第四段

第17話 突破口

 蛇女の制御訓練が始まって一週間が経過した。

 一日一度、合わせて七回ほど邪神に立ち向かったがいまだ進展はなく、やはり意識を保つことはできていなかった。


「あともう少しで倒せそうなのに……」

「うーん、こればっかりはボクもどうアドバイスすればええかわからへんから、何ともゆえんわ」


 蓮夜の部屋で彼の修練を見守りながら、桜夜と伊織は言葉を交える。いま佳弥は御不浄に出ており、代わりに桜夜たちが蓮夜の面倒を見ていた。


「姉ちゃん、見て!」


 蓮夜の手には〈水牙〉と同質の短剣があった。凄まじい成長速度で神力操作を会得していく弟に姉は目を細める。その一方であの日から何も変わっていない自分自身が歯痒く、不甲斐なかった。惨めな思いがおりのように蓄積されていき、焦りばかりが募っていく。


 ――いつ沈丁花が攻めてきてもおかしくないというのに。


 桜夜が拳を握りしめていると、ぽんと肩に柔らかい衝撃が走った。


「焦ったってしょうがないわ。思い詰めるぶんだけ余計に壁が高くなるだけやで」

「伊織」

「あともうちょっとって桜夜ちゃんも思ってるんやろ? 少なくとも、最初の頃より成長してるってことやん」

「そう、だろうか」

「そうそう。下ばっかり向いてんと、前向いて大きく息吸い。気分も明るなるから」

「……」

「ん? どうしたん?」

「いや、お前にしては珍しくまともなことを言っているなと」

「それが仮にも上司に対して言う台詞?」


 伊織はおかしそうにころころと笑ってから、神妙な光をたたえた濃紫の双眸で桜夜を見据える。


「話変わるけど、邪神に弱点ってないん?」

「弱点?」

「桜夜ちゃんと邪神の力って拮抗してるんやろ。やから邪神の弱点とか意表を突くようなことを桜夜ちゃんが仕掛ければ勝ち目が見えてくるんとちゃうかなあって」


 桜夜は思案顔になってこれまでの交戦を回顧する。


「ボクが桜夜ちゃんの立場やったら、まずは相手の特徴とか癖を把握するけどな。それさえ掴めれば、自然と弱点が見えてくるもんやし」


 伊織の助言をもとに邪神の動きを脳内で何度も再生させる。

 桜夜が斬りかかる前に、邪神は必ずこちらへ猛進してきていた。その攻勢は最速の神技〈懸河〉を彷彿とさせる。


 ――〈懸河〉は速度に特化した神技。相手が私以上の速さを持たない限り、避けるのは不可能。


 もしかわすことを諦めて真っ向から迎撃するとなれば、これもまた自分自身の剣速以上に素早く武器を振るう必要がある。


 ――〈懸河〉に勝る剣速……。


 桜夜の脳裏にとある父の神技が閃いた。


「抜刀術……!」

「抜刀術?」


 鸚鵡返しした伊織に桜夜は「ああ」と首肯する。


「戦いが始まると、邪神は必ず私に向かって突進してくる。開戦時だけじゃなく、その後何回も真っ直ぐこちらへ爪と牙を伸ばしてきた。その直進的で急激な動作は〈懸河〉とまったく同じだ」

「なるほど。やから抜刀術か。確かにあの剣術は一撃必殺。正面から向かってくる敵を最速で迎撃するからすぐに決着つけられる。でも、桜夜ちゃん抜刀術の心得とかあんの?」

「いや、父がやっていたのを何度か見たことがあるだけで、本格的には習っていない。見様見真似でしかやったことがないから、実戦では使わずにそのまま忘れてしまっていた」


 初めてその神技を見た時、美しいと思った。

 刹那の間に水刃が閃いては白群の飛沫が踊り散る。敵の身から弾けた血潮と清冽な水沫の対照が鮮やかで、酷薄な光景でありながらも当時は目を奪われたものだ。ああ、こんなにも静謐で美しい殺め方があるのかと。


 かの神技の名は〈鯉跳こいはね〉。読んで字のごとく、水中にいる鯉が水面を弾かせては空を舞い、刹那の浮遊の後に入水する様子からそう呼ばれている。水中を鞘、跳ねる鯉を刃に見立てて風流な神技名になったのだと柳夜は教えてくれた。


「〈鯉跳〉を会得すれば、邪神を討つことができるかもしれない」

「その〈鯉跳〉っていうのが、お父さんがやってた抜刀術?」


 桜夜が頷くのを見て、伊織は「ふむふむ」と顎に手を添える。


「じゃあまずは〈鯉跳〉ができるようにせなあかんな。試しに外出てやってみる?」

「そうだな」


 桜夜は蓮夜に歩み寄り、佳弥が戻り次第、退室することを伝えた。


「そういえば佳弥ちゃん、えらい戻ってくるの遅いなあ」


 伊織は目を眇め、神妙な声音で呟いては窓から垣間見える春陰の空を見上げた。

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