女優

午後八時

第1話 女優

 約束の午後三時ちょうどに、事務所のブザーが鳴りました。デュポン不思議相談所の秘書、ミセス・マスカットは依頼人のアクター氏を笑顔で出迎えます。

「おまちしておりました、アクターさん」

 アクター氏は地味な男性でした。年齢は二十歳半ばのように見えますが、老人くさい落ち着いた色の服を着ています。顔立ちは二枚目でもなければ三枚目でもない平凡な顔で、右手に持った、服の色とは合わないあざやかな緑色の小さなトランクが、氏の唯一の特徴でした。

 ミセス・マスカットはアクター氏のトランクを見て、

(どうして女性用のトランクを持っているのかしら)

 と思いましたが、何も言わずにアクター氏を応接室へ案内しました。

「ようこそ。吾輩が相談所の所長のジャン・デュポンです」

 応接室のソファに腰かけたアクター氏は、目の前のネコがしゃべったことに目を丸くしました。

「さっそく仕事の話に入らせていただきますが、あなたはどのような不思議で困っておいでですかな?」

「ええ、じつは、このトランクの持ち主を、探してほしいのです」

 アクター氏はデュポンと会話をしていてもどこか上の空のようです。きっと、ネコとしゃべっているのが自分でも信じられないからでしょう。

「すると、このトランクはどこかで拾ったのですか?」

「いえ、あずかったのです。ええっと、その、話が少し長くなりますが、わけをお話します」

 


 アクター氏がデュポン相談所を訪れる数日前のことです。その日は天気がよく、気温も高すぎず低すぎず、とてもすごしやすかったので、氏は公園に散歩に行きました。公園ではやわらかな陽射しを浴びたコブシが大粒の花を咲かせ、あちこちですずめたちのさえずりが聞こえます。氏は園内をぶらぶらと歩いていましたが、ベンチを見つけたのでそこに座り、おだやかな青空をぼんやりと見上げました。

 どれくらいそうしていたかわかりませんが、アクター氏が青空から公園に目を戻すと、一人の女性が歩いているのが目に入りました。その女性は平凡な公園に似つかわしくない目の覚めるような美女で、口元の丸く小さな黒子がありましたが、それは彼女の美しさの邪魔をするばかりか、かえってその美を非凡なものとして演出しています。

 アクター氏が思わず女性に見とれていると、彼女はこちらへやって、氏のとなりに腰かけました。ゆるく波うつ豊かなブロンドの一本一本からユーカリの爽やかな香りがただよい、氏の鼻孔をくすぐります。

 アクター氏は緊張しました。じろじろ見ていたことを、女性が怒っていると思ったからです。とがめられる前にあやまろうかと考えましたが、アクター氏が口を開く前に彼女の方から氏に話かけてきました。

「私、これから少し遠いところへ行かなければいけなくなったの」

 女性の声は低く、少し聞き取りにくい音程でした。加えて内容が初対面の相手に話すにはふさわしくないものだったので、アクター氏は女性が独り言を言ったのかと思いましたが、氏を見つめる彼女の青い目がそうではないと語っています。

「それで、このトランクを、あなたしばらくあずかってくれないかしら。もちろんお礼はするし、このトランクに入っているもので気に入ったものがあれば、自由に使っていいわ」

 その言葉で氏は女性が小さなトランクを持っていたことに気が付きました。女性の膝に置かれたトランクは公園の若葉のように鮮やかな緑色で、柔らかな光沢をまとっています。

「ええ、私でよければ、あずかりますよ」

 突然の申し出にとまどいながらも、難しいことではないのでアクター氏は引き受けることにしました。

「ありがとう。一週間後、今日と同じ時間にこの公園に来るから、その時トランクを返してね」

 アクター氏の言葉を聞いた女性は顔をほころばせ、トランクを残して春風のように軽やかに氏の前から立ち去りました。

 女性がいなくなったあとも、アクター氏はベンチに座ったままでした。彼女との会話の余韻に浸りたいと思ったのです。しかし、ついさっきの出来事なのに彼女との記憶は霞に包まれたようにおぼろげで、夢を見ていたのではないかと思えてきます。

 アクター氏はトランクを開けました。中に入っていたのは香水やスカーフ、ストッキング、古いカメラなどで、氏が使えるようなものは何もありませんでした。その時になって、アクター氏は女性に名前を聞かなかったことを思い出しました。


 五日経ったころ、公園で出会った女性からアクター氏に電話がかかってきました。

「急に電話をしてごめんなさい。私、そっちに戻ることができなくなったの。でもせっかく知り合えたのだから、記念にトランクはあなたにあげるわ。二人の記念の品だから、誰に渡さないでずっと持っていてね」

 女性は早口に言うと、氏が返事をする前に通話を切りました。なぜ彼女が自分の番号を知っているのだろうという当たり前の疑問はアクター氏の頭には思い浮かびませんでした。それほど彼は驚いたのです。

(どうして彼女は来れなくなったんだろう)

 少し落ち着いたアクター氏は彼女の行方を心配しました。

(彼女は何か事件に巻き込まれたんじゃないか)

 事件、という単語が出てくると、もう、アクター氏の頭の中では悪い方へ話が展開していきます。

(ひょっとしたら、彼女を襲ったやつは自分があずかっているトランクを狙ったのかもしれない。すると、私もそのうち何か事件に巻き込まれるのではないか?)

 とりとめもない想像に頭を悩ませたアクター氏はトランクを捨ててしまいたくなりました。しかし、トランクを拾ったまったく事情を知らない人が事件に巻き込まれてしまう可能性があると思うと、捨ててしまうこともためらわれます。

 悩んだ末、アクター氏は女性にトランクを返すことにし、公園で口元にほくろのある美女を見たことがないかと聞いてまわりました。しかし、園内での目撃情報はたくさんあるのに園外で彼女を見た人はおらず、結局、女性の行方は結局わかりませんでした。


「なるほど」

 アクター氏の話を聞いたデュポンはうなずきます。そして、居住まいを正し氏を正面から見つめると、

「それでは、早ければ明日にでも、あなたのなやみを解決するにぴったりの人物を派遣できますが、いかがなさいますか」

とアクター氏にたずねました。

「えっと、それは、トランクの持ち主の女性を見つけてくださるということでしょうか?」

「もちろんですとも」

 デュポンがあっさりと言ったので、アクター氏はにわかに信じらせませんでしたが、提示された謝礼金が安かったのと、自信にあふれたデュポンの顔を見ているうちに、ためしに頼んでみるのもわるくないと思えてきました。

「せっかくですので、よろしくお願いします」

「おまかせください。では明日十三時に、我が事務所の相談員をあなたのご自宅へ派遣いたします」

 アクター氏が立ち去ると、デュポンは机の上のベルを鳴らします。

「今の方、なぜ女性用のトランクを持っていたんですか?」

 呼ばれたミセス・マスカットは、デュポンを軽くなでながらたずねました。

「不思議なことにまきこまれたからですよ。今回は、そう、ルーカスがいい。やっかいなことに巻き込まれても、彼は上手く身を隠せます。ミセス・マスカット、ルーカスに、明日の十三時に依頼人の家に行くよう、連絡を」

「かしこまりました」

 ミセス・マスカットが部屋をでると、デュポンはなでられて乱れた毛並みをととのえ、丸くなりました。


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