第16話

 廊下は静かだった。

 それは、静かな校舎内の無音が音として聞こえるかのように思えた。


 いや、正確には僕の内側にある何かが、外部の音を認識することを拒絶していて、それが無音として具現化しているかのようだった。

 僕が今立っているのは、全ての始まりであり、そしておそらくは全ての終わりとなるであろう資料準備室の前。

 しかし僕の足は、その冒涜的な暗がりへと向かうのではなく、今しがた来たばかりの道を律儀に引き返し始めていた。


 僕の体は僕自身の意思で動いていた。


 セイラの命令でもなければ、あの『死』の残滓に引かれているのでもない。

 それは絶望の果てに僕が見出した、唯一にして最も愚かで、最も人間的な選択だった。


 人ならざる『番人』となる道。

 人としての生を許される代わりに、他者の破滅を見届ける道。


 そのどちらも選ばない。

 僕は、この穢れの全てを僕という器に押し込めたまま、僕が破壊していく日常のそのど真ん中に、敢えて居座り続けることを選んだのだ。


 それは希望から生まれた決意などでは断じてない。

 むしろ希望という概念が僕の中から完全に消え去ったからこそ選択できた、破滅的な意地とでも呼ぶべきものだった。


 この理不尽な運命にただ無力に流されるくらいなら、いっそのこと自ら進んで最も過酷な罰を受け入れてやる。

 僕のせいで誰かが不幸になるのなら、その全ての光景をこの両の眼に焼き付け、その罪の重さをこの魂に刻みつけながら、それでもなお人間として最後まで存在し続けてやる。

 それが僕にできる唯一の、そして最後の抵抗だった。




 階段を一段ずつ、踏みしめるように下りていく。

 こつ、こつ、という僕自身の靴音だけが、この死んだように静かな校舎の中で、僕という存在がかろうじてまだ物理的な実体を持っていることを証明していた。

 昇降口を抜け、校門を乗り越える。

 僕の心には何の感情も浮かんでいなかった。


 ただ、決められた手順を淡々とこなしているだけ。


 夜の闇は、東の空がわずかに白み始めたことで、その濃密さを少しだけ失っていた。

 インクを溶かしたような藍色の空が、徐々に灰色のグラデーションへとその姿を変えていく。

 夜明け前のこの時間帯は、世界の輪郭が最も曖昧になる瞬間だ。まるで僕の今の心境そのものを映し出しているかのようだった。


 僕は自宅へと続く道を、ただ黙々と歩いた。

 逃げるように家を飛び出した数時間前とは、同じ道でも全く違うものに感じられた。


 あの時は、家族を穢れから守りたいという一心で、ただひたすらに遠くへ逃げることだけを考えていた。

 しかし今は違う。僕は戦場へ向かう兵士のように、これから始まる終わりのない地獄を覚悟して、その発生源である我が家へと帰還するのだ。


 やがて見慣れた我が家の玄関の前にたどり着いた。

 ドアノブに手をかける。この扉を開ければ、僕の選んだ地獄が本当に始まる。一瞬のためらいが僕の指先を鈍らせたが、それもほんのわずかな時間のことだった。

 僕は静かに息を吸い込み、ゆっくりとドアを開けた。


 リビングの明かりが点いていた。ソファに、母が毛布にくるまって座っていた。

 僕がドアを開けた音に気づき、その小さな体がびくりと揺れる。そしてゆっくりとこちらを向いた彼女の顔を見て、僕は呼吸の仕方を忘れた。


 その顔には、僕の帰宅を喜ぶ安堵の色など微塵もなかった。

 そこに浮かんでいたのは、得体の知れない恐ろしいものを見てしまったかのような、純粋な怯えの色だった。

 憔悴しきったその顔は信じられないほど痩せこけて見えて、目の下には深い隈が刻まれている。

 彼女は僕を見ている。

 しかしその視線は、僕という息子を捉えているのではなく、僕の背後にいる何か、僕という存在にまとわりついている穢れの瘴気そのものを見ているようだった。


「……」


 母は何も言わなかった。

 ただ、か細く息を吐き出すと、僕から視線を逸らし、毛布を頭まで深くかぶってしまった。


 完全な拒絶。それは言葉によるどんな罵倒よりも、僕の心を深く抉った。


 僕もまた、何も言わずに靴を脱ぎ、自分の部屋へと向かった。

 廊下の途中、父の寝室のドアがわずかに開いていて、中から荒い寝息が聞こえてきた。

 その音も、以前の穏やかなそれとは違い、何か悪夢にうなされているかのように苦しげだった。


 自分の部屋のドアを開ける。数時間前に僕が捨てたはずの独房。

 そこは僕が去った時と何一つ変わらない静寂を保っていた。僕はカバンを床に放り出すと、ベッドに倒れ込んだ。


 これが僕の日常になる。これから毎日、毎時間、毎分、毎秒、僕はこの見えない壁の中で生きていくのだ。


 その日から、僕の家はさらなる地獄へとその姿を変えていった。


 夕食。僕は自分の部屋から出て、久しぶりに食卓についた。

 それは僕が自分自身に課した最初の試練だった。

 母は僕の顔を見ようともせず、ただ黙々と無表情に料理を皿に並べていく。その手つきは、かつての温かみを完全に失い、ただの義務的な作業のように見えた。


 仕事から帰ってきた父は、食卓に僕の姿を認めると、あからさまに顔をしかめ、何も言わずにテレビの電源を入れた。

 けたたましいバラエティ番組の笑い声が、僕たちの間の重苦しい沈黙を埋めようとするかのように、虚しく部屋に響き渡る。


 誰も何も話さない。食器が立てる乾いた音だけが、時折その笑い声の合間を縫って、気まずく耳についた。

 湯気の立つハンバーグも、彩りよく盛り付けられたサラダも、僕の舌には何の味ももたらさない。僕は味のしない白米を、まるで砂利でも噛むかのようにゆっくりと咀嚼した。


 この空間に僕がいる。ただそれだけの事実が、この家の空気を鉛のように重くし、そこにいる全ての人間から生命力を奪っていく。


 その時だった。

 けたたましい電子音がリビングの沈黙を切り裂いた。父のスマートフォンだった。


「はい、もしもし……ええ、私ですが……何?本当かそれは!」


 電話口の父の声が、徐々に険しいものへと変わっていく。

 テレビのリモコンを握りしめた手が小刻みに動き、その顔からは血の気が引いていくのが遠目にも分かった。


「……分かった。すぐに対応を指示する。とにかく損害を最小限に……いや、もう手遅れか……くそっ!」


 父は忌々しげにそう吐き捨てると、乱暴に電話を切った。

 そして、ソファに深く体を沈め、天井を仰いだ。


「……もう終わりだ」


 それは、かろうじて聞き取れるほどの小さな呟きだった。

 誰に言うでもない、ただの絶望の独白。しかしその言葉は、どんな大声よりも鋭く、僕の魂に突き刺さった。

 父の目は僕を捉えてはいなかった。その視線は虚空を彷徨い、この家に起きた全ての理不尽そのものに向けられている。だが、僕には分かっていた。


 そのやり場のない怒りと絶望の根源は、僕なのだと。


 父の会社で、何か致命的なトラブルが起きたのだ。

 僕がこの食卓にいるせいで。僕という存在が、家族の日常に直接的な不幸を呼び込んでしまったのだ。


 父はその日、それ以上一言も口を利かずに食事を終えると、自室に閉じこもってしまった。

 母は、泣いているのか、ただ肩を落としているのか、その表情は俯いていて分からない。

 彼女はただ、食べ残された料理を、まるで葬儀の後のように、静かに片付け始めた。僕は、自分の皿を前に、ただ身動き一つできなかった。


 これが僕の選んだ道。この罪の光景から、僕は決して目をそらしてはならないのだ。


 家庭内の空気は、その日を境に、さらに澱んでいった。

 父はめっきりと口数が減り、毎晩のように酒を飲むようになった。母の雰囲気は澱み、その瞳から生気が失われていく。


 家の中は常に冷たい緊張感に満たされ、かつて存在したはずの温かい団欒の記憶は、遠い昔の夢物語のように色褪せていった。


 学校での地獄は、また別の形で僕を苛んだ。


 数日ぶりに僕が教室に足を踏み入れた瞬間、それまで存在していたざわめきが、まるで潮が引くようにすうっと消え去った。

 全ての視線が僕という異物一点に集中し、その中に含まれている感情はもはや好奇心などではなかった。

 そこにあるのは、理解不能なものへの恐怖と、あからさまな嫌悪、そして不吉なものを遠ざけようとする自己防衛の本能。


 僕が自分の席に着くと、周囲の生徒たちはまるで汚物にでも触れるかのように、さっと僕から距離を取った。

 僕の机の周りだけ、ぽっかりと空白地帯が生まれる。隣の席の生徒は、何も言わずに自分の机を少しだけ廊下側にずらした。

 その無言の行為が、何よりも雄弁に僕の存在を拒絶していた。僕はその中心で、ただ一人、世界の全てから隔離されているという事実を噛みしめていた。


 授業が始まっても、その異常な空気は変わらなかった。

 教師でさえも、僕の席の近くを通る時は、無意識に足早になっているのが分かった。


 そして、僕は気づいてしまった。僕がこの教室にいることで、クラス全体の空気が目に見えて悪化していることに。

 以前はただの悪ふざけ程度だった生徒たちの間のいさかいが、今ではもっと陰湿で粘着質なものへとその姿を変えていた。

 休み時間になると、教室の隅で一人の生徒が数人に囲まれ、何かを詰問されている光景が目に入るようになった。以前なら、あんなにあからさまなことはなかったはずだ。

 僕がいることで、彼らの心の奥底にある抑制が効かなくなり、攻撃性が剥き出しになっているのではないか。

 おそらく、僕の内側から漏れ出す『死』が、この閉鎖された空間にいる少年少女たちの心の弱い部分を刺激し、彼らの内なる悪意を増幅させているのだ。


 僕はもう、誰とも関わってはいけない。善意も悪意も、その全てを拒絶しなければならない。


 僕は歩く災害。

 僕は不幸を振りまく疫病神。


 その自己認識は、もはや揺らぐことのない確定した事実として、僕の魂に深く深く刻み込まれた。


 僕は、周囲から完全に孤立した。誰も僕に近づかないし、僕も誰にも近づかない。休み時間も微動だにせず、ただ机の木目を眺め続ける。僕はただ、僕が選択したこの地獄の中心で、僕が引き起こす罪の連鎖を、一瞬たりとも目をそらすことなく見つめ続ける。それが僕の贖罪。僕の戦い。そして、僕の終わりなき日常。


 罪悪感も、絶望も、恐怖も、繰り返される悲劇の中で徐々に意味を失っていって、やがては何も感じなくなった。

 僕の心は、完全に感情という機能を停止させ、ただの空っぽの器と化していた。


 それでも僕はただ、そこにいた。

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