第14話 心の幹を育てる

高円寺のワンルームマンション「グリーンヴィラ高円寺」の朝は、以前よりもずっと穏やかだった。窓から差し込む朝日が、藍の顔を優しく照らす。退院して二週間が経ち、体調はすっかり元に戻った。しかし、何よりも大きく変わったのは、藍の心だった。


あの「鬼」との決別以来、藍の心には、これまで感じたことのない静かな自信が芽生えていた。それは、何でもできるという傲慢な自信ではない。むしろ、不完全な自分を受け入れ、失敗を恐れずに一歩を踏み出す勇気のようなものだった。鏡に映る自分の瞳に、以前のような怯えの色はなく、代わりに穏やかな光が宿っているのを感じた。


内なる声との新しい関係

「鬼」の声は、もう聞こえない。しかし、時に不安や迷いが藍の心に影を落とすことはあった。新しいプロジェクトの難題に直面した時、クライアントからの厳しいフィードバックを受けた時、ふと過去の失敗が脳裏をよぎる。そんな時、かつて「鬼」が囁いたような否定的な思考が、まるで薄い霧のように心に漂うことがあった。


だが、今の藍は、その霧に囚われることはなかった。


(ああ、また自分を責めそうになってるな)


藍は、冷静に自分自身の感情を観察する。それはまるで、遠くから自分の心を見つめているような感覚だった。否定的な感情が湧き上がっても、それと一体化せず、「これは私の一部だけど、私自身ではない」と認識できるようになったのだ。


この変化は、藍が「鬼」の正体が自身の弱さから生まれたものであると理解し、それを受け入れたからこそ生まれたものだった。自分の弱さから目を逸らさず、むしろそれと向き合うことで、藍は心の「幹」を太くしていった。 幹が太くなれば、多少の嵐が来ても折れることはない。


現実への挑戦:意見表明と対話

仕事の現場でも、藍の変化は少しずつ現れ始めた。以前なら、自分の意見を飲み込み、周りの意見に流されるばかりだった。しかし、今は違う。


ある日の企画会議。新しいウェブサイトのUIデザインについて議論が白熱していた。ベテランデザイナーたちがそれぞれの経験と論理をぶつけ合う中、藍は資料をじっと見つめていた。頭の中に、ユーザーが実際にサイトを利用する時の感情の流れが、鮮明にイメージされる。


「このボタンの色、もう少し温かい色合いの方が、ユーザーに安心感を与えられるのではないでしょうか?」


藍は、以前よりも落ち着いた声で発言した。会議室の視線が再び藍に集まる。一瞬の静寂。心臓がトクン、と鳴ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。以前のように、手が震えたり、声が上ずったりすることはない。


マネージャーが眉をひそめ、他のデザイナーが首を傾げる。


「なぜ、そう思う?」


厳しい問いかけに、藍は臆さなかった。


「心理学的に、暖色系は安心感を抱かせ、ユーザーが次に進む行動を促す効果があると言われています。特に、今回ターゲットとする層は…」


藍は、自分の考えを、具体的な根拠を交えながら説明した。即興でタブレットに色見本のスケッチを描き、視覚的に示す。彼女の言葉には、以前のような遠慮や自信のなさはなく、明確な意図が込められていた。


最終的に、藍の提案がそのまま採用されることはなかった。しかし、マネージャーは「長田さんの視点は面白い。検討してみる価値はある」と言い、別のデザイナーも「確かに、そういう考え方もできるな」と頷いた。会議後、結城が藍の元へ歩み寄った。


「藍ちゃん、すごいよ。あんな風に自分の意見を言えるようになったんだね」


結城の言葉に、藍は照れながらも、静かな喜びを感じた。採用されなくても、発言できたこと。自分の考えを伝えられたこと。それが、藍にとって何よりも大きな一歩だった。


休息と自己肯定:心の滋養

週末は、無理に予定を入れることなく、自分のために時間を使うようになった。以前は、常に何かをしていないと「怠けている」と感じ、焦燥感に駆られていたが、今は違う。午後の日差しが差し込む部屋で、好きな音楽をかけながら、心ゆくまで絵を描く。それは、誰かの評価のためでも、納期のためでもない。ただ、自分の心が求めるままに、自由に筆を走らせる時間だった。絵の具の混ざり合う色、キャンバスの匂い、すべてが心地よい。


そして、夜。高円寺の街を、ゆっくりと散歩する。賑やかな商店街の明かり、夕食の準備をする人々の家の窓から漏れる温かい光。以前は、その光景が自分とは無縁の、遠い世界のように感じられた。だが、今は、自分もその日常の一部なのだと、穏やかに受け入れられる。


藍は、歩きながらスマホを取り出し、LINEアプリを開いた。久しぶりにメッセージを送る相手は、神戸にいる、**専門学校時代からの親友、佐倉 結衣(さくら ゆい)**だ。指が震えることもなく、メッセージを打ち込む。


「結衣、久しぶり。実はね、少し前に体調崩して入院してたんだ。でも、今はもう大丈夫。色々と考えることがあって、自分と向き合ってたんだ。そしたらね、ずっと私を苦しめてた『心の鬼』の正体が分かって、それに打ち勝つことができたんだよ。だから、最近はすごく元気。また、絵も描いてるんだ」


既読がつく。すぐに返信が来た。「藍、えっ、入院してたの!?大丈夫!?でも、元気になったって聞いて安心したよ。心の鬼に打ち勝ったなんて、藍、本当にすごい!無理しないで、藍らしくね。応援してるよ」。その簡潔な言葉が、藍の胸を温かくした。結衣の驚きと安堵が伝わってきて、藍は思わずふふ、と笑みがこぼれた。誰かの期待に応えるためではなく、ただ「藍らしく」いること。それが、今の藍にとって、何よりも大切なことだった。


藍は、まだ人生の途中にいる。これからも困難は訪れるだろう。心の奥底に、かすかな不安がよぎることもあるかもしれない。しかし、彼女は知っている。もう「鬼」に支配されることはない。心の弱さから生まれた影は、今、彼女自身の強さによって、光へと変わった。そして、その光は、現実世界での藍の行動を、優しく、しかし確実に照らしている。


藍は、ゆっくりと、しかし確実に、自分自身の足で、新しい空の下を歩み始めている。その空は、どこまでも広く、限りなく澄み渡っていた。彼女の心の幹は、日々着実に、太く、力強く育っていた。


続く








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