第5話 小さな成功と、消えない影

東京での生活は、あっという間に三ヶ月が過ぎようとしていた。高円寺のワンルームマンションは、依然として殺風景なままだが、初めて足を踏み入れた時の突き刺すような孤独感は、少しずつ和らいでいた。休日は、駅前の商店街をぶらつき、馴染みのパン屋で焼きたてのパンを買う。路地裏の古着屋を覗いたり、たまに小さなライブハウスの前を通りかかったりする。神戸の温かい人情とは違う、都会の多様性が、藍の心を少しずつ解きほぐしているようだった。部屋には、神戸から持ってきたお気に入りのマグカップが一つ増え、窓際には小さな観葉植物が置かれた。少しずつ、この場所が「自分の家」になりつつあることを、藍は感じていた。


「おはよう、長田さん。今日の調子はどう?」


朝、オフィスで結城美咲が声をかけてくれる。スタジオ・アウラでの日々は、相変わらず忙しかったが、藍は少しずつ自分の役割を見つけ始めていた。与えられたタスクをこなすだけでなく、自分なりの提案を試みる勇気も、少しだけ持てるようになってきた。


ある日、藍は初めて、ウェブサイトのリニューアル案件で、メインビジュアルのイラストレーションを担当することになった。クライアントは、オーガニック食品を扱う小さな会社で、温かく、手作り感のあるイメージを求めていた。


「藍ちゃんの絵は、そういう優しい雰囲気を表現するのが得意だと思うから、ぜひお願いしたいな」


結城の言葉に、藍の胸は高鳴った。期待に応えたい、という気持ちと、失敗したらどうしよう、という恐れが同時に押し寄せる。いつもの「鬼」の声が、耳元で囁き始めた。


「どうせお前には無理だ。せっかくのチャンスを台無しにするだけだ」


深夜、マンションの部屋で、藍はペンタブレットを握りしめていた。何度描いても、クライアントが求める「温かさ」が表現できない気がした。神戸の両親が営むエンジニア事務所で、父と母が複雑なコードと向き合っている姿を思い出す。彼らは、常に論理と効率を追求していた。藍の描く絵は、そんな世界とはかけ離れている。もしかしたら、自分はクリエイティブな世界でも、両親のような「正確さ」や「完成度」を求めてしまっているのかもしれない。それは、絵を描くことの楽しさとは、少し違う気がした。


疲れた目で、窓の外のビル群を見る。どこかで見た、月の光が影に侵食されていく映像が、脳裏をよぎった。


その時、ふと、結城が言っていた言葉を思い出した。以前、藍が自信なさげにしている時に、結城が言ったのだ。


「完璧じゃなくていいんだよ、長田さん。大事なのは、あなたの心がどう動いたか、そして、それがちゃんと伝わるかどうかだから」


藍は、ハッと顔を上げた。完璧じゃなくていい。その言葉が、藍の心の中に深く染み渡った。そうだ、絵は、感情を伝えるものだ。論理や効率だけではない。自分の心が動いた瞬間の、不完全でも温かい感情を、そのまま絵に乗せればいい。


それから、藍は筆のタッチを変えた。精緻さよりも、温かい手描きの雰囲気を重視し、色使いも柔らかく、温かみのあるトーンにした。徹夜で描き上げたイラストは、どこか拙く、完璧ではなかったかもしれない。けれど、藍の心が、そこに確かに込められていた。


翌日、プレゼンテーション。クライアントは、藍のイラストを見るなり、感嘆の声を上げた。

「これです!まさに、私たちが求めていた温かさ、手作り感。素晴らしい!」

社長の言葉に、藍の胸は熱くなった。結城が、藍の肩をポンと叩き、小さく頷いた。その瞬間、藍の心の中の「鬼」の声が、一瞬だけ、完全に消えた気がした。


ウェブサイトが公開され、SNSで藍のイラストに対する好意的なコメントが多数寄せられた。

「イラストが素敵で、商品の温かさが伝わる!」「こんなイラスト、自分も描いてみたい!」

小さな成功だったが、藍にとっては、これまでの人生で感じたことのない、確かな達成感だった。自分の絵が、誰かの心を動かし、評価された。それは、何よりも大きな自信に繋がった。


しかし、喜びもつかの間、次のプロジェクトが藍を襲う。より大規模な企業ブランディングの仕事で、藍はサブ担当として参加することになった。会議室で飛び交う専門用語、複雑な指示、そしてベテランデザイナーたちの圧倒的なスキル。藍は再び、自分の無力さを突きつけられた。


「お前は、まだこのレベルじゃない。まぐれ当たりにすぎない。すぐにメッキが剥がれるぞ」


「鬼」の声が、以前よりも狡猾に、藍の心の隙間に入り込んできた。一度成功したことで、次の失敗への恐れが、より大きくなっていたのだ。


ある日の帰り道、高円寺の商店街を歩いていると、ふと、懐かしい匂いがした。神戸の、あの小さな事務所の匂いだ。父と母が、徹夜でプログラミングを組んでいた時のコーヒーの匂いと、機械油の匂いが混じったような、独特の香り。

藍は立ち止まり、空を見上げた。東京の空は、やはり狭い。神戸の広い空の下で、両親は今、何をしているだろうか。


「藍、無理せんでええからな。しんどなったら、いつでも帰ってきてもええんやから」


母の言葉が、再び脳裏をよぎる。東京に来てから、ほとんど両親に連絡を取っていなかった。元気だ、大丈夫だ、と取り繕うのが、疲れる気がしたのだ。


「藍ちゃん、どうしたの? そんなところで立ち止まって」

隣に、結城が立っていた。藍が顔を上げると、結城は心配そうに藍の顔を覗き込む。

「あ、結城さん…お疲れ様です」

「大丈夫? なんだか、元気ないみたいだけど」

藍は、少しだけ迷ってから、言葉を絞り出した。

「私…一度、うまくいったことで、次の失敗がすごく怖くて。また、あの時の自分に戻ってしまうんじゃないかって…」

藍は、涙がこみ上げるのを必死にこらえた。


結城は、藍の言葉をじっと聞き、そして優しく微笑んだ。

「長田さん、それが普通だよ。人間だもの。誰だって、成功の後に不安になることなんて、しょっちゅうある。でもね、大切なのは、その不安を感じながらも、もう一度前に進もうとすることだよ」

結城は、商店街の賑わいを指差しながら言った。

「この街の、この人たちだって、毎日小さな失敗と成功を繰り返しながら、それでも生きている。完璧な人間なんてどこにもいないんだから。あなたの『鬼』は、あなたを強くするための試練なんだよ、きっと」

結城の言葉は、藍の心を深く打った。それは、藍がずっと抱えていた「鬼」への見方を変えるような、新しい視点だった。試練。そうか、これは自分を強くするためのものなのか。


その夜、藍は高円寺のマンションの窓辺で、またスケッチブックを広げた。窓の外には、ビルの間に挟まれた月が、再び輝いていた。少しずつ、その姿が満ちていくように見える。


(試練…)


鉛筆を走らせる手が、震えなくなった。描いたのは、満ちていく月と、その周りを飛ぶ、小さな鳥の群れ。不完全でも、不器用でも、前に進もうとする鳥たちの姿に、藍は自分を重ねた。


東京での生活は、まだ始まったばかりだ。目の前には、乗り越えるべき壁がたくさんあるだろう。心の中に巣食う「鬼」も、完全に消えることはないかもしれない。けれど、藍は、この東京で、小さな成功と、温かい言葉に触れ、少しだけ強くなった。


この「月蝕の庭」で、藍はきっと、自分だけの光を見つけ出すだろう。月の光が、ゆっくりと、しかし確実に、影の中から顔を覗かせ始めていた。


続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る