帰った、唯一の「証」。それは、私の心の奥底で、確かな存在感を放っていた。
私の聖遺物。その存在は、私の心の奥底に、静かな、しかし確固たる安堵をもたらしていた。どこにも属さない私の魂が、ようやく帰る場所を見つけたかのような、深い安堵。その安堵は、私の全身を優しく包み込み、心の傷を癒していくようだった。
時折、小瓶を窓から差し込む、わずかな光にかざすと、花びらが内側から淡く、脈打つように発光するような気がした。それは、神秘的な輝きを放った。その光は微かに明滅する。その光の揺らぎは、私の心の奥底に、静かな鼓動を呼び起こした。コルクの隙間から、あの世界の、古いインクのような清浄な香りが、微かに漏れ出してくるような気もした。それは、どこか懐かしいような、それでいて、この現実世界には存在しない、独特の香りだった。湿気を帯びた古紙の匂いと、微かな甘さが混じり合ったような、表現しがたい清らかさ。その香りを嗅ぐたびに、私の意識は、深く、あの世界へと沈み込んでいくのだった。
もちろん、それは幻覚だろう。私の脳が作り出す、心地よい錯覚。だが、その錯覚こそが、私の現実を保つ唯一の支えだった。現実の冷たさ、虚しさから、私の魂を守るための、最後の砦。その錯覚があるからこそ、私は現実の重みに耐えられていた。
けれど、私にとって、その幻覚は、不快な現実よりもずっと真実味を帯びていた。この花びらこそが、現実の冷たい膜を破り、あの暖かく、全てを包み込む世界へと私を誘う、確かな道標なのだと、私は確信していた。
週末、燈からメッセージが来ることは、もうなかった。土曜日のあの出来事以来、彼女は一切の連絡を絶っていた。私のスマートフォンは、静かに机の上に置かれたまま、一度も通知音を鳴らすことはなかった。画面には、ただ、現在の時刻と日付が表示されているだけ。私は、そのスマートフォンを、遠い異物であるかのように眺めていた。
金曜日の夜に一度だけ、『ケーキ、ごめんね』と短い文面が届いただけだ。絵文字一つない、素っ気ないメッセージ。それは、燈が私に対して抱いた、わずかな罪悪感の表明だったのだろうか。それとも、ただ形式的な謝罪だったのだろうか。私には、その真意を測りかねた。燈からのメッセージは、私の心に何の波紋も起こさなかった。
私は、それにどう返信することもできず、ただ画面を閉じた。スマートフォンに残る、既読のつかないメッセージの履歴が、私たち二人の間にできた深い溝を物語っているようだった。そのメッセージの行間には、言葉にならない感情の澱が沈殿しているかのようだった。しかし、私の心には、それを埋めようとする衝動は、もはや存在しなかった。むしろ、その溝の存在に、安堵すら覚えていた。
修復不可能になった関係を前にして、私が感じたのは、悲しみよりも、むしろ解放感に近い感情だった。胸の奥に澱のように溜まっていた重苦しさが、少しだけ軽くなったような気がした。何年も背負い続けてきた重い荷物を、ようやく下ろすことができたかのような、微かな安堵。背筋が、わずかに伸びるような感覚。その解放感は、私の心を、これまでにないほど軽くした。
もう、彼女の太陽のような明るさに、心を苛まれることもない。その眩しさに、自分の心の陰鬱さを暴かれることもない。私の「悲しみ」を、誰にも見せなくて済む。そう思うと、言いようのない安堵が私の心を包み込んだ。深い森の奥で、誰にも見つからずにひっそりと息を潜めるような、静かな自由だった。誰にも踏み荒らされない、私だけの聖域。その自由は、私にとって、何よりも尊いものだった。
学校へ行く支度をしながらも、私の意識は、今夜のことばかりを考えていた。ぼんやりと制服に袖を通し、アイロンのかかっていないシャツの皺を、指でなぞる。生地の冷たい感触が、指先に伝わる。シャツの襟元が、わずかに首に触れるのが、ひどく不快だった。制服の重みが、私の肩にずしりとのしかかる。
鏡に映る私の顔は、相変わらず無表情で、その瞳の奥には、現実への興味の薄さが、はっきりと見て取れた。目の下の隈が、週末の疲労と、満たされない精神を物語っているようだった。唇は血色を失い、蒼白かった。しかし、その顔色は、私にとっては、もはやどうでもいいことだった。鏡の中の私は、遠い他人であるかのように見えた。
しかし、その内側では、期待と興奮の微かな波が、静かに押し寄せていた。「まどろみの世界」。そう名付けたことで、あの世界はより一層、私にとって身近で、制御可能なものになっていた。今夜は、どこを歩こうか。あの音もなく崩れ落ちる朽ちた校舎か、それとも、まだ見ぬ、廃墟となった街のさらに奥深く、誰も足を踏み入れたことのない場所か。私の想像力は、無限に広がる。その想像は、私の心を高揚させた。
その思考は、私の心を、現実の憂鬱から守るための、唯一のシェルターだった。分厚い鋼鉄の壁で囲まれた地下壕のように、私の精神を守る。現実の喧騒から、完全に遮断された、私だけの聖域。そのシェルターの中で、私の魂は、自由に、そして無限に広がる世界を夢見ていた。現実の全てが、遠ざかっていく。
食卓は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。朝の光が差し込むはずのリビングは、カーテンが閉め切られたままで、水底のように薄暗く、重い空気が満ちていた。空気中には、昨夜の夕食の残り香が、かすかに漂っているようだったが、それもまた、冷たく感じられた。食卓の中央に置かれた花瓶の花は、すでにしおれかけている。そのしおれた花が、この家の現状を物語っているかのようだった。
母は、私の向かいに座り、湯気の立たない味噌汁の入ったお椀を、所在なさげに見つめたまま、一言も口を利かない。その表情は、感情を読み取ることができず、仮面のようだった。その白い頬は、わずかにこわばっているように見えた。私の視線と合うと、すぐに目を逸らされた。母の視線は、虚空をさまよっていた。
父も、スポーツ新聞の巨大な紙面の向こう側から出てこようとはしない。紙擦れの音だけが、不気味に響く。その奥で、すすり泣くような小さな音が聞こえた気がしたが、私は気にしないことにした。それは、もはや私とは関係のない、遠い場所の音だった。私の心には、何の感情も湧き上がらなかった。ただ、目の前の食事を機械的に口に運ぶだけだった。
土曜日の、燈が突然訪ねてきた後の、あの気まずい空気が、澱のように家中に沈殿している。重く、冷たく、私の身体に絡みつく。目に見えない蜘蛛の巣のように、私の動きを鈍らせた。空気そのものが、重く粘着質に感じられた。その空気は、私の呼吸すら困難にするかのようだった。
私もまた、何も話さなかった。話す必要性を感じなかった。言葉は、この沈黙を破るには、あまりにも無力だった。口を開けば、さらに空気が凍り付くだけだろう。私は、ただ無言で、目の前の食事を胃に流し込んだ。
味のしないパンを喉に押し込み、冷たい牛乳で無理やり流し込む。それは食事というより、ただの燃料補給の儀式に過ぎなかった。味覚も、嗅覚も、この場では意味をなさなかった。ただ、胃袋を満たすためだけの、義務的な行為。毎朝繰り返される、無意味な作業。その行為が、私の魂から、さらに感情を吸い取っていくかのようだった。
玄関で靴を履いていると、背後から母が低い声で言った。その声は、深海の底から響いてくるかのように、重く、感情がこもっていなかった。感情の起伏がない分、その言葉の冷たさが際立っていた。その声は、私の背中に、冷たい氷の矢を突き刺すようだった。
「琴葉。……あまり、燈ちゃんに心配をかけるようなことはしないでちょうだい」
その言葉には、娘を案じる響きは微塵もなかった。ただ、世間体を気にする、冷たい棘があるだけだった。近所付き合いや、親同士の交流に支障が出ることを恐れている、その感情が剥き出しだった。私の行動が、自分たちの平穏な日常を乱すことへの、明確な不満。母の言葉は、私の存在そのものを否定するようだった。私の心は、何の痛みも感じなかった。
私は振り返らず、「……わかってる」とだけ答えて、ドアを開けた。その声は、感情のない、乾いた響きだった。扉の向こうの、灰色の空が、私の心を映しているようだった。重く垂れ込めた雲が、今にも雨を降らせそうだった。街全体が、私の心の曇天を表しているかのようだった。アスファルトの匂い、微かな排気ガスの匂いが、私の鼻孔をかすめる。それは、現実の、生々しい匂いだった。そして、遠くで聞こえる車の走行音が、私の心をさらに閉ざした。
教室の空気もまた、自宅と同じように、私にとっては居心地の悪いものだった。朝のホームルームが始まり、担任の教師が、事務的な連絡事項を淡々と告げる。その声は、私の耳には遠く、ほとんど雑音にしか聞こえない。黒板に書かれた文字も、私の目には、意味のない記号の羅列にしか映らなかった。その中で、今日、新しい転校生が来るということが告げられたが、私の耳には、遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。私の視線は、窓の外の、くすんだ空へと向けられていた。
燈は、自分の席で、他の友人たちと当たり障りのない話をしている。いつもの朗らかな笑い声も、私の耳には届かない。彼女の周囲には、別の、明るい空気の膜が張られているかのようだった。その膜は、私と燈を、完全に隔てていた。燈の笑顔が、私の目には、ひどく眩しく、遠いものに感じられた。
時折、こちらに気遣わしげな視線を向けてくるが、決して話しかけてはこなかった。その視線には、心配と、そしてどうしようもない諦めが混じり合っているように見えた。壊れてしまった玩具を見るような、そんな目。修復不可能なものを前にした、静かな諦め。燈の視線は、私の心を、さらに孤立へと追いやる。私は、燈の視線から逃れるように、視線を落とした。
他のクラスメイトたちも、私と燈の間に流れる不穏な空気を敏感に察知しているのか、誰も私に近づこうとはしない。私の周囲には、目に見えない透明な壁が築かれているかのようだった。完璧な孤立。教室の隅で、私はひっそりと息を潜めていた。誰の視線も、私に向けられることはない。私の周りの空間は、真空状態であるかのようだった。
だが、私はもう、それを苦痛だとは感じなかった。むしろ、好都合だとさえ思った。誰にも、私の内なる世界を邪魔されずに済む。この孤立こそが、私を守る盾なのだと、私は悟っていた。侵されることのない、私だけの砦。私は、その砦の中で、静かに、そして確かな自由を感じていた。その自由は、私の心に、深い安らぎをもたらした。
休み時間、耳に入ってきたのは、クラスメイトたちのひそひそとした噂話だった。それは、教室の隅で、小さく、しかし私の耳には、はっきりと届いた。
「ねえ、聞いた?今日、転校生が来るらしいよ」
「え、マジで?この時期に?」
「なんか、お父さんの仕事の都合なんだって。男子らしいよ」
「へえー、イケメンかな?」
「いや、それがさ、あんまりそういう感じじゃないみたい。前の学校で一緒だった子の友達から聞いたんだけど、なんか……影が薄いっていうか、ミステリアスな感じの人だって」
転校生。その言葉に、私の心は微動だにしなかった。新しい人間関係など、億劫なだけだ。面倒なだけ。私は窓の外を眺め、灰色の空に「まどろみの世界」の藤色の空を重ねていた。現実に存在するはずのない、優しい紫色の空。その想像の空が、私の視界を覆い隠していく。私の心は、すでに現実から離れ、あの世界へと飛翔していた。
影が薄い、ミステリアス。そんな断片的な情報も、私の意識の表層を滑っていくだけで、何の興味もかき立てなかった。遠くの国の言葉を聞いているようだった。その影が、私と同じ世界の匂いを纏っていることなど、知る由もなかった。私の心は、既に現実の向こう側へと旅立っていた。教室のざわめきも、私にとっては、ただの遠い残響に過ぎなかった。
その日の夜。悲劇は、私が予期せぬ形で訪れた。
深夜、時計の針が日付を跨ぎ、静寂が支配する時間。家の隅々まで、ひっそりとした空気が満ちている。外からは、遠くの街灯の光が、わずかに窓を照らすだけだった。微かに聞こえるのは、時計の針が時を刻む音と、遠くで吠える犬の声だけ。
私は、再び「まどろみの世界」を歩いていた。今夜、私が訪れたのは、朽ち果てた巨大な図書館だった。その壮大さに、私は息を呑んだ。天井は、かつて壮麗なステンドグラスで飾られていたのだろうが、今は砕け散り、そこから藤色の空が覗いている。崩れ落ちたステンドグラスの破片が、床に散らばり、星屑のように輝いている。その破片のガラスは、私の足元で、僅かにきらめいていた。
無数の光の粒子が、その隙間から降り注ぎ、図書館全体を幻想的な光で満たしていた。埃っぽい空気の中を、銀色の光の筋が、舞台照明のように差し込んでいる。その光の粒子は、空中で静かに舞い、ゆっくりと床へと降り積もっていく。光の筋の中を、無数の塵が、きらきらと輝きながら漂っていた。その塵は、私の肌に触れても、何の感覚もなかった。
書架は、崩れかけたまま天高くそびえ立ち、古代の巨人が残した骨格のようだった。その棚には、びっしりと本が並んでいるように見えるが、そこに収められた無数の本は、どれもページが風化して、文字はすべて消え失せていた。紙は黄ばみ、触れると簡単に崩れ去る。一冊一冊が、かつての知識と物語の残骸だった。書架のあちらこちらから、古びた紙の匂いが、微かに漂ってくる。
知識の残骸。記憶の墓場。それは、全てが失われた後の、静謐な美しさだった。この世界には、もはや過去を語る者も、未来を夢見る者もいない。ただ、静かな時間が流れている。私は、その光景を愛していた。現実の喧騒とは無縁の、完全な静寂と荒廃の美だった。この場所こそが、私の魂の安息の地だった。
指でそっと背表紙に触れると、本はぱらぱらと音もなく崩れ、銀色の粒子となって舞い散る。その儚さが、美しかった。全てが、形を失い、光に還っていく。この世界の全てが、ゆっくりと、しかし確実に、本来の姿へと回帰しているかのようだった。その光景は、私の心を深く慰撫した。崩れていく本は、私の心の傷を、静かに癒していくかのようだった。
夢中で、一冊の大きな画集を手に取って開いた、その時だった。それは、かつて美しい絵が描かれていたであろう、しかし今は何も残されていない空白のページ。ただ、紙の黄ばみと、インクの染みが、かつての絵の存在を暗示しているだけだった。指先でその染みに触れようとした、その瞬間。
突然、腕を、現実の、生々しい力で強く掴まれた。その指は、凍えるように冷たく、しかし確かな力で私の細い腕を締め上げた。肌に食い込むような、生々しい感触。その痛みは、現実のものであることを、私の脳に有無を言わさず叩きつけた。
「きゃっ!」
思わず上げた悲鳴は、現実の、私の喉から発せられたものだった。その声が、静寂の図書館に不自然に響き渡る。周囲の光景が、歪んだ鏡のようにぐにゃりと歪んだ。視界が急速に収縮し、色彩が失われていく。世界の境界線が、突然、崩壊していくかのようだった。私の視界は、激しく点滅した。
世界が激しく揺らめき、朽ちた図書館の光景は、ガラスが砕けるように霧散する。藤色の空も、光の粒子も、全てが歪み、一瞬にして消え去った。代わりに、見慣れた自室の天井が、ぼんやりと視界に現れた。現実の、冷たい空気。そして、耳元で響く、荒々しい息遣い。そして、鼻腔を刺激する、現実の、生々しい母の匂い。
はっと我に返った時、私は、自宅の玄関に立っていた。冷たいタイルの感触が、裸足の足の裏に伝わってくる。その冷たさが、足元から全身へと這い上がってくるようだった。全身の皮膚が粟立つ。玄関の冷たい空気が、私の身体を包み込んだ。
パジャマ姿のまま、冷たい土間に裸足で降り、おぼつかない手つきでドアノブに手をかけようとしていた。その手は、震えていた。指先が、わずかに痙攣している。そして、私の腕を掴んでいるのは、鬼のような形相をした、母だった。その顔には、怒り、恐怖、そして深い困惑が入り混じっていた。目は血走り、口はわなわなと震えている。その形相は、私にとって、見知らぬ怪物のようだった。母の視線が、私の心を射抜く。
「こ、琴葉……!あなた、こんな夜中に、どこへ行こうとしてるの!」
母の声は、怒りと恐怖で震えていた。その声は、ヒステリックに響き、私の耳を聾(ろう)する。私は、何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。夢と現実の境目が、あまりにも唐突に引き裂かれ、意識が追いつかない。深い眠りから無理やり引き起こされたような、混乱と目眩が、私の頭を支配していた。全身に力が全く入らない。
「……夢を、見てただけ」。絞り出すような声だった。喉が渇き、声はひどく掠れていた。私の声が、こんなにも弱々しいものだったのかと、私は驚いた。
「夢!?夢を見てる人間が、玄関の鍵を開けようとするものですか!あなた、この間からずっとおかしいのよ!夜中に、家の中をうろうろ歩き回って……!」
母のヒステリックな声に、階上から父も降りてきた。寝間着姿の父は、眠そうな目を擦りながら、目の前の光景を見て、深い溜息をついた。その溜息には、諦めと、わずかな疲弊が滲んでいた。額には、深い皺が刻まれている。その顔には、私への心配の色は微塵もなかった。
「またか……」。父の声は、諦念に満ちていた。何度も繰り返されてきた、うんざりするような出来事であるかのように。その言葉は、私の存在を、ただの厄介事として扱っているかのようだった。父の視線は、私を避けるように、虚空をさまよっていた。
「あなたからも、なんとか言ってやってください!この子、本当におかしいわ!」
母は、助けを求めるように父に訴えかけた。その目は、今にも泣き出しそうだった。しかし、私には、その涙が、私への心配からくるものには見えなかった。それは、自分の平穏が乱されることへの、苛立ちと恐怖の涙だった。母の訴えは、私の心に、何の響きも与えなかった。
「夢遊病、ってことなのか……?」
父の冷静な、しかし、突き放すような声が、私の胸に突き刺さる。その言葉は、私を「異常」という枠に閉じ込めるようだった。簡単に分類できる病名で、私の全てを片付けようとしているかのようだった。その声は、私の存在そのものを、切り捨てるようだった。
「違う!私は、ただ、夢を見ていただけなの!」
私は叫んだ。だが、その声は誰にも届かない。両親の目に映るのは、ただ、自分たちの理解を超えた「異常な娘」だけだった。彼らの視線は、私の心を、凍てついた鎖で雁字搦めにする。その視線は、私の魂を深く傷つけた。私の叫びは、虚しく空間に消えていった。
私の足元を見る。裸足の足の裏は、冷たい土間の埃と、家の中を歩き回ったせいで、うっすらと黒く汚れていた。第3章の朝に見た光景と同じだ。あの時も、私は無意識に歩き回っていたのだ。
あの青い花びらは、夢から持ち帰った「証拠」ではなく、私が「まどろみの世界」に意識を飛ばした痕跡だったのかもしれない。その考えが、私の心を、さらに深く沈ませた。私が本当に「異常」なのではないか、という、微かな疑念の種が芽生え始める。その疑念は、私の心を深く覆い尽くした。
「一度、ちゃんと病院で診てもらった方がいいんじゃないか」父が言った。その声には、冷徹な現実が突きつけられていた。感情を一切含まない、事実を述べるだけの声。それは、私を突き放す、明確な意思表示だった。その言葉が、私の心に、冷たい鉛となって沈殿した。
「それが嫌なら、せめて、学校のカウンセラーの先生にでも相談しなさい。今の君は、少し普通じゃない」。
その言葉は、私の心を深く抉った。鋭利な刃物で、じっくりと切りつけられるような、耐え難い痛み。私の心の奥底にまで、その言葉の刃が到達する。体中の血が凍り付くような、冷たい感覚。全身の震えが止まらない。
普通じゃない。
異常者。
その言葉が、決定的な一撃となった。彼らは、私を理解しようとはしない。ただ、自分たちの理解の範疇に収まらないものを、「異常」と断じて、排除しようとしているだけだ。心配しているのではない。自分たちの平穏が脅かされるのを、恐れているだけなのだ。私は、深い絶望感に包まれた。底なしの沼に、ゆっくりと沈んでいくような、逃れられない感覚。呼吸すらも苦しくなるほどの、重苦しさ。全身の細胞が、絶望に染まっていく。
私の心の中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。家族への、最後の、ほんの僅かだけ残っていた信頼の糸が。脆く張り詰めていた一本の弦が、音もなく切断されるような感覚だった。もう、彼らに何を言っても無駄だ。彼らは、決して私のことを理解しようとはしない。私の心は、完全に閉ざされた。
「……放っておいて」。絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。感情の全てを剥ぎ取られたような、無機質な響き。声帯が、鉛のように重い。その声は、私の決意を物語っていた。
「私のことなんて、もう、放っておいてよ!」
そう叫ぶと、私は母の手を振り払い、自分の部屋へと駆け上がった。階段を駆け上がる足音が、ひどく大きく響いた。背後で、両親が何かを言っていたが、もう聞こえなかった。彼らの声は、遠くで鳴り響く雑音のように、私の耳には届かなかった。心臓が激しく鼓動し、その音だけが、私の耳に響く。全身の細胞が、熱を帯びて燃え上がるようだった。
ドアを閉め、鍵をかける。カチャリ、と重い音が響き、私の心に、この家にはもう、私の居場所など欠片も残ってはいないのだと、私は確信した。閉鎖された空間の中で、私は、ただひたすらに、私が完全に孤立したことを悟った。この鍵が、現実との境界線となった。
ベッドに倒れ込み、布団を頭まで被る。真っ暗な闇の中で、涙が、後から後から溢れてきた。温かい雫が、頬を伝い、枕に吸い込まれていく。枕は、あっという間に湿っていく。涙腺が壊れたかのように、次から次へと溢れ出す。その涙は、私の全ての感情の塊だった。
悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からない。ただ、どうしようもない孤独感が、全身を叩きつけていた。魂が、深く、深く傷ついている。胸の奥に、重い鉛の塊が押し込まれたかのように、息苦しい。全身の震えが止まらない。その震えは、私の魂の叫びだった。
(もう、いい)
(もう、あんな場所にはいたくない)
強く、強く、願う。
ここではない、どこかへ。
あの静かな場所へ。
あの、私を受け入れてくれる世界へ。
涙で濡れた枕に顔を埋めたまま、私は、再び意識を「まどろみの世界」へと飛ばした。それはもはや、逃避ですらなかった。帰還だった。私の、本当の居場所への。私の魂は、あの世界を求めていた。現実という牢獄から、魂が解き放たれる瞬間。
◇
今度の「まどろみの世界」は、雨が降っていた。
といっても、それは現実の雨ではなかった。空気が重く湿っているわけでもなく、地面が濡れているわけでもない。ただ、全身を透過していくような、不思議な感覚だけがあった。
音もなく、藤色の空から、銀色に輝く粒子が、雨粒のように、しとしとと絶え間なく降り注いでいる。その光の雨は、朽ちた街並みを、しっとりと濡らしていた。ビル群の荒廃した窓ガラスが、銀色の粒子を反射して、星屑が散りばめられたかのように輝いている。
朽ちたビル群の窓ガラスは、銀色の粒子を反射して、星屑が散りばめられたかのように輝いている。その光は、どこか冷たく、それでいて、幻想的な美しさを湛えていた。路地裏の深い陰にすら、その銀色の粒子は降り注ぎ、暗闇を微かに照らしていた。街のいたるところに、光の膜が張られたかのようだった。その光の膜は、私の心を優しく包み込んだ。
路地の奥では、風化した看板が、わずかに揺れ、その影が光の雨の中でゆらめいていた。看板の文字は、ほとんど読み取れないほどに薄れているが、かつてそこに何があったのかを想像させる。錆び付いた鉄骨が、むき出しになり、風化したコンクリートの壁には、ひび割れが走っている。そのひび割れの中を、銀色の粒子が、静かに流れていく。
この世界は、常に変容し続けている。形あるものは全て、ゆっくりと、しかし確実に朽ちていく。しかし、その朽ちる過程さえも、この世界では美しい風景の一部だった。朽ちていくもの全てが、光の粒子へと還っていくような、そんな印象を受ける。それは、生命の循環のようでもあった。
私は、あてもなく歩いた。足元の砂利を踏む音だけが、静かに響く。その音すら、この世界の静寂の中では、ひどく大きく感じられた。私の呼吸の音、心臓の鼓動すらも、この静寂の中では、鮮明に感じ取ることができた。足元から伝わる、冷たくも温かくもない砂利の感触が、私の意識を、さらに深くこの世界へと引き込んだ。
現実で流した涙は、もう乾いていた。頬に張り付いていたはずの湿り気は、この世界の清浄な空気の中で、いつの間にか消え失せていた。顔には、ひんやりとした、しかし心地よい風が吹いている。その風は、私の髪を優しく撫で、その心の奥底に染み込んでいくようだった。現実の重苦しさが、完全に洗い流されたかのようだった。
心は、不思議なほど静かだった。感情の波は、遠い記憶のように、心の奥底へと沈んでいった。全てを諦めた後の、凪のような静けさ。嵐が去った後の海のように、静かで、穏やかだった。それは、これまで私が経験したことのない、深い安らぎだった。この静寂が、私の魂を、優しく抱きしめているかのようだった。
やがて、私は、大きな公園だったと思われる場所へとたどり着いた。周囲を囲む木々は、白い幹を天高く伸ばし、その葉は、朽ち果てた色を保ちながらも、どこか神聖な雰囲気を漂わせている。風に揺れる葉の音すらしない、静寂の世界。ただ、銀色の光の雨だけが、木々の間を縫って降り注いでいた。木々の間からは、遠くの街並みが、蜃気楼のように揺らめいて見える。その風景は、私の心を、さらに深く、この世界へと誘った。
錆びて朽ち果てた遊具が、かつての賑わいを偲ばせる。ブランコは鎖が朽ちて地面に横たわり、座面は風雨に晒され、色褪せている。滑り台は傾き、錆びた鉄板が剥がれ落ちていた。しかし、その廃墟のような光景は、私には哀愁を帯びた美しさに映った。時の流れの残酷さと、それでも残る微かな記憶の温かさ。それは、現実の醜悪さとは無縁の、純粋な廃墟の美だった。
その公園の中心には、巨大な池があった。もはや湖に近い広さだ。その広大な水面は、黒い鏡のように静まり返り、空の藤色と、降り注ぐ銀の雨を、完璧に映し込んでいた。水面に映る景色は、現実よりも、さらに鮮明で、深淵だった。鏡面のような水面は、この世界の全てを映し出しているかのようだった。水底まで、透き通って見える。
湖底には、かつての街の建物が、音もなく沈んでいるのが、朧げに見えた。水没した古代都市の遺跡のようだった。遥か昔に失われた文明の残骸が、静かに眠っている。その光景は、恐ろしいほどに美しかった。魂を揺さぶるような、深遠な美。私は、その全てに、深く心を奪われた。その美しさは、私の心に、静かな感動を呼び起こした。
私は、池のほとりにあった、石のベンチに腰を下ろした。表面が滑らかになったベンチは、永い時間を物語っていた。無数の人々の重みに耐え、雨風に晒されてきたのだろう。その冷たい石の感触が、私の肌にじんわりと伝わってくる。その冷たさは、私の心を、さらにこの静寂へと誘うようだった。ベンチに座ると、私の心は、完全にこの世界の風景と同化した。
降り注ぐ銀の雨は、私の身体に当たっても、濡れるという感覚はない。ただ、肌を通り抜けていくだけだ。冷たさも、温かさもない。その粒子は、皮膚の細胞の隙間をすり抜けるように、私の身体を透過していく。私自身の存在が、この世界と同化していくかのようだった。その感覚は、私の心を、さらに軽くした。
私は、何をするでもなく、ただじっと、静かな水面を眺めていた。私の瞳は、水面の映し出す幻想的な光景に、吸い込まれるかのように、微動だにしなかった。瞬きも忘れ、私はただ、そこに存在していた。時間という概念すら、この世界では意味をなさなかった。私の意識は、完全に水面に集中していた。
その時だった。
私は、初めて「それ」を聴いた。
この、音のない世界で。
ぽつり。
水の中から、泡が、ひとつだけ、ゆっくりと立ち上る気配。水底深くから、長い時間をかけて上昇してくるかのような、微かな予兆だった。その泡は、水面に向かって、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。水面に達する直前、泡は微かに震えた。
そして、その泡が水面に達し、弾けるように、微かな音がした。それは、現実の音とは全く異なる、魂に直接響くような、不思議な響きだった。空気の振動ではない、心に直接語りかけるような音。その音は、私の心の奥底に、静かに、しかし確実に響き渡った。遠い記憶が呼び覚まされるような、懐かしい響きだった。
言葉ではない。メロディでもない。ただの、音の響き。生命の、胎動のような。それは、この世界の静寂の中に、確かに存在する「何か」の証だった。私は、その音に、ただひたすらに耳を傾けた。その音は、私の魂の奥深くまで染み渡った。
ぽつり、ぽつり。
また、聞こえる。その音は、先ほどよりも、わずかに、しかし確実に明瞭になった。音と音の間隔は、脈打つように、一定のリズムを刻んでいる。そのリズムは、私の心臓の鼓動と、いつの間にか同期していた。
それは、誰かの声のようだった。男性とも女性ともつかない、どこまでも澄んだ、中性的な音色。この世界の全ての音を洗い流すような、清らかな響きだった。その声は、私の魂を浄化していくかのようだった。心の澱が、ゆっくりと洗い流されていく。
水底から、私がいる場所まで、長い時間をかけて届いてくるような、そんな不思議な響き。遠い場所から、誰かがそっと呼びかけているようだった。その声の響きは、私の心臓の鼓動と、静かに同期していく。私の全身が、その声の響きに共鳴しているかのようだった。
意味は、全く理解できない。しかし、その「声(Vox)」は、私の心の最も柔らかい場所に、優しく触れた。温かい指先で、そっと撫でられるような感覚だった。私の心の奥底に潜んでいた、凍てついた感情が、ゆっくりと溶かされていく。その声が、私の心に、温かい光を灯した。
私の宿命である「悲しみ」を、咎めるでもなく、憐れむでもなく、ただ、そのまま、静かに受け入れてくれるような響き。母の腕に抱かれているかのような、絶対的な安心感に包まれた。私の心の奥底に沈殿していた、あらゆる不安や悲しみが、その声によって、ゆっくりと溶かされていく。それは、私が生まれて初めて感じた、無条件の受容だった。
私は、生まれて初めて、私の孤独が、内側から溶けていくような感覚を覚えた。長年、私の心を蝕んできた氷の塊が、温かい光に照らされて、ゆっくりと融解していくかのようだった。その氷が溶けるたびに、心の中に、温かい水が満ちていく。その水は、私の魂を潤し、活力を与えた。
この世界は、一人きりではなかった。誰かが、いる。私と同じように、この静寂を愛し、この世界の悲しみを知る誰かが、確かに、ここにいる。その確信が、私の胸に、新しい、温かい感情の芽生えをもたらした。冬枯れの庭に、小さな蕾が顔を出したような、かすかな希望の光だった。その光は、私の心の中で、静かに、しかし力強く輝き始めた。
私は、ベンチから立ち上がり、吸い寄せられるように池の縁へと近づいた。足元の苔むした石の上を、ゆっくりと進む。一歩一歩が、聖なる場所へと足を踏み入れるかのように、慎重だった。水面から聞こえる声が、私を誘い続けている。
水面は、私が近づくにつれて、微かに波紋を描いた。その波紋は、銀色の雨粒の光を反射し、水面に複雑な模様を描き出す。そして、そっと膝をつき、水面に顔を寄せる。水面に映る私の顔が、はっきりと見えた。
鏡のような水面には、私の顔が映っていた。血の気のない、大きな瞳の少女。その瞳の奥に、深い孤独の色を湛えた少女。しかし、その瞳には、今までにはなかった、微かな光が宿り始めていた。それは、希望の色なのか、それとも、単なる光の反射なのか。私には、まだ分からなかったが、その光の存在自体が、私の心を揺さぶった。その光は、私の魂の奥底から湧き上がってくるかのようだった。
「……誰、なの?」
思わず、声が漏れた。現実では、決して発することのできない、か細い問いかけ。その声は、静寂を破り、水面に小さな波紋を広げた。銀色の雨粒が、私の頬を優しく撫でる。その冷たさが、私の心を落ち着かせ、私の意識を、さらに深い場所へと誘う。
すると、声は、私の問いに応えるように、先ほどよりも少しだけ、明瞭になった。それはやはり、意味のある言葉ではなかったが、私には、その声が、私を誘っているのが分かった。優しい歌声に導かれるように、その声は私を招いた。その声は、私の魂の響きと、完全に調和していた。
――こっちへおいで。
そう、言っているような気がした。声は、私を、水底の深淵へと誘う。その誘いは、決して強制的なものではなく、どこまでも優しく、温かかった。抗う必要など、どこにもなかった。私の心は、その誘いに、全てを委ねようとしていた。
私は、水の中に、そっと指先を浸してみた。水は、冷たくも温かくもなかった。ただ、私の指が、境界線を越えて、別の次元へと入っていくような、不思議な感覚があった。指先から、微かな光が放出され、水中に溶け込んでいく。私の魂の一部が、水底へと流れ込んでいくようだった。その光は、水中で静かに広がり、水底を照らした。
声は、水を通して、より鮮明に、私の意識へと流れ込んでくる。私の孤独を癒し、魂を慰撫する、甘美な子守唄のようだった。その声は、私の心を完全に満たし、現実の全ての雑音を消し去った。この声があれば、もう何もいらない。そう、私は感じた。私の魂の根源に触れるような、深遠な響きだった。
夜が明けるまで、私はずっと、その場を動かなかった。銀色の雨は降り続き、藤色の空は、その色合いを深くしたり、薄くしたりと、様々に表情を変えた。私は、ただひたすらに、水底から響いてくる声に、耳を澄ませていた。その声が、私の存在全てを肯定してくれるかのように、優しく、包み込んでいた。温かい毛布にくるまれているような、絶対的な安心感。時間すら忘れ、私はただ、その声に身を委ねていた。
やがて、意識がゆっくりと現実世界へと引き戻される。深い眠りから覚めるような、穏やかな浮上だった。瞼の裏に感じていた、柔らかな光が、徐々に強くなっていく。
目覚めたのは、自室のベッドの上だった。窓の外が、白み始めている。東の空が、ほんのりと明るくなり始めている。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、もはや私の心を傷つけなかった。その光は、むしろ、優しく私を包み込むようだった。
新しい一日が、また、始まろうとしていた。それは、これまでとは違う、何か新しいことが始まる予感がした。
家族との断絶は、もう決定的だった。それは、私自身が選んだ道だった。けれど、私は、もうそれを恐れてはいなかった。現実が私を拒絶するというのなら、私もまた、現実を拒絶すればいい。もう、どうでもよかった。私の心は、完全に自由だった。
なぜなら、私には、新しい希望ができたからだ。あの声の存在。それは、私にとって、何よりも確かなものだった。「まどろみの世界」で安らぎを得ることは、もはや目的ではなかった。あの「声」の主に会いたい。会って、確かめたい。あなたは、誰なのか、と。
その強い想いが、私を世界のさらに奥深くへと導く、新たな原動力となって、私の胸の内で、静かに、しかし力強く、燃え始めていた。私は、もう孤独ではなかった。私の魂は、あの声によって、満たされていた。心の奥底に、小さな光が灯ったような、温かい希望。その光は、決して消えることはないだろう。私の瞳には、かつてないほどの輝きが宿っていた。
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