第12話
監視官の男の姿はもう完全に見えなくなってからも、私たちはしばらく、その場から一歩も動けずにいた。
どうにか窮地は脱したけれど、これで私たちの行動は、完全に学園の上層部に知られてしまった。
安堵よりも、これからどうなってしまうのだろうという、冷たく重たい不安が私の体全体をゆっくりと覆っていく。
もう、後戻りはできないのだ。
彼の話がいつまで通用するのか、私には分からなかった。
ナイトレイ公爵家の権威と、王家の許可。その言葉の響きは確かで、一介の教師に過ぎない監視官を退けるには十分すぎるほどの威力があった。
けれど、学園長という、あの底の知れない人物が、その言葉を鵜呑みにするとは思えなかった。
きっと、今この瞬間にも、監視官からの報告が学園長のもとへ届き、次の一手が打たれようとしているに違いない。
「……これから、どうしましょう」
私の声は、自分でも驚くほどか細く、夕暮れの静かな空気に溶けてしまいそうだった。
ノアキス様は、監視官が消えた方角をじっと見据えたまま、何も答えなかった。その美しい横顔は、彫像のように静かで、何を考えているのか読み取ることはできない。けれど、その全身から放たれる、張り詰めた糸のような緊張感だけが、この状況の深刻さを雄弁に物語っていた。
「証拠が、あまりにも不十分すぎる」
やがて、彼が静かに口を開いた。
「あの遺跡で見た壁画も、石版も、学園側はいくらでも言い逃れができる。古代の遺物に描かれた、解読の難しい絵と文字。ただの迷信か、あるいは、何者かによる捏造だと主張されれば、それまでだ」
彼の言葉は、冷静で、的確だった。私の心のどこかにあった、かすかな希望――あの遺跡の存在を公にすれば、全てが解決するのではないかという、甘い考えを、容赦なく打ち砕いていく。
「王家に直接、訴え出ることは……」
「無駄だろうな」
彼は、私の言葉を遮るように、静かに首を横に振った。
「王家の中枢にまで、学園長の手が伸びていないとは限らない。むしろ、これだけの長きにわたって、この非道なシステムが維持されてきたことを考えれば、王家の一部も、この件を黙認、あるいは、積極的に加担していたと考える方が自然だ。下手に動けば、俺たちは、真相が公になる前に、秘密裏に消されるだけだ」
貴族社会の暗部を知る彼だからこその、現実的な分析。その言葉の一つ一つが、冷たい楔となって、私の思考に打ち込まれていく。私たちは、巨大な組織が何百年もの間、ひた隠しにしてきた罪の核心に触れてしまったのだ。その相手は、私たちが想像するよりも、ずっと大きく、そして根深い。
夕暮れの光が、森の木々の隙間から、斜めに差し込んでいる。その淡い光条が、彼の黒髪を縁取り、その輪郭を曖昧にしていた。彼の背負うものの重さを思うと、私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるようだった。最愛の妹君を奪われ、その真相を突き止めるために、たった一人でこの絶望的な戦いに身を投じてきた彼。その彼の重荷を、ほんの少しでも、私が共に背負うことはできないのだろうか。
「私に……何か、できることはありませんか」
私は、自分の無力さを噛み締めながら、そう尋ねた。攻撃魔法は使えず、戦闘では彼の足手まといになるばかり。私の唯一の取り柄である薬草学の知識も、この巨大な陰謀の前では、あまりにも、か弱く思えた。
彼は、ゆっくりと、こちらを振り返った。その紺碧の瞳が、私をまっすぐに見つめている。その瞳には、憐れみや、失望の色はなかった。代わりにあったのは、これまで見たこともないほど、深く、そして穏やかな信頼の光。
「お前は、もう十分にやってくれている」
その静かな一言が、私の心の奥深くに、じんわりと染み渡っていく。
「お前がいなければ、俺は、あのゴーレムに勝てなかった。お前がいなければ、俺は、とっくの昔に、あの泉で命を落としていた。……そして、お前がいなければ、俺は、今も、ただの復讐心に駆られた、空っぽの人間だっただろう」
「ノアキス様……」
「お前は、足手まといなどではない。お前は、俺の、唯一のパートナーだ。だから、何も心配するな。俺が、必ず、お前を守る」
その言葉は、力強く、そして、どこまでも優しかった。彼の不器用な、けれど、心の底からの言葉が、私の不安を、少しずつ溶かしていく。そうだ。私は、もう、一人ではない。彼も、一人ではない。私たちは、二人で一つなのだ。
そう思った瞬間、私の心の中に、確かな熱が灯った。もう、ただ守られるだけの私ではない。この人の隣で、共に未来を切り拓くのだ。
「いいえ。私も、貴方を守ります」
私は、彼の目を、まっすぐに見つめ返して言った。自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「貴方が剣で道を切り拓くのなら、私は、その道を照らす明かりになります。貴方が闇に飲み込まれそうになったら、私が、その手を掴んで、引き上げます。だから……だから、もう、一人で背負おうとしないでください」
私の言葉に、彼は、少しだけ、目を見開いた。そして、やがて、その唇の端に、ほんのかすかな、穏やかな線が浮かんだ。それは、彼が私に初めて見せてくれた、本当の笑顔に、よく似ていた。
彼が何かを言い返そうとした、まさにその時だった。
私たちの頭上から、ひゅるり、と空気を切るような音がして、何かが高速で、こちらに向かってくるのが見えた。咄嗟に身構える彼の隣で私は、それが何かをすぐに理解した。
学園の紋章が刻まれた、鳥の形をした魔道具。連絡用の、使い魔だ。
まるで、監視官の報告を受けて即座に行動を起こしたかのように、それは私たち二人だけを、明確な意思を持って探し出してきたのだ。
彼が、無言のまま、その魔道具に手を伸ばす。彼の指先が、その冷たい金属に触れた瞬間、目の前の空間に冷然とした光の文字が、一つ、また一つと、浮かび上がってきた。
『ノアキス・ナイトレイ、ルティアナ・メイフィールドに告ぐ』
私たち二人だけの、名前。その事実が、これが学園長からの直接の通達であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
『明日の正午までに、禁忌の遺跡にある『始祖の祭壇』へ出頭せよ』
禁忌の遺跡。始祖の祭壇。その言葉が、私の思考を強く打ち付けた。私たちが発見した、あの場所のことだ。学園は、あの遺跡の存在も、そして、その中にある祭壇のことも、全て把握していたのだ。そして、私たちを、そこへ呼び出している。
『そこで、貴様たちの最終処分を決定する』
最後の言葉が、揺るぎない輝きを放って、宙に固定される。
最終処分。
その言葉が持つ、不吉で、決定的な響きを、私は悟らずにはいられなかった。これは、罠だ。私たちを呼び出し、あの場所で、秘密裏に消し去ろうとしているのだ。
だとすれば、もはやこれは警告などではない。学園長からの明確な挑戦状だった。真相に近づきすぎた私たちを、白昼堂々と、儀式の舞台へと引きずり出し、これまでの犠牲者たちと同じ運命を辿らせるという、冷酷な宣告。
恐ろしさに、全身から血の気が引いていくのを感じた。足元が、まるで柔らかな砂のように、頼りなく崩れていくような感覚。逃げたい。今すぐ、ここから、どこか遠くへ。そんな、本能的な叫びが、私の内側から湧き上がってくる。
けれど、私は、隣に立つ彼の姿を見て、その弱い心を、叱咤した。
彼の横顔は静かだった。けれど、その紺碧の瞳の奥では、地獄の業火にも似た、凄まじい怒りの炎が燃え上がっているのが、はっきりと見えた。それは恐怖を焼き尽くし、憎しみを昇華させた、純粋な闘志の輝きだった。
彼は、この挑戦を受けて立つのだ。最愛の妹君が、その命と尊厳を奪われた、因縁の地で、全ての決着をつけるために。
「行くぞ、ルティ」
彼の声は、凪いだ湖面のように、静かだった。
「ええ」
私も力強く頷いた。もう迷いはない。彼が戦うと決めたのなら、私も、その隣で、最後まで戦い抜く。それが彼のパートナーである、私の覚悟だった。
私たちは、互いの顔を見合わせ、無言のまま、頷きあった。
光の文字が、ゆっくりとその輝きを失う。すると、魔道具の鳥は、音もなく空へと舞い上がり、学園の方角へと消えていった。
後に残されたのは、重苦しい静寂と、私たちの、揺るぎない決意だけだった。
私たちは、最後の戦いに備えて、洞窟で短い休息を取ることにした。
焚き火の穏やかな光が、洞窟の壁を、暖かく照らし出す。パチパチと薪がはぜる音だけが、静かに、私たちの間に流れていた。
私は、鞄の中の薬草を整理し、彼を治療した『癒しの軟膏』の残りを、もう一度、丁寧に練り直す。彼もまた自分の剣の手入れをしながら、明日の戦いに向けて、精神を集中させているようだった。
会話はなかった。けれど、その沈黙は、少しも、苦痛ではなかった。互いの存在を、すぐそばに感じていられる。それだけで、私の心は、不思議なほどに、満たされていた。
夜が明け、私たちは、再び、あの遺跡へと向かった。
一度通った道。けれど、今、この道は、全く違う意味を持っていた。それは、ただの古びた通路ではない。私たちの運命を、そして、この学園の未来を決定づける、最後の戦いの舞台へと続く道なのだ。
私たちは、あの隠し通路を抜け、壁画の並ぶ、広大な回廊へと、足を踏み入れた。
そして、あのゴーレムを打ち破った、円形の広間を通り過ぎ、その奥にある、祭壇へと続く、最後の通路へと、歩を進める。
通路を抜けた先、そこは、以前来た時と、何も変わらない、不気味な静寂に満ちていた。
中央に鎮座する、黒曜石の祭壇。その表面に刻まれた、禍々しい魔法陣。この場所が、数多の悲劇を生み出してきた元凶。
けれど、以前と、一つだけ、違うことがあった。
祭壇へと向かう道筋。その両脇にいくつもの青白い炎が、ゆらゆらと灯っていたのだ。それは、まるで私たちを、儀式の舞台へと導く、道しるべのようだった。
私たちは、その炎に導かれるようにして、一歩、また一歩と、祭壇へと近づいていく。
道中、何度か、森の魔獣に襲われた。けれど、もう、私たちの敵ではなかった。
私が、地面に張り巡らされた植物の根を操り、魔獣たちの動きを、一瞬だけ、封じ込める。その、コンマ数秒の隙を、彼は決して見逃さない。彼の放つ風の刃が、魔獣たちの急所を、的確に、しかし命を奪わぬように、浅く傷つけていく。
その連携は、もはや芸術の域に達していた。私たちは、まるで、一つの生き物であるかのように、互いの思考を読み、次の動きを予測し、完璧な調和の中で戦っていた。
やがて、私たちは、祭壇のすぐ手前まで、たどり着いた。
正午まで、まだ少しだけ、時間がある。
私たちは、最後の戦いを前に互いの顔を見つめ合った。
「……怖いか?」
彼が、私の心を見透かしたように尋ねた。
「……少しだけ」
私は、正直に、答えた。
「ですが、貴方が、隣にいてくださるなら、大丈夫です」
彼は、私の言葉を聞いて、そっと私の手を握った。そのごつごつとした、けれど、大きな手はいつもと変わらず、温かかった。
「俺もだ。お前が、隣にいてくれるから、戦える」
その一言が、私の心にあった恐怖を完全に拭い去ってくれた。
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