第6話 教室の片隅で、変奏曲(パルティータ)
カレだった一葉は、クラスメイトの多田になった。
多田と別れたあとも、日々は変わりなく過ぎていく。月曜日から金曜日までは学校。週末は自宅でテレビの録画を観たり、友だちと街へ出たり。……夜はせっせと多過ぎる課題を片づける。
活動日が週二だった英語部は、六月の学校祭の準備のために、週に三回の活動になった。お客さん参加型の英語でのクイズやクロスワードパズルを企画して、正解者への景品にアルファベットのクッキーを焼くことになった。
最初は面倒くさく感じたけれど、始めてみればお祭りの準備は楽しかった。みんなでわいわいしている間は、多田とのこともあまり心に浮かばない。
なぜ、多田と別れることになったのか、私は今もよくわからない。つきあおう、と言ったのは多田なのに。わからなくて、私は多田のことを考えてしまう。
一緒に英語部に入った四人グループのつきあいは、私が多田と別れたあとも同じように続いている。
綾乃は、私が多田と別れたときに日菜子が『冷たかった』ことに不満を持ったようで、私だけに日菜子の悪口をこそこそとささやく。綾乃がささやく悪口に私も『そうだね』と相づちを打つ。けれど、綾乃も私も日菜子に面と向かった非難はしない。せっかくできたグループを壊すのはどうかと思うのだ。クラスも部活も一緒なのに、気まずくなるのは面倒くさい。きっと綾乃もそう考えて、本人には聞こえない悪口にとどめているのだろう。
日菜子の態度は『私、パス』と言った後も変わらない。普段は淡々としているけれど、アニメを語りだすとちょっと熱い。私たちの陰口に気づいているのかどうかは、わからない。
放課後はときどき四人で駅ビルに寄り道して甘いものを食べたり飲んだりしながらおしゃべりする。アニメグッズやかわいいアクセサリーの店をのぞくこともある。
四人でいるときに、多田の名前が話題に上ることはない。
きっと終わったことなのだろう、日菜子や結衣には。
日菜子と結衣は、多田と私が中学のときどんなふうにつきあっていたか、知らない。そして、中学のときつきあっていたカップルが高校になって別れた、なんてよく聞く話だ。日菜子と結衣にとっては、よくある話のひとつに過ぎないのかもしれない。
でも、私には、よくある話のひとつじゃない。私の気持ちは終われない。
なぜ、と思う。嫌われるようなことはしていない。それは多田も認めた。なのに、なぜ、ほかの女の子を好きになったりできるんだろう。悪いのは多田なのに、なぜ私だけが泣かなくちゃならないんだろう。
教室にいるとき、多田と視線が合うことは──ある。
そんなとき、多田は目を逸らす。さり気ないけれど、私が言った『顔も見たくない』という言葉に添おうとしていることは、わかる。
わかると、胸がツンと痛む。
耐えられないような痛みでは全然ない。だけど、痛い。
痛いから、私は痛みのもとをにらみつける。自分が感じるのと同じくらいの痛みを多田に返してやりたくて、にらむ。でも、多田は私を見ていない。私の視線は多田をちょっとも傷つけることができない。
ふり返ってみると、春休みに犬の散歩に誘われたのが、多田とふたりで過ごした最後の時間だった。
あのときの多田は優しかったと思う。変わったところはなかった気がする。
本当は変わっていたのに、私が鈍くて気づけなかったんだろうか。それとも、あのあと、多田の気持ちを私から離してしまう何かがあったんだろうか。
考えても仕方ないのに、考える。考えてばかりで、心の中から多田を消せない。
授業中、集中力が切れて先生の声がふと遠くなるとき、気がつくと多田を見ている。顔も見たくない男の子を、遠くからそっと見ている。
部室棟を囲む木立の中で話をしたとき、多田の伏せたまつ毛が頬につくった薄い影が、ずっと私の心に残っている。何度も近くで見た顔なのに、あのとき私は驚いたのだ。──一葉ってこんなにまつ毛が長かったっけ。
半年以上つきあっていたのに、なぜ多田のまつ毛の長さに気づかなかったのか、すごく不思議だ。もう一度彼の顔をのぞき込み、まつ毛の長さを確かめたい気持ちが心のいちばん底で揺れている。木漏れ日と彼のまつ毛がつくった青い影をもう一度見たい。
多田の席は窓際で、私の席は廊下に近い。窓の外を眺めるフリをすれば、多田が私の視界に入る。
「ひどいやつだよね。私、多田のこと、見損なったよ」
綾乃は、月の名前が変わっても、私とふたりだけのときにはそう言ってくる。私も、
「ホントだよね」
と、調子を合わせる。
そう、多田はひどいやつなのだ。
大っ嫌い。二度と顔も見たくない。──部室棟の横で吐き捨てたのは本気だった。その言葉を静かに受け取った多田は、教室で目が合うと視線を逸らす。私は多田を見つめ続ける。
最初は『大っ嫌い』という気持ちを込めてにらんでいた。
だけど、最近、『大っ嫌い』な気持ちを忘れているときがある。先生の声が耳をすり抜けて、私はぼんやり多田を見ている。
運動部に入っているからか、多田の頭髪は短めだった。それは中学のときから変わらない。極端に短いわけじゃなくて、運動に邪魔にならない長さ、という感じだ。
髪の色は、ほんの少し、茶色い。真っ黒な髪の友だちが近くに来ると、色の違いがわかる程度の、ほんの少し。
多田の席は窓際なので、クセのないさらさらの髪は、窓から入ってくる風に時おり軽く遊ばれる。今は風の気持ちいい季節だ。髪を風に吹かれた多田は、眉をしかめ、目を細めて窓の外の空を見上げる。
風に吹かれた前髪が煩わしいような、けれど爽やかな風が心地よいような、不思議な表情だ。苦くて甘くて……大人びた雰囲気に子どもっぽさを一滴零したような表情。──多田って、こんな顔をしたんだっけ?
知らない男の子のようだった。中三の夏休みから……数えると、八か月もつきあっていたのに。
そんなふうに自分の記憶の中にない多田の表情にハッとするとき、私は『大っ嫌い』を忘れてしまう。だから、綾乃が多田の悪口を言ってくれるのはありがたい。『大っ嫌い』だからにらんでいるのを思い出させてくれて。
にらんで、にらんで……。
やがて、気づいた。多田が、私以外にも、目が合うとすっと視線を外す女の子がいることに。
私と目が合ったとき、多田はすぐに目を伏せる。けれど、その女の子と目が合ったときは、一拍、彼女と見つめ合ってから、目を逸らす。
そのとき、多田の視線には、木漏れ日がつくった影のような青さが揺れる。私の目にはそう映る。大人っぽさと少年っぽさが、多田の周りで混ざり合う。
いつの間に彼はそんな雰囲気を身につけたのだろう、と訝りながら、私は彼の視線の先にいた女の子を見る。
真ん中の列、後ろから二番目の席に座る地味な女の子。肘の上の長さの髪を背中に垂らしている、新入生代表の白鳥楓を。
多田が白鳥楓を見ている。まさか、白鳥楓が、新しいカノジョ?
いや、接点がわからない。クラスは同じだけれど、話しているのを見たことはない。部活は違う。一葉のハンドボール部は体育館で練習して、白鳥楓は確か吹奏楽部で北校舎の三階が活動場所だ。
いつの間に? どこで? 何があって? ……ひと目惚れ? ううん、白鳥楓はひと目惚れするような見た目ではない。ブスじゃないけど、ふつー。
実は、頭のいい女の子が好きだったんだろうか。新入生代表、つまり、入試トップ合格の知性にひかれてしまったんだろうか。
うーん、いや、納得できない。頭のいい女の子が好きなら、日菜子だっている。日菜子は頭がいい。入試のスコアを聞いたら、学年でトップクラスだった。しかも、美人だ。日菜子ならひと目惚れでもわかる。でも、白鳥楓?
白鳥楓の普段の行動は、いたって控え目だ。先生に質問されれば、しっかりした答えを言うし、頼まれごとはきちんとするが、自分から何かを主張したりリーダーシップをとったりはしない。目立つのはあんまり好きじゃなさそう。新入生代表だったのは、たまたま入試でトップのスコアをとっちゃったから──という感じだ。
でも、白鳥楓の人が好くて押しが弱い感じは、頭が良くてもそれをひけらかしたり他人を馬鹿にしたりしないコ、というふうに受け取られて、クラスでは基本的に好感をもたれているようだ。親しみとリスペクトを込めて、みんなに『かえさん』と呼ばれている。
私も、別に、嫌いじゃない。となりの席のコに古語文法の解説を頼まれているのを見かけたことがあるのだけれど、相手が納得するまで一生懸命つきあってあげていて、真面目でいい人だなあ、と思った。
だけど、女の子として魅力的かと考えると、首をかしげてしまう。
……もしかしたら、私のカン違いなのかもしれない。私が多田を見るとき、多田の視線の先に白鳥楓がよくいるのは『たまたま』なのかもしれない。白鳥楓を見たときの一葉のまなざしが青い影を帯びて見えるのは、彼をにらみすぎて私の目が疲れたせいで。
多田の新しい『好きな女の子』が誰か、気にならないといえばウソになる。だから、多田が『たまたま』見ていた白鳥楓を『好きな女の子』と早とちりしてしまった……そう考え直してもみたけれど……。
学校祭が終わって、高校で初めての定期テストの結果が返ってきた。
多田とのことで気持ちが落ち込んでいるときのテストで、結果が心配だったけれど、悪くはなかった。自分の学力がこの高校のレベルの中ではもともと低いのだから、素点や順位は充分悪い。だけど、赤点は取らなかった。ほっとした。
親も、がんばって城東に合格しただけでウチの娘にしては上出来だ、と思ってくれているらしくて、城東で良い成績をとれ、なんて無茶は言わない。赤点はなかった、と報告したら、がんばったじゃない、と褒めてくれたくらいだ。
その、テスト順位が返ってきた日、白鳥楓は後ろの席の男子に順位表をのぞかれて、大きな声で学年1位をばらされたのだ。
「やばい、白鳥、学年1位」
その男子も高校生にもなって子どもっぽいことをしたものだ。だけど、1位ならばらされたって全然恥ずかしくないよね……とその様子を眺めていたら、白鳥楓は真っ赤になってのぞかれた順位表で顔を隠した。
かわいい、と思った。成績表を配る担任教師が注意するよりも早く、近くの席の女子が立ち上がって、
「ちょっと山口やめなよ」
と、成績をばらした男子を叱っていたけれど、私もそばにいたら同じことをしたかもしれない。守ってあげてたい感じがした。
それから、ふと気がついて、私は視線を動かした。白鳥楓から、多田へと。
私を含めて教室のほとんどの生徒が大声をあげた男子と白鳥楓をふり返っていた。多田も同じようにふたりを見ていたけれど。
多田の顔には表情がなかった。ただ、机に置いた手が、拳に握られていた。
白鳥楓の順位をばらした男子は周りの女子たちに寄ってたかって非難され、白鳥楓に頭を下げて謝ったあと、お詫びだと言って自分の順位をクラス全員に公表した。その順位が悪い方の『やばい』だったので、叱った女子たちに今度は励まされ、みんなに苦笑いされるというオチで小さな騒動は終わった──のだけれども。
白鳥楓をふり向いたとき、多田の顔には何の感情も表れなかった。ほかのみんなが学年1位におおっと感心したり男子の悪ふざけに顔をしかめたりしている中で、多田の無表情は私の目に不自然に映った。無表情なのは、多田が気持ちを抑え込んだ結果に思えた。そして、抑えた気持ちは、握った拳に込められたような……。
胸の奥が、その手にぎゅっと握られたように痛んだ。
白鳥楓は成績表を手にしてうつむいていた。みんなの注意が自分から離れるのを待って、成績表をそっとバッグにしまった。
そのあと顔を上げた白鳥楓の視線を、私は追った。心のどこかで予想していた通り、白鳥楓の視線は多田へと伸びた。
多田は白鳥楓の視線を受け止めると、微かに笑んだ。そして、白鳥楓もほんの少し微笑み返す。ふたりの視線はすぐに互いを離れたけれど。
ふたりの心の中の会話が聞こえた気がした。
──悪気はないんだけどな、山口。
──大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。
胸の痛みがおさまらない。
多田の今好きな女の子って、白鳥楓なの? 髪の長さは千鶴の目撃と合っている。だけど……。
白鳥楓なら、私の方が可愛いじゃん? ──黒いモノが私の胸に湧きあがる。痛かった胸が、どん、と重くなる──頭は、白鳥楓の方が全然いいけどさ、成績以外に私が負けているものって、ある?
納得できない。多田の方から、つきあおう、と言ったのに、何も悪いことをしていない私がふられて、成績以外に私よりいいところがない女の子を次のカノジョに選ぶなんて。
全然わからない。──そんなひどい男の子がふと見せる表情が、どうして私をハッとさせるのか。静かな青い影をそのまなざしに乗せることができるのか。
私がつきあっていたときの多田は、そんな表情を見せなかった。……いや、本当に見せなかったんだろうか? 見せていたのに、私が気づかなかったんだろうか? ふと浮かんだ疑問の答えもわからないけれど、多田が知らない男の子のように見えるときがある。そんなとき、私の胸にわだかまるものがふっと消える。大っ嫌い、顔も見たくない──叫んだときの気持ちが消える。
八か月つきあっていたのに知らない男の子がそこにいる。とても不思議な気持ちになる。ひどいやつだと忘れてしまう。
それでも、白鳥楓はないでしょ? と、思う。頭はいいけれど、顔は普通だし、いい人だとは思うけど、地味だし。どこが私よりいいの?
ふたりから目を離して、私はこっそりと息を吐く。
多田の新しい『好きな女の子』が白鳥楓だと確定したわけじゃない。根拠は髪の長さと自分のカンだけなのだ。
そうだ。白鳥楓をこっそり写メして、千鶴に見てもらったらどうだろう。多田と歩いていたの、この女の子じゃない? って。
……って、それ盗撮じゃん。──と思い至って、自分で自分が考えたことにひいた。一気に冷静になった。何をやっているんだろう、私。なぜ多田にふられたのか、とか、新しいカノジョは誰だろう、とか、いつまでもぐずぐずと考えて。
その夜、窓から空を眺めて自分に言った。
──別れた男のことなんて、さっさと忘れる!
見上げる空は星が輝いていた。そういえば、多田と約束したな。高校生になったら、夏休みに一緒に流星群を見よう、って。……なんて思い出したけれど、鼻で笑って続けた。
──多田の新しいカノジョが誰だっていいじゃん! 多田と新しいカノジョだって一年後には別れてるかもだよ? そのころ、私には多田より素敵なカレシがいるかもだよ?
──それに、恋愛以外にも楽しいことはたくさんある。英語部だって、入ってみたらそれなりに楽しいし。文化祭、盛り上がったよね!
──綾乃や日菜子に教えてもらって、二次元に走ってみるのもいいかも!
ベッドに横になるときには、すっきりしていた。
多田のことなんか、もう気にしない。ムカつく気持ちは残っているけれど、にらむのもやめる。綾乃のささやく多田の悪口に同調するのも、やめる。これからは、無視一択! 多田なんか眺めていないで、新しい出会いを見逃さないように、広く周りを見なくちゃね。多田や、多田の新しいカノジョを気にして日々を過ごすなんて、青春のムダづかいだ。
なのに──。
朝の教室はいつも軽やかにざわついている。おはようの挨拶や課題を忘れたことに気づいてあわてる声。そのたくさんのクラスメイトの中で多田だけが私の視線を止めさせた。
クラスメイトたちがその他大勢になってぼやけ、多田だけが視界に残る。別れよう、と言われる前よりも、連絡がほしいと切なく願っていたころよりも、くっきりと。
私の視線の先にいるのは、大人びた表情を浮かべるときにもほんの少し子どもっぽさを残している男の子。青い影を揺らせて地味な女の子に一瞬の視線を送る男の子。
初めて出会う男の子のようで、私は戸惑う。ときめくように戸惑う。なぜだろう……。
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