第39話 手の記憶

展示会から戻った夜、桜月庵の厨房は静けさに包まれていた。

大女将・椿も若女将・梢も奥に下がり、佐々木も塔子も帰宅している。

広い調理場には、美咲と──手のひらに収められた小さな木型だけが残っていた。


美咲は深呼吸し、道具を整える。

藤崎から返された木型は、指先に馴染むような温もりを宿している。

「……お母さんも、これを握って……」

思わず呟いた声が、静かな室内に溶けた。


桜の花びらの塩漬けを刻み、白餡に練り込む。

練乳を少量混ぜると、ふわりとした甘さが立ち上がる。

餡を包む生地を手早く丸め──木型を押し当てる。


「……っ」

掌に伝わる木の感触。その瞬間、美咲の頭の奥で光がはじけるように記憶の断片がよみがえった。


小さな自分が、母の横で木型を押している。

「上手よ、美咲。力を入れすぎないで……指先で、桜を包むようにね」

春香の柔らかな声。

見上げれば、母の笑顔。陽の光に縁取られた横顔。


「……お母さん」

美咲の目から涙がこぼれた。


だが手は止まらない。次々と生地を型に押し込み、桜薫が並んでいく。

それはまるで、失われた記憶を一つ一つ取り戻す儀式のようだった。


背後から静かな声がした。

「やっぱり……春香に似ているわね」


振り返ると、大女将・椿が立っていた。

その目には、厳しさと同時に深い優しさが宿っている。


「その木型は、春香が愛してやまなかったもの。……あなたが握っているのを見ると、時が巡ってきたのだと感じるの」


美咲は涙を拭き、震える声で答えた。

「私は……母のように、なれるでしょうか」


椿はゆっくりと歩み寄り、美咲の肩に手を置いた。

「なる必要はないわ。あなたは、佐藤美咲。……でも、春香の心を継ぐ者でもある」


温かな重みが肩に広がり、美咲は静かにうなずいた。

木型に刻まれた桜の文様は、確かに彼女の中の何かを呼び覚ましつつあった。

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