第16話 新しい家族の風景
神戸の実家で迎える年末年始は、藍にとって、これまでとは全く異なる時間になっていた。12月29日に帰省してからの数日、両親との間には、以前のような目に見えない壁はなかった。あの夕食の席で、藍が自身の心の奥底を打ち明けた夜以来、凍り付いていた何かが、ゆっくりと溶け始めているのを感じた。
変わる会話、深まる理解
大晦日の朝。リビングでは、母が慣れた手つきで年越しそばの準備をしている。父は、新聞を読みながら、時折テレビのニュースに目をやっていた。以前なら、藍は気まずさを感じ、自分の部屋に閉じこもりがちだっただろう。しかし、この日は自然とリビングに足を運び、母の手伝いを始めた。
「何か手伝うことある?」
藍の声に、母は驚いたように振り返った。
「あら、藍。ありがとう。じゃあ、お野菜切ってくれるかしら」
包丁を握る藍の指先は、以前よりもずっと安定していた。無心で野菜を刻む間に、母がぽつりぽつりと話しかけてきた。
「藍が東京に行ってから、私たちの生活も随分変わったわね。毎日、藍が無事に過ごしているか、そればかり気になっていたから…」
その言葉に、藍は思わず手を止めた。
「…ごめんね、心配かけて」
「いいのよ。それよりも、藍が自分のことを話してくれたのが、何より嬉しかったわ。私たちも、どう藍と接したらいいのか、ずっと手探りだったから」母は小さく息をついた。「藍は小さい頃から、絵を描くのが本当に好きだったものね。私たちも、その感性をどう伸ばしてあげたらいいか、分からなくて…つい、論理的なことばかり言ってしまった。それが、藍を苦しめていたなんて…本当に申し訳ないことをしたわ」
母の言葉に、藍の目頭が熱くなった。両親が、自分を理解しようと努力してくれていたこと、そして不器用ながらも愛情を注いでくれていたことを、藍は初めて心の底から実感した。
「ううん、お母さん。私も、自分の弱さから逃げてただけだから。お父さんもお母さんも、私を心配してくれてたって、今ならわかるよ」
藍の言葉に、母が顔を上げ、優しく微笑んだ。その笑顔は、藍が幼い頃に見た、何の曇りもない母の笑顔と重なった。
昼食は、母が腕を振るった手作りのご馳走だった。おせち料理の準備も兼ねて、食卓には彩り豊かな料理が並ぶ。伊達巻、紅白なます、黒豆…。どれも、藍が子供の頃から慣れ親しんだ、懐かしい味だった。以前なら、食事中もどこか緊張し、早く終わらないかと願っていたが、この日は、ゆっくりと、家族との会話を楽しみながら味わうことができた。
食後は、家族三人でリビングに集まり、テレビで年末特番を観た。他愛もないお笑い番組に、父と母が楽しそうに笑っている。藍も、つられて自然と笑みがこぼれた。こんな風に、何の気兼ねもなく、ただ家族として同じ時間を過ごすことが、どれほど大切で、温かいことなのか。藍は、改めてその尊さを感じていた。
夜になり、年越しそばを囲んだ。湯気の立つそばの香りが、部屋中に広がる。父はビールを片手に、母は熱燗を少しだけ。藍は、温かいお茶を飲みながら、今年一年の出来事を振り返った。苦しいこともたくさんあったけれど、その全てが、今の自分を形作っている。そして、こうして家族と穏やかな時間を過ごせることの幸せを、噛みしめていた。除夜の鐘の音が、遠くから聞こえてくる。一つ、また一つと、煩悩が消えていくように、藍の心からも、過去の重荷が取り除かれていくようだった。
家族の新しい時間
元旦の朝は、清々しい空気で満ちていた。朝食はおせち料理を囲み、家族三人で新年を祝った。母が用意してくれたお雑煮は、故郷の味がして、藍の心を温かく満たした。
食後、家族三人で、神戸市中央区にある生田神社へ初詣に出かける。参道には、たくさんの人が訪れ、賑わっていた。露店の甘い香りが漂い、子供たちの楽しそうな声が響く。以前なら、人混みにいるだけで息苦しさを感じた藍だったが、この日は、人々の活気にどこか穏やかさを感じていた。
お賽銭を入れ、目を閉じ、手を合わせる。藍が祈ったのは、誰かの評価や成功のためではなかった。ただ、自分らしく、一歩一歩、進んでいけるように。そして、家族みんなが健康で、穏やかに過ごせるように。心からの願いだった。
初詣から戻ると、午後はテレビで箱根駅伝を観戦しながら、家族でゆっくりと過ごした。父が解説役となり、選手たちの走りについて熱心に語る。母は、用意してくれたミカンを剥きながら、時折、選手たちのドラマに感動しては、目元を拭っていた。藍も、かつては興味のなかった駅伝を、彼らの会話に加わりながら楽しむことができた。
2日の日は、父の提案で、家族三人で近所のカフェ「シーサイドカフェ プレンティ」へ行った。実家からは車で約15分ほどの場所にある、海が見える人気のカフェだ。温かいコーヒーとケーキを囲んで、他愛もない話をしているうちに、父が藍の仕事について尋ねてきた。
「藍の会社が作ったウェブサイト、一度見てみたよ。あれだけの膨大なデータを処理して、ユーザーがストレスなく閲覧できるインターフェースを構築するのは、並大抵の技術力じゃないな。特に、レスポンシブデザインの最適化もよくできていたし、バックエンドの処理速度も安定しているように見えた。藍が、そういう高度な技術を要するプロジェクトの一端を担っていると知って、誇らしいよ」
父の素直な言葉に、藍は胸がいっぱいになった。それは、長年渇いていた心が、ようやく潤っていくような感覚だった。両親は、藍の「絵」という感性だけでなく、社会で頑張る藍自身を、ありのままに認めようとしてくれていた。そのことに、藍は深い感謝と安堵を覚えた。
3日の日は、特に予定を立てず、実家でゆっくりと過ごした。藍は、自分の部屋で久しぶりにスケッチブックを広げ、窓から見える神戸の風景を描いた。海、山、そして街並み。幼い頃から見慣れた景色も、今の藍の目には、温かい光に満ちて見えた。両親も、藍の部屋を訪れ、描いている絵を覗き込んだり、世間話をしたりと、穏やかな時間が流れていった。
確かな絆、未来へ向かって
1月3日の夕方。新神戸駅のホームで、両親が藍を見送ってくれた。別れの言葉は、以前のような形式的なものではなく、温かい気持ちが込められていた。
「無理せず、体に気をつけてね。いつでも帰ってきていいんだから」母が藍の手を握った。
「藍らしく、お前のペースで頑張ればいい。私たちは、いつでも応援している」父が、少し照れたように言った。
藍は、二人の顔を見て、心から微笑んだ。
「ありがとう。また、すぐに帰ってくるね」
新幹線に乗り込み、窓から両親の姿が見えなくなるまで手を振った。車窓に映る自分の顔は、以前よりもずっと穏やかで、満ち足りた表情をしていた。
神戸での数日間は、藍にとって、心の再構築のような時間だった。両親との間にあった隔たりは、完全になくなったわけではないだろう。しかし、互いに本音を語り、理解しようと努めることで、確かな絆が生まれ始めていた。それは、完璧な家族の姿ではないかもしれないが、藍にとって、何よりも大切な、ありのままの家族の風景だった。
藍は、東京へ向かう新幹線の中で、新しいスケッチブックを開いた。ページをめくると、神戸で描いた、両親の似顔絵があった。二人とも、少しはにかんだような、優しい笑顔で描かれている。その絵は、藍の心の成長と、家族との新しい関係性を象徴しているようだった。
「月蝕の庭」は、もう過去の傷跡ではない。それは、藍が自分自身を見つめ直し、光を見つけ出した場所。そして、その光が、藍自身の人生を、そして家族との絆を、温かく照らし続けている。藍は、故郷の月に見守られながら、新しい空の下、確かな足取りで未来へと歩みを進めていた。
続く
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