苺と鳴海

 苺は襖を少し開けると、鳴海を待った。足音が止まり、鳴海が廊下の縁側に腰を掛けたのが襖の隙間から見えた。

「今日の料理をみんなに楽しんでもらえて嬉しかったなあ」

「あれだけの料理なんですから、楽しむどころではなかったです。舌鼓を打つといった方が正しいですね」

「やっぱり料理で喜んでもらえるのは、俺にとってはなによりも嬉しいことなんだと気がつかされるよ」

 鳴海は料理を作ることが好きだが、でもお客様や食べた人が喜ぶ顔を見ることがなにより好きなことだった。

「料理をしているときの鳴海様は一番生き生きしていらっしゃいますし」

「ははっ」

 苺の言葉に鳴海は若干の笑い声を上げた。そして襖の先からはこんな言葉が返ってくる。

「生き生きというか、生き甲斐みたいな感じかな」

「なるほどです。生き甲斐ですか」

「うん、そうだね。相棒みたいなもの」

 鳴海にとって料理は愛すべき友のようなものだ。こうした表現でしか言えないが、でもそれこそが鳴海の正直な気持ちだった。

「相棒……」

「だからこそ、そんな相棒をみんなに食べてもらいたいという気持ちが強くなるよ。伊藤閣下や青木様に食べてもらうのも楽しいけど、やっぱりみんなにだね」

「鳴海様はお店を持ちたいのですか」

「持ちたいけど、なんの力もないというね。ははっ……」

「……」

 ここで鳴海の為に何とか力添えになりたいという欲求に苺は駆られた。それは良介の思いとは違い恋が含まれている。だから苺は別の紙を取り出すと、その上へ筆を走らせる。

「どうにもならなかった場合、一から頑張るよ。そしていつかなんとかして自分の店を持つよ」

 それはあんまりなことだと思った。これだけの腕、そして語学力がある人が丁稚奉公から始めるなんておかしなことだと苺は思った。どこの時代でも修業時代は賃金も低く生活をしていけるかどうかの瀬戸際になるが、明治時代においての丁稚奉公は平成の修業時代から見ると過酷極まりないものだ。鳴海は良介の力を借りてもどうにもならなかった場合を想定した上での発言だったが、苺はそんな鳴海に否定的な言葉を言ってきた。

「鳴海様は現段階で、そんなレベルに居る人じゃないと思います」

「……でも」

「……頑張ってみましょう、どんなことでも。私も些細ながら力になりますので。父様も力になると仰っておられましたので、きっとなにか良いことがあります。絶対に。だから頑張りましょう」

 苺の言葉になんだか鳴海は力がわき上がったかのような感じがした。だから鳴海はガッツポーズを取りながらやや大きめの声でこう言った。

「頑張ってみるよ俺。どうなるかわからないけど、なんか力が出た」

「ふふっ、私も力が出たような感じがします」

 やや声が大きくなったところで瑠衣が姉様と言いながら起き上がってくる。丁度この辺りがいつもの会話の終了の合図だ。鳴海は、それじゃあ寝るねと言って静かに自分の寝室へ向かったようだ。

 足音を聞きながら苺は瑠衣を静かに寝かしつけると、机に戻り筆を執って続きを書き始めた。筆を走らせる音が室内に木霊する。

「青木様突然のお手紙を失礼します……」

 蝋燭に照らされる苺の表情は真剣そのものであった。苺は丁寧に、そしてゆっくりと日記を書き進めていくのであった。決して書き仕損じをしないように。

 こうして各人の夜が過ぎ去っていくのであった。


 時刻も深夜十時を回った頃、苺は紙に筆を走らせていた。時折筆に墨をつけ、書き進めていく。蝋燭から漏れる明かりが苺の顔を照らして、お人形さんを想像させるほどに綺麗な顔立ちを強調させていた。

「本日は鳴海様や村雨様と日本橋の市場に行って参りました。早朝なのに人が多く、驚きました。私どもの生活では考えられない光景でした。なぜ市場に行ったのか、それは今日は一大勝負が行われる日でもあり……」

 そこで苺は筆を止めて心配げな表情になり、こう呟いた。

「鳴海様、父様……お帰りが遅くて心配です……」

 そう今日は鳴海も良介もまだ帰っていない事態になっていた。なにが起こっているのか分からない苺はそれは心配だろう。瑠衣は隣で静かな寝息を立てて寝ており、苺は起こさないようにはぐれた布団を掛け直すのだった。

 

 そして、話の時系列は数日前まで巻き戻ることになる。 

 ギザールに話を通し、迎賓館ではなくコンドル作成の鹿鳴館で会食をすることになった。

 場所の指定は明治政府側が行った。でもその前に鳴海はやっておきたいことがあった。マーガレットから今朝手紙が来て、頭に笠を被っている郵便配達人の方が深々と頭を下げたことは記憶に新しい。現代の郵便配達人とは出で立ちが少し変わっていた。

 手紙の内容は、鳴海が伊藤の試験を何故かパスしたことを知ったマーガレットが、次のギザールの料理を作ることを知った旨の内容であった。内容は英語であったが、鳴海は読めるので内容を把握することができた。挨拶を省き、中を抜粋するとこんな内容であった。

『ギザールの料理を作ることになったことは聞いたわ。確かあのとき、イカのスープと言ったのは少し間違っていて、イカを含めたいろいろな魚介類と野菜を煮たスープだったかしら、南仏でよく食べられるものだそうよ。彼はそれを飲みたいと言ってたわ』

 イカを含めた色々な魚介類のスープを鳴海は考えた結果、多分あれしかないなと思った。村雨に頼み込み、政府が買っている鮮魚市場に足を運ぼうと決めたのは、その手紙を読んだ後のことだった。

 朝も早く、やっとカラスが鳴き始めた時間になっていた。今鳴海が来ているのは日本橋の鮮魚市場だった。朝早いから寝ていた方がいいと苺に言ったが、苺は凜とした表情を浮かべながら、

「どんなところか見てみたいです」

 と強く言い、言葉を譲らなかった。料理に興味があるのかなと考える鳴海は、既に朴念仁の境地まで達していたのは言うまでもないだろう。

 江戸情緒の残る町並みでは大きな声で取引が行われていた。大八車や、背中に荷物を背負った行商人なども多い。値札を見せたり、時には暗号めいた言葉を発しながら売買が成立していくのを見るのは新鮮みを感じるほどだった。

「鳴海様、一応英国がどんなものを総領事館に卸しているのか分からないのでちょっと知り合いに来て貰いました。そろそろくるはずですが」

 喧噪漂う場の中で村雨は鳴海へそんな言葉を言った。苺は物珍しそうに問屋に卸された鮮魚を見ている。離れないように鳴海は苺の手をしっかりと握っていた。

 暫くして二人の人物が現れた。一人は高身長でしっかり髪を固めている三つ揃えのスーツ姿の外国人であった。細身で理知的な顔立ちと言えばいいだろう。掛けている眼鏡をくいっと上に上げた。

「遅れました。すみません」

「いえいえ、今日は来てくださってありがとうございます。こちら鳴海様と小野田様です」

 英語で鳴海達を紹介する村雨、鳴海と苺は男性に深く頭を下げ、鳴海は英語で言葉を返した。

「鳴海と言います。それでこちらは小野田様の娘さんの苺さんといいます」

「あなたが鳴海様ですか。ご丁寧な挨拶ありがとうございます。私は英国総領事館翻訳官のアルバートと申します。それでこちらは仲買人のフューズと言います」

 やや動きやすい格好をしている無精髭を生やした筋骨隆々の男はそこで一礼する。

「あんたが鳴海か。マーガレットお嬢様や、ウルド様から聞いてるよ、俺は仲買人のフューズっていうんだよろしくな」

「俺のことをご存知なんですか?」

 アルバートとフューズの二人は首を縦に振った。そんな二人のことを村雨は説明する。

「以前、マーガレット様とウルド様が鳴海様のお料理を食べられた時に、お気に入られて、アルバートさんとフューズさんには鳴海様になにかあった時に力を添えるようにとのことを言われたそうです。閣下の料理の時に、材料調達や力添えになってくれたのがこの二人になります。何度か会談をしている内に交渉は抜きにしても翻訳官同士仲が良くなってしまいまして、まあ、だから鳴海様の情報を含め、色々情報は交換しているわけでして、ははっ……」

「まあ、我々が仲が良くなっても、上の者には関係がないという……まあそんなこんなで私が村雨にフューズを紹介しました」

 交渉とお友達になるというのは別の話だ。村雨とアルバートにはなにか通じるものがあったのだろう。

 そしてマーガレットやウルドの動きに感謝した鳴海は深く深く頭を下げた。ギザールに満足した料理を食べさせられるかもしれないと村雨はアルバートに伝えると彼は力添えになってくれた。その前に試験をパスしなければならないことも伝えると、親身に相談に乗ってくれたことが村雨にとっては嬉しかったことだ。

「だから、あんなに難しい材料を揃えられたのですか。本当にありがとうございます」

「なに、いいってことよ。鳴海。困ったときはお互い様だ」 

 なにを言っているのか分からないが、そこで鳴海に続いて苺も深く頭を下げた。アルバートはフューズのことをこう評価した。

「フューズはこの市場から英国総領事館に材料を問屋から落としている仲買人ですので。目利きは一流なんですよ。伊藤伯の時も最高の材料を用意できたでしょう?」

「俺は一流なんてもんじゃねえ、神だろ。なあ、鳴海、俺の材料は最高だったろう」

 フューズは、ややお調子者ということが分かったが、それでもフレンドリーになれそうなので鳴海は微笑みを浮かべた。

「とまあ、ここじゃねえんだ。いい物が揃っているのは」

 フューズは顎をくいっと上げてそう言うと鳴海達を誘導するように歩いて行く。鳴海は苺の手を握りながらこんな言葉を掛けた。

「ここには良い物は無いとのことですよ。苺さん」

「は、はい、私には良い物に見えるんですけどねえ」

 フューズは暫く歩き、鳴海達を市場の角の方へ連れて行った。フューズはある問屋の近くに行くと指さす。

「あそこだ」

 指さされた方を見やると、かなり大きめの問屋があった。一同は歩き、その問屋に着くと鳴海は材料を見始める。

「おお、新鮮でいいものがたくさんあるじゃないか」

「だろ」

「家は新鮮を掲げてるんでね。で何が欲しんだい。あんちゃん」

 着物を着た店主がそういいながら言葉を挟んできた。台の上に置かれた鮮魚を見ながら鳴海は直ぐに決めた。

「この海老と、ホタテ、あさり、イカ、牡蠣、鯛、タラ、穴子、ひらめが二欲しいです」

「個数は……」

 暫く鳴海と店主の話し合いが続く。話が一段落終えると苺は大きな溜息を吐いた。

「凄く買うんですね鳴海様。ほえー」

 鳴海の素早い目利きと大量の買い物に店主や苺のみならず村雨もアルバートも、そしてフューズも一様に驚いていた。

「そ、そんなにいるんですか? 鳴海様」

「これは凄いですね、村雨」

 鳴海の注文の量に驚く一同。フューズは鳴海へ聞いてきた。

「いやー、こんなにいるのか?」

 フューズの疑問口調に鳴海は頷いた。どうしてもいるのだ。あれを完成させる為には。鳴海は村雨の方へ向き直って更に頼む。

「野菜や肉の類いなんですが、今から言う物を集めてください」

 何カ所も回れないので、鳴海は残りは村雨に頼むことにした。鳴海は村雨に向かって必要な材料を伝えていく。

「なるほど、野菜は神田とかで、肉は築地とかだから……分かりました。なんとか早く手配できるようにします」

「お願いします」

「香草の類いは俺が用意してもいいぞ」

 日本人と交渉をしているフューズは日本語が堪能なようだった。鳴海は深くフューズに頭を下げて、頼むことにした。

「どういう物が欲しいんだい? ところで」

「実は……」

 更に材料を告げていく鳴海。それを聞いてなんとかなるだろうとフューズは言葉を零した。

「まあ、なんですか、鮮魚なら家を覚えておいてくださいよー」

 材料の搬入場所を聞いた後に、小太りの店主はにこにと笑いながら鳴海へ言葉を掛けてきた。

「はい、今後ともよろしくお願いします」

「うんうん、なかなかいいあんちゃんだ」

 店主はそう言うと搬入準備をする為に、店の奥に消えていった。店主が去ったのを見ると、アルバートは眼鏡を上に上げながら鳴海へこんな言葉を言った。

「昔はギザール様も優しかったのですが、今では英国総領事館の中でも気難しい人になってしまわれて」

「……」

 ギザールのことをよく知らない鳴海は聞き手に回った。そんな鳴海へアルバートは寂しい表情を浮かべる。

「多分、あのことが影響していると思うのですが」

「あのこと?」

 鳴海はアルバートへ聞き返すと、アルバートは首を左右に振りながらこう言ってきた。

「プライバシーに関わることなので、全てを語ることは出来ませんが、でもスープが飲みたいとばかり言っておられます。南仏のプロヴァンスのあのスープをとばかり、誰が作ってもだめなんですよ……」

 苺の手をしっかり握りながら鳴海は黙って聞く。アルバートは更に言葉を続けた。

「スープを飲めばなにかが変わるんでしょうか? 私には分かりませんが、これがきっかけで昔のギザール様に戻っていただけると嬉しいのですが」

 自分の料理で解決できるとは言えなかった。確率的に成功確率は五十パーセントにも満たない。ただなんとなく食べたいものは分かってきたので、勝算が全くない訳ではなかった。

「鳴海様?」

「苺君、なんとかするから」

 今回のことは伊藤のみならず青木、良介、村雨、そして砕け散った料理人達の想いがこもっている。それを決して無碍にはできないので、鳴海は可愛い苺へそうした言葉を向けた。

「はい」

 鳴海の決意がこもった瞳を見て苺は深く深く、鳴海の手を握り返してくる。そんな二人を見てアルバートはこんな言葉を掛けてきた。

「お二人は恋人同士なんですか?」

「え?、そそそそそ、そんなことありません」

「?」

 英語が分からない苺は首を傾げたが、鳴海の狼狽ぶりは半端なものではなかった。そんな鳴海を見て、フューズはこんな言葉を掛けてきた。それも日本語で。

「お嬢ちゃんのことを大事にしなよー、女心は秋の空っていうしなー」

「は、はい」

 態と日本語でそう言うフューズ。その顔には笑みが浮かんでいる。そこでどんな会話がされていたかを察した苺は頬を朱色に染めながら、鳴海の手を強く握り返しながらこんな言葉を零した。

「秋の空にはなりませんから」

 そんな苺の言葉を聞いて、フューズは笑いながらアルバートへ言葉を伝えると、アルバートは柔和に微笑むのだった。

 こうして市場での買い物が終わり、ギザールとの決戦の場である鹿鳴館へと場所が変わるのであった。

 家から暫く歩き、銀座煉瓦街に出てから馬車に乗り換えた鳴海。暫く馬車に乗り、明治情緒漂う馬の蹄の音を聞いている間に馬車は鹿鳴館へ着いた。馬の嘶きが聞こえ、御者が馬車の扉を開けた。鳴海は馬車から降りると、目の前には柵で覆われた巨大な建造物があった。

 その建造物の名は鹿鳴館であった。コンドル作成の芸術的な建物だ。天井以外は白砂のような壁の色。まるで宮殿のような様相を呈している。バロック様式を手本にしているのかなと鳴海は思ったりしているが、違うのかもしれない。

 門は旧態依然を醸し出す和風の門になっており、そこから一歩歩けば、広い庭になる。豪華といえばいいのか、よく手入れされた木々や池、庭石を基調とした床。そんな鹿鳴館の庭に足を踏み入れた鳴海は感激をした。

「おおっ……これが鹿鳴館。素晴らしい……」

「明治が誇る建築物なので、やっぱり久しぶりにきても荘厳ですな」

 鳴海一人では入れないので、隣には良介が付き添いで来ていた。江戸から明治に変わってまだ二十年しか経っていないので、やはり良介にとっても鹿鳴館は権威ある建物に見えるらしい。

 暫く歩き、左右の吹き抜けの廊下の中央に鎮座する豪華な扉を開けると、中を見ることができた。紫を基調とした絨毯に、褐色の木造を主体とした階段や骨組みが窺えた。

「おおっ……扉とかは褐色で、壁とかは純白なんだな」

 資料などで見たことはあるが、やっぱり実際来ると、空気のような物が違った。重厚な空気が鳴海の気力を満たしていく。

 鹿鳴館の一階を暫く歩くと、厨房へと到着する。棚があり、そこに内履きや外履きを入れるらしい。

「まさか……ここに来たときはこんなところに来れるとは思ってもいなかったな……」

「ん?」

 感慨深く、最初に良介の家で目覚めた時を思い出す。あの時はもう人生が終わったと思ったとき、今はこうして料理が作れる時が嬉しい。あの時の自分はこうも環境が変わるとは想像もして見なかった。

 そんな鳴海の様子を良介は不思議そうに見やる。鳴海は厨房の扉を開けながら、苺の見送りの言葉を思い出す。

「鳴海様、決してご無理などはなされないように。いつもの鳴海様の柔らかさで居てください。どんな風になっても、私も父様も何も思いません。だから、無理だけはしないで」

 鹿鳴館で料理を作る、つまりはそれだけの相手が来るということだ。だから苺は自分のことのように心配していた。優しい小野田家の家族たちを思い出し、鳴海は手をぐっと握ると、

「だからこそ、負けられない」

 と言いながら、気合を入れる為に拳を作って強く握る。そんな鳴海の背に頼もしさを感じる良介がいた。会談は夜、今は午前十時ぐらいであり、時間はたっぷりとあった。

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