英国公使ハーン・イルベルトと料理事故

会談場所は鹿鳴館、煌々と明かりが灯った一室でハーン・イルベルト、ウルド・イルベルト、アルバートの三人の大英帝国側、そして伊藤、青木、良介、村雨の明治政府側で交渉が始まることになった。今回は相手が料理を必要としていない様子だったし、料理がいるという伝言もないので鳴海が不在の状態で行われた。

 ハーンは戦術師としても有名な男だった。小国の七年戦争という紛争を話し合いで解決したこともあるし、現役の軍人、いや軍師としても活躍することがある。

 そういう手腕からか、総領事館の公使をしているわけだが、やはり戦場慣れしているだけあって、その眼光は凄まじいものがあった。ブラウンの髪を少し長めで結っており、頭には英国人とは思えない白色のターバンを巻いている。切れ長の目にマリンブルーの瞳に整った鼻梁に口。背は高く、日本人は見下される形になる。

 ベージュ色の三つ揃えのスーツの出で立ちのハーン。首に巻かれている白の蝶ネクタイを触りながらハーンは席に着くやいなや笑みを浮かべてこんな言葉を掛けてきた。

「今日の料理は楽しみにしているよ。ギザールからも聞いているし、ここにいる息子からも聞いている。私のような料理の決めごとがある者にも手厚い料理を出してくれるそうですな」

「え?……」

 伊藤や青木のみならず良介も村雨も間の抜けた声音を出した。今日料理を出すことは聞いてもいなかったことなので、伊藤は聞き直した。

「りょ、料理ですか?」

「ああ、料理だ。鳴海という凄腕のシェフがいるんだろう?」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 伊藤は青木に日本語で尋ねる。今日一日どころかここ数日間の間にもこのような会談内容の連絡は入っていない。だからこそ焦る。

「料理なんて聞いてるか?」

「い、いえ……」

「君は?」

 伊藤は良介と村雨に問いただす。そんな問いかけに良介や村雨も戸惑いの声音と共に返答をする。

「き、聞いたこともありません」

「私もです。小野田様、これは……」

 まさか英国総領事館の使いが料理による会談をして欲しいということを手紙の中で伝え忘れ、更に会談の日にちが迫ったことに慌てて、今度こそ言い忘れがないように自ら馬車で赴いて伝言を伝えようとしている最中に馬車と馬車が衝突をして負傷し、療養所で数日間気絶して寝ているとはここの誰も知らないことだった。むしろその療養所が今まさにどこの外国人なのか調べている程の騒ぎになっている。

「今、料理人はこの鹿鳴館に居るのか?」

「は、はい。多分」

 青木の焦りの言葉に良介は言葉を返した。鳴海のような一流でもないが、それでもここに居るシェフは鹿鳴館時代をこなしてきたやり手のシェフである。なんとかなると思った青木は独断に出た。

「閣下、確か肉と乳製品を同時に食べてはいけないというしきたりがあることをしっかり守れば、なんとかなると思います」

「なんとかなるか? 本当に?」

 ウルドの時に相手の食生活を知っているので青木は賭けに出たかったのだ。まさかウルドの父親が公使のハーンとは知らなかったが。ウルドはあくまで貴族の息子という紹介だったからだ。

 一抹の不安を残しつつ、伊藤はハーンにこんな言葉を投げかけた。

「実はどういうわけか、政府の方に料理がご所望という連絡が入っておらず。鳴海シェフは不在でして。しかしこの鹿鳴館のシェフもやり手ですので、きっとご滿足がいただける料理を作れると思います」

 その伊藤の言葉にハーンは複合的要因の事故でこんなことになっているとは思わず、おかしいな確かに伝えた筈だがと呟いた。でも丁度夕食を抜いてきて小腹が空いていたので楽観的な考えで言葉を返した。

「まあ、そういう事故のようなことは偶にあることだ。鳴海の料理は凄く楽しみにしていたが、仕方があるまい。少し小腹が空いたからそのシェフに料理を頼む。肉と乳製品は食べてはいけないのでそこだけは注意をしてくれ」

「はっ」

 妻のことで病んでいたギザールとは違い、ハーンは余裕を持った大人の態度で接した。食事の後にゆっくりと今後について話そうと思っていたハーンと雑談をしながら料理を待った。

 一時間程経った辺りか、料理が給仕の手によって運ばれてきて各人の前に並べられたのは。肉をドミグラスソースで煮込んだものであったが、バターを抜きチーズなども全て抜き、オリーブオイルなどで調理されたものであった。

 説明を受けて満足げな顔をしたハーン。ナイフとフォークを持って、肉を切り分け口元へ運び、口の中へ入れた。

「ふむ……うっ……」

「父さん、これは食べちゃいけない」

 ウルドはいち早く香りに気づいてハーンに制止の言葉を送ったが、既に遅かった。ハーンはナイフとフォークをからんと皿に落とし、料理を吐き出した。

「ぺっぺっぺっ……シェ、シェフを、よ、よべえええええええええええええいいいいいいい!」

 鋭い瞳に燃えるような赤を浮かべて怒り狂い暴れ出そうとするハーン。状況がつかめず良介が聞いた。

「ど、どうされましたか。イルベルト様……」

「どうされたも、こうされた、もなああああああい! バターが使ってあるではないか!」

「え?……」

 良介と青木は同時といえる速度で直ぐに扉の外に隠れているシェフを呼ぶ。焦った使用人は急いで扉を開けるとシェフが入ってくる。

「き、君はバターをこの料理に使ったのかね」

 青木の質問にシェフは大きく首を横に振った。シェフにしてもそんないい加減な仕事をしたつもりはない。

「そそそそそ、そんなことは絶対に致しません」

「じゃあ、これはなんなんだ! バターの香りがするではないか!」

「わ、分かりません」

 本当にバターなど使っていないのだ。では何故という話もならず、ゆるさんぞーと大声を出しながらハーンは肩を怒らせて席を立ち上がり、けんもほろろの状態で立ち去っていこうとする。

 青木や伊藤、良介や村雨がなにかの間違いですと言いながら、ハーンを静止しようとしたが、

「えええいぃぃぃぃ! 長旅から帰ってきて早々忌々しい! えええええええぃぃい! はなさんかあああああああ! この馬鹿者がああああああああぁぁ!」

 と怒号を発して、暴れるようにして部屋から出ていってしまった。ガタガタと震えるシェフに良介は肩を怒らせながら叫ぶようにして言った。

「君はなんてことをしてくれたんだ! ここまで来るのに我々がどれだけの心血を注いだと思っている!」

「つ、使ってないんです。俺は本当に」

 一方、青木は顔面が蒼白になっており言葉を発することができなかった。しかしこの場で伊藤は冷静にことを見ていた。

「鳴海君を今から呼んでくれ。確かにバターの香りがしたんでしょう。ウルド殿」

「は、はい」

 伊藤は顎に手を置きながらウルドへ聞くと、ウルドはそう答えた。自分たちの預かり知らぬところでなにかがあったのだと伊藤は思い、食の芸術家とも呼べる凄腕の専門家を呼ぶことにしたわけだ。

「私もここに残ります。原因が知りたいです。オリーブの中に残ったバターの香りはなぜ発したのか気になります。我々の今後の決まりの為の参考になりますし」

「すみませんな」

 父とは違い案外冷静なウルド。伊藤は彼も怒り狂うのかと思っていたが、口に入れていない分、客観的に物事を見ていたようだ。

 深夜に使いを出し、鳴海が来たのは二時間後位のことであった。鳴海は良介に大した用で呼ばれたわけではないと苺さんには伝えましたのでと言うと安堵の表情を浮かべる。心配症な子であるので気が滅入るような話は聞かせたくない。

 厨房へ来た一同。鳴海は厨房を見渡し、フライパンや鍋、ウルドの皿の場所を聞いた。

「あれが、そうだ」

 伊藤は中央のテーブルを指差し、そこに並んでいるものを指差した。鳴海はその場まで歩むと、ウルドの皿のソースを指ですくって舐めた。

「確かにバターの香りと味がするね」

「そ、そんな馬鹿な俺は使っていないですよ」

 否定するシェフに鳴海は分かっていると言いながら今度はフライパンのソースを舐める。

「これが原因じゃないな」

 次に鍋の中のソースを舐めた。鳴海はそこで腕を組み味を吟味する。そして伊藤達の方へ振り向きながらこう断言した。

「これだ……」

 鳴海はそう言うと、シェフにこう聞いた。鳴海の言葉に慌てたシェフであったが、それでも鳴海の言葉を真剣に聞く。

「この鍋で数日の間でバターを使った料理を作りましたか?」

「そ、それはするでしょう」

「それが原因なんですよ」

「え?」

 鳴海の言葉に驚くシェフ。現代の食器の洗い方でも雑であれば匂いや汚れが残る可能性もゼロではない。しかしこの明治時代は蛇口を捻れば簡単に水が出るわけでもなく、平成の世の中のように優れた洗剤は無く強固に汚れを落とす技術は無い。

「汚れがしっかり落ちているとは思いますが、もし少しのバターでも残っていたら、いや頻繁にこの鍋でバターを炒めていたら香りが移ってしまう可能性がある。原則として特殊な事情がある方の場合、香りがないかを確認して、自信がなかったらまったく新しいフライパンや鍋や包丁のみならず調理器具全般を用意して料理する方が好ましい」

「あ……うっ……」

 言葉に詰まるシェフだったが、鳴海はシェフの肩に手をやり慰める。別にシェフが悪気があったわけじゃない。そう知るとウルドは微笑みを浮かべた。ウルドは伊藤へこう伝えた。

「鍋の香りが移った可能性があると私の方から説明しておきます」

「助かります」

 伊藤はシェフをじっと見つめ、シェフは怒られるのじゃないかとひやりと背筋に冷や汗が浮かんだが、伊藤は腕を組みながらぼそりとこう言葉を零した。

「そういうこともあるものだと、勉強になった。君を怒りはしないよ。さて、今後どうするかが問題になってきたぞ」

 ウルドの説明だけでは納得しないかもしれない。だから今回の件は明治政府も全力で動き解決することにする。しかし大変なことになってしまったなと思うと伊藤は考えてから溜息を吐いた。

 鳴海は腕を一度組むと、ウルドの下へ歩み寄りこう伝える。

「今度は調理に使う全フライパン、鍋や調理器具を新調して料理を作りますので、どうにかお伝えできませんか?」

「やれるだけやってみます。父は話の分からない人ではないので」

 そしてウルドは鳴海の耳元でこう呟く。

「父は海の近くの生まれなので、魚貝系のあっさりしたものが好きなので、よろしくお願いします」

 ヒントを与える為にウルドは鳴海へ近づいたが、その言葉を残した後に離れる。

「お気遣い、痛み入ります」

 鳴海はそんなウルドの忠告に深く頭を下げてお礼を言った。こんなことがあったのは十月二十九日のことだった。


 翌日の英国総領事館のハーンの執務室でウルドは父にこんな進言をしていた。むすっとしていたハーンだが、話を聞いている内に自分も大人げがなかったかなと思い始めていた。

「鍋の中にバターの残滓が残っていたか、それとも香りが移っていたかなんです」

「……うむ……」

 朝から明治政府の要人が訳を話しながら謝りに来たし、どこかで溜飲を下げないと誇ってきた軍人であり公使としての自分のプライドが稚拙な物になってしまうと考える。

「まさか、手紙で書き忘れ、更に使いに出した者までもが事故で気絶をし、数針を縫う怪我をしていたと思っても見なかったしな……料理だって急に作れと言ってしまった手前、こちらも悪くはないとは言えない。今思えばあんな暴れようも誇りある英国人としては恥ずかしいことだ……」

 療養所の使いが来たのが今日の朝。担当した医師が英語ができず、英語が出来る医師の友人を呼んで、事故を起こした人物が英国総領事の人間と分かったのが昨日の深夜のこと。そのことを聞いてしまったなとハーンは少し反省していた。だからそんなハーンに向けてウルドは笑顔を向けてこう言った。

「そこでです、父さん。昨日鳴海さんが来て、私にこう言ったんです。フライパン、鍋全てを交換してもう一度料理を作らせてくださいと」

「鳴海がか?」

「あの後、何が原因でそうなったか、その鳴海さんが検証しに来られてこのことが発覚したんです」

「あんなに夜分遅くか?」

「はい」

 ウルドの頷きにハーンは顎に手を当てて考える。向こうがそこまでして検証したのなら自分もいい加減まともな返事を返すべきだと。

「……うむ……確かに私も大人気なかったかもしれない。もうちょっと話を聞いて帰るべきだった」

 生まれてこの方、バターと肉を同時に食べさせられるなんて初めてのことだったので、ハーンは動揺をしてしまったのだ。顎に手を置きながらハーンは答えを出した。

「分かった、そういう理由なら明日にでも、もう一度話し合いの場を作ろう。それでいいなウルド」

「はい」

「それではアルバート、今度こそは不手際がないように頼む」

 ハーンの部屋の隅で話を聞いていたアルバートは傅くように頭を下げると、分かりましたと言って退出していく。

「鳴海の料理がどれほどのものか、味わえるな」

「そうですね」

 ハーンはやや楽しそうな口調に切り替え、ウルドはそんなハーンに頷くのであった。


 苺は今日も今日とて日記を書く。涼しい風が襖の隙間から漏れてきて、苺の頬を撫でる。襖を静かに閉めると、続きを書いていく。

「今日もまた鳴海様は大変重要な方にお料理を作られるそうです、父様も、村雨様も鳴海様も気合の入り方が半端なものではなくて、私も恐縮してしまいました。そして今日もまだ帰ってこられません。心配です……」

 時計の針が夜の九時に差し掛かったところで、苺は数日前に浮かべた表情と同じ表情を浮かべた。重要な会談のときは父様も帰ってくるのが遅くなりますしと心の中で思うが、鳴海はそんな重要な場所で料理を作ること自体、相当に神経をすり減らすことをしているのではないかと思い苺は心配になった。

 今日もご無理はしないでください、とは言ったもののご無理はしているのだろうと思い、苺は筆を机に置くのであった。

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