新吉原の珠吉は三尾の化け猫と明け暮らす
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
「また遊女がやられたって話だぞ」
「元吉原か?」
「いいや、今度は新吉原のほうだ」
「元吉原で五人、新吉原はこれで三人目か」
「こりゃあ帝都に鬼が現れたって噂も本当かも知れねぇなぁ」
「おいおい、このご時世に鬼ってこたァねぇだろう。汽車も走ってりゃ車も走る。夜道だってガス燈で煌々と照らされてるんだ。鬼も
妓楼の前で下働きの男たちが新聞を読みながらそんな話をしている。それを横目で見ながら建物の中に入った少女は、着物の裾をポンとはたいてから草履を脱ぎ勝手知ったる様子で奥へと進んだ。
「
見た目は年若い少女にしか見えないのに、つぶやく声は少し低く内容もやけに大人びている。若いのに古風な着物というのも珍しく、昨今流行りの文明開化の匂いは一切しなかった。それもそのはずで、ここは帝都ながら古い文化を色濃く残す遊郭だからだ。出歩く男は洋装姿が増え和服にコートといった和洋折衷が多いものの、女に着物姿が多いのは遊郭ならではといったところだろう。
緑色が鮮やかな着物に山吹色の帯をした少女が階段をトントンと上り、奥から二番目の部屋の障子をすいっと開けた。
「葵姐さん、買ってきたよ」
「あら
「
そう言いながら、珠吉と呼ばれた少女が葵という名の遊女に棒状の紅入れを差し出した。これは最近女たちに人気の洋風紅で、遊女たちも好んで使っている。
「それから、こっちは釣り銭」
「あぁ、それはお駄賃で取っておきなよ」
「お駄賃にしては多いと思うんだけど……」
手のひらに載せた銭を見る珠吉に、背後から「お駄賃だというんだから、喜んで受け取っておきなさいな」という声がした。珠吉が振り返ると、化粧を落としてもなお美しい顔をした女が立っている。
立ち姿まで美しいその女は名を伊勢太夫といった。新吉原の牡丹楼といえば伊勢太夫と言われるくらいの一番人気で、年は二十三と若いながら老舗を背負っている風格のようなものが漂っている。さらに気っ風のよさから遊女や
「太夫姐さん」
「葵は最近、品川から通う太いお客様ができたのよ。先週もたんまり金子を落としてくれたっていうんだから、素直にもらっておきなさいな」
「そうそう。珠吉は禿じゃないし遊女にもならないんだから、こうしたお駄賃をうんと貯めておかなきゃ」
「ということで、次はあたしのお使いも頼めるかねぇ」
そう言って伊勢太夫がお札を一枚取り出し珠吉に手に載せる。見れば流行りの紅を何本も変えるほどの金額だ。思わず珠吉が「えぇ?」と口元を引きつらせると、「それでエクレエルを買ってきておくれ」と太夫が口にした。
「今日は門前町に臨時の洋菓子屋が建つそうなのよ。そこで五つ買ってきてくれないかい? 釣り銭はお駄賃にしていいからね」
「いやいや、いくら洋菓子と言ってもさすがに多すぎますって。これじゃお駄賃でさっきの紅が買えてしまう」
「それでおまえも好きなものをお買いよ。余るようなら茶々丸においしいお魚でも買っておやり」
伊勢太夫の言葉に「にゃぁん」という猫なで声が重なった。視線を向けると太夫の足元に真っ黒な猫が座っている。
「……おまえ」
「にゃぁん」
睨むように目を細めた珠吉に、なおも黒猫の茶々丸が猫なで声を上げた。
「ほぅら、茶々丸もお魚がほしいと鳴いているじゃあないの。さぁ、行っておいで」
納得がいかない顔をしながらも珠吉が立ち上がると、さぁ行くぞと言わんばかりに茶々丸が近づいて来た。機嫌がよさそうにゆらゆらと揺れる長い尻尾は三本で、それを見た珠吉は「この猫かぶりが」と心の中で舌打ちする。
『猫かぶりはおまえも一緒だろう?』
不意に聞こえて来た低い声に、今度こそ睨むような眼差しを茶々丸に向けた。そんな珠吉を気にすることなく艶やかな尻尾を揺らしながら茶々丸が部屋を出て行く。それに小さくため息をつきながら伊勢太夫にぺこりと頭を下げると、「太夫姐さん、では行ってきます」と部屋を出た。
「気をつけるんだよ」
背中に届く声に「はぁい」と返事をし、階段の前で待っている茶々丸をひと睨みしてから一階に下りていく。そうして奥にいる妓楼の主人に「お使いに行ってきまぁす」と声をかけ、草履を履いて店の外に出た。店先で話をしていた男たちはどやされたのかいなくなっており、痕跡を残すように縁台に男たちが読んでいた新聞が残されていた。珠吉が目を向けると「遊女が何ものかに殺害される」という見出しが大きく躍っている。
「物騒な世の中だよね」
『また遊女か』
縁台に飛び乗った茶々丸が見出しを前脚でひと撫でした。
「化粧屋の奥で客を取ってたって話だから、妓楼に入ってない人だと思うよ」
『辻で待っているときに狙われたってことか』
「たぶんね」
『帝都も京の都のように随分と物騒になったもんだな』
「京の都って、そんなに物騒だったの?」
『幕末の戦で随分荒廃したんだ。そのうえ帝が東に住まいを移すって話で
「それじゃあ帝都は住みづらそうだね」
『さぁて、そうとも限らない』
茶々丸の言葉に珠吉が眉をひそめる。
「もしかして茶々丸、遊女殺しは妖の仕業だと思ってる?」
『物騒なのは何も妖だけじゃないと思うがな』
茶々丸の言葉に珠吉は返事をしなかった。思わず口を突いて出た「妖よりも人のほうがよほど怖いと思うけどね」とつぶやいたことを思い返し、似たようなことを茶々丸に言われるなんてと複雑な気持ちになる。
(妖にまで物騒がられるなんて、帝都もとんでもない場所になったなぁ)
茶々丸は三本の尻尾を持つ化け猫で、京の都に住んでいたときもあるそうだ。普段はこうしてただの黒猫の姿をしているが、実体は化け猫らしく犬よりずっと大きな体をしている。こうして猫らしい体になっているときも尻尾は三本のままだというのに、珠吉以外の人間には一本に見えるらしい。茶々丸とすれ違う猫の中には「フーッ」と毛を逆立てるものもいるが、人間で茶々丸を訝しむ者は一人もいなかった。
「化け物が闊歩する帝都だなんて、ほんと物騒になった」
『おいおい、妖をただの化け物扱いしてもらっては困るな』
縁台から飛び降りた茶々丸が、黒いしなやかな尻尾で珠吉の足を叩く。
『我ら妖は無意味に人の命を奪ったりしない。大抵は人が我らに手を出した結果だ。ろくでもない願いをした報いを受けるのは当然だろう?』
「いまどきの帝都で妖に願い事をする人なんているかなぁ。……ってことは、遊女殺しは妖の仕業じゃないってこと?」
『その遊女らが妖に何かを願ったのでなければな。少なくとも新吉原近辺に犬の匂いはしないから、犬神の仕業ということはないだろう』
「犬神かぁ」
犬神は名前に神とついているが立派な妖だ。しかも人を呪うために人が生み出す厄介な存在で、同じ妖たちにも煙たがられている。もしいまの帝都に妖が現れるとすれば人が生み出したもののほうが可能性が高い。
しかし珠吉は、この帝都にもそうでない妖がわんさかいることをよく知っていた。人の強い思いが澱む新吉原でも見かけるが、それより数が多いのが大門を出た先のほうだ。異国人がやって来るようになった帝都は、いまや世界に誇る大都市になった。一見すると華やかに見えるものの、その影は侍の都だったときよりも色濃くなっている。
『恨みつらみは大いに増え、おかしなまじないに縋る人たちも増えた。帝都に新しい妖が現れてもおかしくはない』
「わかってる」
遊郭の片隅でもまじないを生業にする者たちがちらほらいた。お使いであちこちに行く珠吉は、最近そうした輩が増えたことにうんざりしていた。とくに怪しいものを売りつける人が多く、そこで売り買いされる筆頭が呪いの人形や五寸釘で、中には名を刻めば呪い殺せるという
犬神は昔から強力な
『最近はレンガや石畳の道も増えているが、帝都にもまだまだ土の地面は残っている。とくに神社仏閣は敷地も広くほとんどが昔のまま土の地面だ。そうした有名どころに犬の頭を埋めておけば大勢が踏んでくれる。そういった場所なら一週間ほどで犬神が完成するというわけだ』
茶々丸の声に珠吉が眉をひそめた。新吉原の辺りも土のままの場所が多い。昔ながらの風情を好む客が多いこともあるが、妓楼の主人たちが「新吉原がハイカラになる必要はない」と言って石畳やガス燈をよしとしないからだ。
そういう意味では新吉原辺りも犬神を生み出すのに最適な場所と言えるかもしれない。新吉原の近くには参拝者が多く集まる大きな寺社がたくさんあるため、そこで生み出すこともできる。そもそも新吉原自体が人の恨みつらみを集めやすい場所でもあった。
大門をくぐりながら「もしかしてこの辺りにも犬の頭が埋まっていたりして」と想像した珠吉が顔をしかめる。
「胸糞が悪くなることを言わないでくれる?」
『だから犬神じゃないと言っただろう?』
「本当に?」
『少なくともこの鼻には犬っころの匂いなんて……おぉ、この匂いは鰻じゃないか!』
足元を歩いていた茶々丸が尻尾をピンと伸ばしながらトトトと鰻屋のほうに歩き始めた。ほかの人には見えないだろうが、尻尾が三本とも興奮で小刻みに震えている。
『なぁ、駄賃で鰻を買おう』
「駄目。太夫姐さんのお使いが先だからね。そうしないとお駄賃がいくらになるかわからないでしょ」
『よしわかった。早くエクレエルを買いに行くぞ』
「ちょっと、茶々丸……!」
珠吉の声が聞こえないのか、賑やかな門前町を黒猫が足早に歩いて行く。それを買い物客たちが「おっと」と言いながら慌てて避けていた。
(あの食いしん坊化け猫が)
茶々丸は化け猫だというのに鰻が好物だった。次に好きなのが肉鍋で、猫舌なんて忘れたかのように出来立ての熱々をうまそうに食べる。しまいには豆大福だの煎餅だのまで食べる始末だ。
(あれで元は猫だったなんて絶対に嘘だ)
化け猫は猫が
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