第9話 ふたりの正しさ、ふたりの剣
夜の神渡町。空は晴れて、月が眩しいほどに冴え冴えと光っている。
今夜の怪異は、「傘」の言霊だった。
ずぶ濡れの少女の姿をしたそれは、廃団地の屋上にぽつりと佇んでいた。
彼女は、斬られたくないと訴えた。
「ずっとここにいたい。雨がやむのを、待ってるだけなのに」と。
だが、対言所の指令は絶対。怪異の滞留は、確実に害を呼ぶ。
私は――斬った。
少女の姿が砕け、形を失って、夜風に散った瞬間。背後から、ぽつりと香雪さんの声が落ちてきた。
「……おまえは、優しいな」
「え……?」
「いや、違うか。“優しく在ろうとしてる”だけか」
その口調に棘はなかった。だけど、静かに刺さった。
その夜、帰路の道で、言葉が溢れた。
「私……、間違ってましたか?」
「間違いじゃない。ただ、擦り減らすのが早すぎるだけだ」
香雪さんは歩みを止めず、前だけを見たまま言う。
「――おまえは、“守る”という言葉を、履き違えている」
風が、ふたりのあいだを抜けていく。
その言葉は、ぴたりと胸に貼りついて離れなかった。
帰路をたどり終え、私たちは道場に居た。
優しく在ろうとしてる。守ろうとしている。でも、それができない。
すべてを、見抜かれた。自分でもわかっていた。
それでいてなお、香雪さんは私を責めなかった。その優しさが、痛すぎた。
吐き気がするほどの後悔。
あのとき、自分がもっと早く動けていたら。命令に縛られず、香雪さんの判断を信じていたら。
傷つく人は少なかったはずだ。怪異は、人ではなかったけれど、あの少女は助かったけれど、それでも。
「……結局、私はまた、守れなかった」
自嘲するように呟いた声が、空気に吸い込まれていく。道場の木の床には、訓練の痕跡がまだ生々しく残っている。乾いた汗と、踏み込みで浮いた細かな木屑。あの場所で、香雪さんに打ち込まれた太刀筋が、まだ目に焼きついている。
「誰かを守るって、そう簡単じゃないんだな……」
剣に生きる者として、斬るべきものとそうでないものの境界線を、まだ曖昧なままにしている自分が、怖かった。正義のために戦うはずだったのに、その“正義”が何なのか、自信を持てなくなっていた。
香雪さんは、壁にもたれていた。
「なにをひとりで決めて、ひとりで潰れている」
静かな声だった。でも、その言葉には、不思議な温度があった。責めるのでもなく、甘やかすのでもない。ただ、そこに“わたし”として立っている香雪さんの声。
「おまえの“守る”は、そんなにも自分を削らなければできないのか」
私が顔を上げると、香雪さんは真っすぐこちらを見ていた。剣を握っているときの、それと変わらぬ眼差しで。
「守るという言葉は、おまえが傷だらけで吐くものじゃない」
その一言が、胸に突き刺さった。
“正義”や“使命”という言葉の影に、自分を隠していた。痛みも、不安も、誰にも見せずに背負っていれば、それでいいと思っていた。でも香雪さんは、それを「違う」と言ってくれた。
それは命令でも教本でもない。香雪さん自身の言葉で、想いで、そう言ってくれた。
「……でも、そうしなきゃ、私、誰も守れないと思ってた」
声が震える。
香雪さんはゆっくり近づいてきて、手に持っていた布巾を放るように私に投げた。
「まずは顔を洗え。泣いた顔で人を守るなぞおかしい」
それはあまりに真っ直ぐで、真顔で言われたものだから、反射的に笑ってしまった。
少しだけ、肩の力が抜ける。
香雪さんは、誰かの背中を追っているわけでも、義務感で動いているわけでもない。ただ、そう“在りたい”と願って剣を握っている。それが、まぶしかった。
そして、羨ましかった。
「……じゃあ、洗ってきますけど。今のセリフ、ちょっとズルいですよ」
「ズルいも何も、事実だ」
香雪さんはくすりと笑んで言った。その声の奥には、どこか優しさがあった。
香雪さんの太刀筋は緩やかだった。
まるで、私の未熟な歩調に合わせるかのように、ぴたりと距離を保ちながら、淡々と木刀を運ぶ。
それが余計に、悔しかった。
負けたくない。
あのときの自分にも。
この人の過去にも。
何より、今の香雪さんにすら、置いていかれたくなかった。
けれど、焦りで刃を振るえば振るほど、かつての自分が遠のいていく気がした。
「……どうして、そんなふうに戦えるんですか」
不意にこぼれた声に、自分でも驚いた。試合中だというのに、香雪さんの足が止まる。
その間を縫うように、言葉がこぼれた。
「“痛みを斬る”のが、あなたのやり方ですか……? 私には、そんなふうには、できない」
香雪はゆっくりと木刀を下ろすと、わたしを見据えた。
「――“守る”という言葉は、捨て身の覚悟を持つことではない」
その声は、ひどく静かで、ひどく優しかった。
「傷つかないように、守るんだ。おまえ自身を、まず」
時間が、止まったような気がした。
「悲劇的な献身で、誰かを救えると思うな」
その言葉は、幼い頃に抱いた憧れよりもずっと深く、鋭く、わたしの胸を抉った。
わたしは、ずっとそうしていたと思っていた。
誰かを守るためなら、自分が傷ついても構わないと。
そのために斬り、従い、命令を遂行してきた。
でも――。
「それじゃ、私の斬り方は、間違ってるって……?」
香雪さんは答えなかった。ただ、木刀を持ち直し、すうっと構えた。
言葉で否定しない。
けれど、その瞳がすべてを物語っていた。
守るための剣は、ただ強ければいいんじゃない。
誰かの痛みを斬る前に、自分自身が痛みに耐えていることにすら気づいていない――そんな剣では、きっと、誰も救えない。
わたしは黙って構え直した。
香雪さんの剣に、追いつくために。
香雪さんの構えは、これまでと同じ――はずだった。
けれど、私の肌が、真っ先に“違う”と察知していた。
「……行くぞ」
瞬間、風が変わった。
香雪さんの気配が、静かに、鋭く、殺気を帯びていく。
「打ち込む。守ってみせろ、自分を」
その言葉と同時に、木刀が空を裂いた。
迷いのない太刀筋。
今までの、私に合わせてくれていた“優しさ”が完全に消えていた。
香雪さんは今、“斬りにきている”。
「っ、く……!」
咄嗟に木刀を上段で受けた。その衝撃だけで、足元がきしむ。
腕が痺れた。受けただけなのに、全身の体重を持っていかれるほどの圧。
香雪さんは、もう次の一手に入っていた。
二の太刀、三の太刀。
踏み込みと共に、鋭い連打が畳みかけてくる。
受けることはできる。でも、捌ききれない。攻めに転じる隙がない。
わたしの中にあった「香雪さんは優しい」なんて幻想が、木刀の一撃ごとに粉々に打ち砕かれていく。
しかも、きっとこれは全力ではない。だって初めて会ったときも、その次も、この人は“刀身”を見せることもなく怪異を斬った。
この程度の速さ、絶対本気じゃない。“斬る”気でいるのに、それでも私が反応できるぎりぎりのラインを保っている。
それがわかる。わかってしまう。――悔しい。“守ってみせろ”と言われてなお、手加減されている自分が、ひどく矮小に見えた。
「守るという言葉はな」
淡々と、香雪さんが言葉を重ねる。
「甘さや情で叫ぶものではない。覚悟と技術を伴った、生き様の話だ」
木刀が振るわれるたび、言葉が斬りつけるように重なる。
「それを履き違えたまま、振るえるほど軽いものではない」
香雪さんの目が、真正面からわたしを見据える。
その視線は、憐れみでも侮蔑でもなかった。ただ、真剣だった。
――私の“守る”を、まっすぐ問うていた。
「そんな、おまえの剣で……誰が救われる?」
刹那、重心を崩された。
最後の一太刀。踏み込みと共に振るわれた一閃が、私の木刀をはじき飛ばす。
打突の瞬間、空気を切り裂くような風音と共に、腹の中心に鈍い衝撃が走った。
体がきしむ。膝が落ちる。床に、両手をついてしまった。
「……はぁ、っ、……」
荒く息を吐いた。汗が背中を流れる。喉が焼けるように熱い。
そして、香雪さんの声が降ってきた。
「まだ――おまえに“守る”という言葉は、重すぎる」
それは、否定ではなかった。突き放すような響きでもない。
ただ、現実だった。
事実として、私の今の剣では“守れない”。
自分ひとりをも守り切れない未熟さを、香雪さんは“試合”の中で、全て伝えてきた。
「……でも」
私は、うつむいたまま答える。
「それでも、私は……誰かを、守れるようになりたいんです」
声は震えていた。でも、言葉には、芯があった。
香雪さんは、ふっと、わずかに目を細めた。
「なら、斬り方を変えろ」
短く、それだけを言って、香雪さんは背を向けた。
その背中はどこまでもまっすぐで、そして、あたたかかった。
わたしは床に座り込んだまま、その背を見ていた。
痛みと、悔しさと、誓いのような感情が胸の奥で混ざり合って、ひどく熱を持っていた。
――負けた。でも、終わりじゃない。
あの背中に、きっと、追いつける。
“守る”という言葉の意味を、本当の意味で掴むまでは、何度だって立ち上がる。
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