五、


 ──二〇二四年、九月十九日、金曜


 今日もサボろうと思っていたのに、私は今、学校にいる。意味もなく朝早くに登校し、教室で一人、窓の外を眺めていた。

 ──今日はうち来る?

 モカさんから届いたメッセージに、既読だけ付けて返せずにいる。今すぐモカさんのところへ行きたい。今日は私が、モカさんをめちゃくちゃにしたい。昨日モカさんの指で、舌で、めちゃくちゃに乱れた私のように、モカさんを。何かを壊したくて、壊れたくて、苦しい。

 ──あなたが優里ちゃん?

 粘つくように思い出された、ミホさんの声。春陽が、親戚のお姉さんだと言った相手。

 ──……はい。サンダル、ありがとうございますミホさん。

 ──それ、あげるわ。

 ──いえ、ちゃんと返します。

 ──人が履いたの、いらないの。じゃ、これからハル君とご飯だから。

 甘ったるい香水の匂いと、化粧品の匂い。下着が見えそうなくらい短いスカートの、ぴったりと体に張り付いたワンピース。男の視線を誘う開け放たれた胸の谷間に、ちゃらちゃらと耳障りな装飾品の音。

 絶対に、親戚のお姉さんなんかじゃない。春陽の肩に触れた手が、そう主張しているように見えた。唇を噛んで、俯いていた春陽。けれど「本当に春陽の親戚ですか?」の声は出せなかった。言ってはいけない、そう、思った。

 見送った車の中、ミホさんが助手席に顔を寄せるのが見えた。赤いブレーキランプが灯り、停まった車の中──

 たぶん、キスをした。

 あれは誰? 恋人? でも、年がかなり離れているように見えた。ミホさんは見た感じ、三十代。悔しいけど、すごく綺麗な人だった。私にはない、すべてを持っているように見えた。お金も、色気も、自信も、すべてを。

 ──それ、あげるわ。

 ──人が履いたの、いらないの。

 まるで汚物を見るように、私を見ていた。

 ──じゃ、これからハル君とご飯だから。

 ハル君。

 恋人を呼ぶように、甘く囁いた春陽の名前。

 なんで春陽は私に嘘を吐いたの? 恋人がいるなら、そう言ってよ。でも、春陽の顔は苦しそうだった。泣きそうだった。幼い頃に見た、弱々しい泣き顔に見えた。

 キス、してた。あの雰囲気は、たぶんご飯のあとでセックスも──

 そう考えた瞬間、自分の汚さに吐きそうになった。私はいつから、すぐにセックスと結びつけるようになったのだろうか。手を繋いで、キスして、それを想像するだけで胸がどきどきしていた私はどこにいったのだろうか。

 男と女。

 セックス。

 短絡的にそう思ってしまう。

 ──セックスしちまえよー。

 モカさんの笑い声が、耳の奥で響く。モカさんと同じだと思って安心していた。それは結局、堕ちた先でのた打つ私たちの、醜い笑い。

 だめだ、吐きそう。息が、できない。モカさんの、モカさんの所へ行けば──

 呼吸が、できる。

「うわっ」

 そんな声が聞こえて振り返ると、クラスメイトが一人、教室へと入ってきた。誰、だっけ?

 そっか、誰とも関わらないようにしていたから、名前を知らない人だ。名前を知らないクラスメイトが、汚いものを見るように私を見て、静かに席に着いた。大丈夫。あの視線も、この空気も、もう慣れた。前より少し、息が苦しいだけ。

 ──おはよー!

 ──なんで早川が?

 ──意味わかんない。怖くない?

 ──最悪。

 時間の経過とともに、私の背中に言葉が刺さる。昨日まで耐えられていたはずなのに、なんだか今日は痛い。もしかして、モカさんのところで呼吸ができるようになったからだろうか。春陽にセックスする相手がいると知ったからだろうか。前よりも、居場所がない。

 私はなんで、ここにいるのだろう。黙って、モカさんの所へ行けばよかったのに。モカさんのことを好きなわけじゃない。でも息ができる場所。けれど、だけど、春陽の顔が見たい。聞きたい。昨日の女の人は? 彼女? 親戚のお姉さんじゃないよね? キスしてたよね? セックスしたの? 愛があるセックス? それともおじさんたちみたいなセックスがしたいセックス? ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇっ!

 頭がおかしくなり、そう。本当に、息ができ、ない。喉がひ、ひ、と痙攣したような音を出す。

 ──うわっ! 早川が震えだした!

 ──えっ! なに? キモいんだけど。

 ──げっ! 吐いた!

 ごめん。苦しい。誰か、誰か助けて。苦しいの。息ができないの。吐いてごめん。怖がらせてごめん。でもお願い。誰か、助け──


―――


 頭が、朦朧とする。

 重い瞼を上げた先、眩しい蛍光灯と淡いピンクのカーテン。ベッドがぎしりと軋み、なんでこんなところにいるのかが分からない。

 私、なに、してたんだっけ。モカさんに会いたくて、でも春陽に会いたくて、聞きたくて、学校に来て──

 そうだ。息ができなくて、苦しくて、吐いて、気を、失ったんだ。ここは、保健室。ようやく動き始めた頭で、そう理解した。

 静かにカーテンを開けた先、保健室の先生も、誰もいない。時計に視線を向けると、三時間目の授業中の時間。ひとまずベッドに倒れ込み、目を瞑る。思考がまとまらない。何かを考えているはずなのに、何も形にならない。

 ──ヤリマンの早川ならワンチャンいけるって。

 ──童貞捨ててこいよ。

 ──ちゃちゃっとやらねぇと呼び出した先生戻ってきちゃうからさ。

 そんな声が聞こえ、保健室の中に男子が三人入ってきた。顔は知っているけど、クラスメイトだけど、知らない男子。その中の一人が、二人の男子に押されて私のベッドに倒れ込んだ。

「ご、ごめん。やれって言うから……」


 意味が、分からなかった。わけが、分からなかった。怖くて、叫べなかった。ぎしぎしと、ベッドが軋む音がやけに耳についた。

 気づけば私の制服に、知らない男子の体液がかかっていた。

 ──中に出せって言ったじゃん。

 ──で、でも……、怖くて。

 ──だっせぇな。んで、ヤリマンの中はどうだった?

 ──わ、分かんないよ……。病気、ならないかな……。

 なんだろう。私は人じゃないのだろうか。私のことなんて、一つも気にかけていない男子たちの声。あれ? それより今のは、なに? なんで私、こんな冷静に考えてるの?

 分からない。よく、覚えてない。もしかして、私、無理やりされた、の? え? なん、で? 私、何か悪いこと、した? 分からない。分からない、分からない、分からない。

「……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──」

 これ、私の声?

 私、泣いてる?

 ここ、どこだっけ。

 そう、そうだ。モカさん──

「モカさん、モカさんモカさんモカさんモカさん──」

 ボタンの外された制服で、白く汚された制服で、片足に下着がかかったまま、馬鹿みたいにモカさんの名前を呟きながら教室へと駆ける。

 ばんっ! と授業中の扉を開ける。みんなの視線が私に向けられ、先生が驚いた表情で私を見た。

 その中に、春陽の姿も。

「優里!」

 跳ねるようにして私の所へ来た春陽が、何か言っている。「どうした」「何があった」「誰にやられた」そんなことを言われた気がした。

 保健室にいた男子と目が合う。

 指差した。

 無理やりされたと呟いた。

 瞬間──春陽が動いた。その男子に掴みかかり、殴り倒す。何度も何度も殴る音。春陽の顔が、狼に見えた。剥き出しの敵意。怖い、顔。そんな顔、して欲しくないのに、春陽には、笑っていてほしいのに。

 ──ぼくがユウリちゃん、幸せにするね。

 ごめんね、春陽。幼い頃の春陽の笑顔に、そう呟く。もう、分かんない。幸せって分かんない。春陽が好き。でも、モカさんに会いたいの。自分の気持ち、ぐちゃぐちゃで、春陽、春陽──

 モカ、さん。

「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──」

 叫んだ。

 思いきり、叫んだ。

 鞄を持って、駆け出す。

 ──優里!

 後ろから、春陽の声がした。でももう、振り向けない。

 私の手は、春陽を掴めない。そんなのずっとずっと前から分かっていた。初めて体を売った日から、分かっていた。でも、会いたかったの。顔が見たかったの。その手を掴めなくても、春陽の側に、いたかったの。

 飛び出した校庭。秋の陽光があたたかい。

 こんな私でも、照らしてくれるんだ。

 あたたかいけど、気持ち悪い。

 すごい。

 みんな、私を見てる。

 どう?

 汚い私は面白い?

 くるりと回って、笑う。

 よく分からなくて、笑う。

 校庭を抜け、歩道を駆け──

 ぱぁんと車のクラクション。

 どん、と体に重い衝撃。

 あれ、私、空、飛んで──

 気づけば私は道路に倒れていた。全身が痛くて、意識が遠のく。そっか、車に轢かれたのか、私。痛くて、痛くて、でももう、これで。

 そこまでで、私の意識は途切れた。

 

 

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