第2話 茜色の残像
新神戸駅を後にした新幹線は、轟音を立ててトンネルに入った。一瞬、車内が漆黒の闇に包まれる。闇の中、窓に映るのは、不安げに揺れる自分の顔。そして、その奥に、目を凝らさなければ見えない、もう一人の自分。長田藍は、シートに深く身を沈め、窓の外を流れていく景色をただ見つめていた。指先で、ひんやりとした窓ガラスをなぞる。その冷たさが、現実と非現実の境目を曖昧にする。
(あたしは、何から逃げてるんやろう)
心の中で、その問いがこだまする。まるで深海の底から響いてくるような、重苦しい響きだった。神戸での生活は、決して不幸せではなかった。温かい両親がいて、昔からの友人もいた。実家は街の片隅で代々続く小さなエンジニア事務所を営み、父の稔と母の恵子は共にエンジニアとして、論理的な思考を重んじる家庭を築いていた。食卓では、いつも最新の技術トレンドや、複雑なシステムの構築について語り合っていた。藍も幼い頃は、そんな両親の仕事に漠然とした憧れを抱いたこともあった。けれど、いつからだろうか、その温かさが、まるで自分を雁字搦めにする鎖のように感じられるようになったのは。両親の言葉、友人たちの気遣い、そして街の人々の「藍ちゃんはきっと、この街で大きくなるんやね」という無意識の期待。それら全てが、重い空気となって藍の肩にのしかかっていた。
小学三年生の運動会、リレーの選手に選ばれた時のことだ。担任の先生が、「藍ちゃんは足が速いから、アンカー任せたぞ!」と満面の笑みで言った。本当は自信がなかった。クラスの中でも飛び抜けて足が速いわけではなかったし、何より、大勢の視線が怖かった。体育の授業で皆の視線を感じるだけでも身体がこわばるのに、運動会なんて。それでも、先生やクラスメイトの期待に満ちた眼差しに応えようと、「はい!」と大きな声で返事をしてしまった。それが間違いだったと気づいたのは、練習が始まってすぐのことだ。何度練習しても、バトンパスはぎこちなく、走りは伸びやかさに欠けた。それでも「頑張ってね」「藍ちゃん、期待してるよ」という周囲の声に、ますます辞めたいと言い出せなくなった。そして迎えた本番。アンカーでバトンを受け取った瞬間、足がもつれて、盛大に転んだ。砂埃が舞い上がり、膝から血が滲む。一瞬の静寂の後、遠くからクスクスと笑い声が聞こえた気がした。いや、実際に聞こえたのかもしれない。顔を上げると、クラスメイトの何人かが、心配そうな顔の奥で、嘲るような視線を送っているように見えた。その日以来、藍の中に「失敗することへの強い恐れ」と「自分は期待に応えられない人間だ」という劣等感が芽生え始めた。それからは、友達と遊ぶときも、誰かの意見に合わせ、自分のしたいことを主張できないことが増えていった。どんな些細なことでも、自分が意見することで摩擦が起きるのが怖かった。両親はそんな藍の繊細さに気づいていたが、どう接すればいいのかわからず、ただ見守るばかりだった。父は「藍はもっと、はっきり自分の意見を言えばええのに」と遠回しに言うこともあったが、それが藍にとってはさらにプレッシャーになった。
「藍は藍やないか。東京に行けば、すぐに何かが変わるわけやないんやで」
出発前夜、父の稔が言った言葉が、脳裏に蘇る。食卓に並んだ鯛のあら炊きは、父が藍のために腕によりをかけたものだった。その美味しさが、かえって胸に刺さった。父は、いつも藍のことを心配し、不器用ながらも愛情を注いでくれた。藍がエンジニアの道を選ばなかったことへの、微かな失望も感じ取れたが、それ以上に娘の幸せを願う気持ちが伝わってきた。藍が中学生の頃、進路について話し合った時のことを思い出す。
「藍、将来は何がしたいんや?」と、珍しく父が切り出した。
「まだ、わからへん…」と答えた藍に、父は静かに「もし、興味があるなら、いつでも父さんの事務所に来てみたらええ。恵子もいるし、システムのこと、教えてやれるぞ」と言った。
母の恵子も、「そうよ、藍。難しいと思うかもしれないけど、意外と面白いものよ。論理的に物事を考える力は、どんな仕事でも役に立つから」と優しく続けた。
その時、藍の心は複雑だった。両親がエンジニアとして誇りを持って仕事をしていることは知っていたし、その安定した収入が自分たちの生活を支えていることも理解していた。だが、数字や記号が並ぶ設計図やプログラムコードに、どうしても自分の心が動かない。むしろ、二人がパソコンの画面に向かって黙々と作業する姿を見るたび、自分にはできないという諦めと、どこか冷たい距離感を感じていた。論理的で、堅実で、決して感情に流されない。そんな両親の姿を見るたび、自分の曖昧で、感情的な部分が、まるで欠陥のように思えたのだ。
「無理せんでええからな、藍。しんどなったら、いつでも帰ってきてもええんやから」
母の恵子の声は、いつも優しかった。そして、藍の心の内を見透かしているかのような、諦めを含んだ響きがあった。藍が幼い頃から抱えていた、他人との間に壁を作ってしまう不器用さも、本当の気持ちを言えない臆病さも、母は敏感に感じ取っていたのだ。だからこそ、東京に行けば何かが変わるのではないかと、母は密かに期待しているのかもしれない。藍が高校卒業後、東京ではなく神戸の専門学校を選んだ時も、両親は特に反対しなかった。ただ、「東京に行けば、すぐに何かが変わるわけやないんやで」という父の言葉と、「いつでも帰ってきてもええんやから」という母の言葉が、藍の心に温かくも重く響いていた。
中学で美術部に所属し、絵を描くことに没頭した。キャンバスに向かう時間は、唯一、自分の感情を自由に表現できる場所だった。特に、中学の美術の授業で初めてデジタルイラストレーションに触れた時の衝撃は忘れられない。パソコンの画面上で、自分の描いた線が色鮮やかに動き出すのを見た時、心に微かな光が灯った。それは、論理的なコードを構築する両親とは全く異なる、感情を直接表現できる世界だった。自分の手で色や形を操り、感情を視覚化できる喜びに、藍は夢中になった。高校では、放課後に独学でグラフィックデザインの基礎を学び、簡単なロゴやポスターをデザインするのが何より楽しかった。その楽しさが、「本当にやりたいこと」の入り口だと感じていた。
しかし、その「楽しさ」でさえ、藍を完全に解放することはなかった。美術部の仲間と創作について語り合うときも、自分のアイデアを自信を持って発表できず、常に誰かの評価を気にしてしまう。「こんなこと言ったら、変に思われるんじゃないか」「どうせ自分の意見なんて、つまらないだろう」という思いが、心の奥底に沈殿していった。そして、神戸の専門学校での二年間。人生で初めて「自分のやりたいこと」に没頭できる時間だったはずなのに、プレゼンテーションの場では声が震え、自分の作品への批判的な意見には深く傷つき、時には逃げ出したくなった。
「やっぱりお前には無理だ。センスがない。どうせ誰も期待なんてしていない」
そんな時、心の中で囁く「鬼」の声が聞こえる。それは、幼い頃の失敗から生まれた劣等感、他人の評価を恐れる臆病さ、そして、本当の自分を見失った「空っぽな自分」が形になったものだった。深夜まで課題に向かい、時には徹夜で作品を作り上げたが、完成した作品に満足することは滅多にならなかった。常に「もっとできるはずだ」「これで本当にいいのか」という不安が付きまとった。
それでも、専門学校二年の終わり、小さなデザイン事務所でのインターンシップに参加した。そこで任されたのは、地域のイベントポスターのイラストだった。徹夜で描き上げたイラストが採用され、実際に街の掲示板に貼られた時の喜びは、何物にも代えがたかった。通り過ぎる人たちが、自分の描いた絵に目を留めるたびに、胸の奥から温かいものが込み上げてきた。その喜びが、藍の背中を押した。東京のデザイン会社からオファーがあったのは、そんな矢先のことだった。地方から出ることへの不安もあったが、東京という刺激的な場所なら、きっともっと成長できる。そして何より、この「鬼」と完全に決着をつけるためには、これまでの居心地の良い環境を飛び出す必要があると直感したのだ。
「困ったことがあったら、遠慮なく電話しなさい。あんたは一人じゃないんやからな」
今朝、玄関で見送ってくれた母の言葉が、じんわりと胸に染み渡る。藍は、専門学校を卒業して2年後のこの日、東京への就職のために神戸を離れる。両親の愛情は、藍を縛る鎖のように感じていたが、それは同時に、いつでも戻れる温かい居場所、心の拠り所でもあるのだと気づかされた。しかし、その優しさが、同時に「ここで甘えてはいけない」という藍の決意を固めることにもなった。この温かい場所から一歩踏み出し、自分一人で「鬼」と向き合わなければならないのだと。藍は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。震える手で、握りしめていた新幹線のチケットをもう一度確認する。目的地は東京。ここから始まる新しい人生。そこに、どんな困難が待ち受けているのか、まだ想像もつかない。
新幹線は、轟音を立ててトンネルを抜けた。車窓には見知らぬ景色が広がっていた。茜色の夕日はまだ沈みきらず、遠くの地平線を薄く染めている。ビルの影が長く伸び、都会の喧騒が遠くから押し寄せてくるような、独特の空気が窓の外に広がっている。新たな光と、まだ見ぬ影が、この旅の先には待っている。
(東京で、あたしは一体、何を見つけるんやろう)
藍は、胸の奥で小さく、しかし確かな決意を固めた。もう逃げないと。この旅は、ただの逃避行ではない。自分の中に潜む「鬼」と真正面から向き合い、本当にやりたいこと、自分らしい生き方を見つけるための、長く、そしてきっと険しい旅の始まりなのだと。
続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます