#第6話 壊れないもの -名もなき子に光を-

#第6話 壊れないもの -名もなき子に光を-

 

夕方。

窓の外は、まだ灰色の空が広がっていた。

アレックスは簡単な夕食を用意して、テーブルに皿を並べる。

 

しばらくして、少女が足音もなくリビングへやってきた。

黒いタイトな長袖シャツに、チャコールグレーのショートパンツ。

薄手のダークジャケットを肩にかけ、足元は無駄のない白いスニーカー。

むき出しの脚には細かな傷痕、足首には消え残ったアザ。

 

アレックスはその姿に目を止め、

ほんの一瞬、声に詰まってから気恥ずかしそうにつぶやく。

 

「……お、ちゃんと着てくれたんだな。

そっちの方が動きやすいだろ? あー、なんだ、派手すぎたり変じゃなかったか?」

 

少女はアレックスに一瞥をくれる。

その瞳に感情はほとんど浮かばない。

けれど、袖の先を指で軽く摘まみ、ジャケットを直すようにそっと身じろぎする。

 

アレックスはそれに気づき、

「……ま、悪くないってことにしとくか」

と、肩の力を抜いて微笑んだ。

 

少女は何も言わず椅子に座り、

まっすぐ前を向いたまま、しばらく皿から目を離さない。

 

テーブルの上には、温かいパンと具だくさんのスープ、

それから茹で卵とシンプルなサラダが並んでいた。

 

少女は怪訝そうな顔でパンをつまみ、

スープの匂いを鼻先でかすかに嗅ぐ。

“本当に食べ物なのか”とでも思っているかのような、慎重な仕草だった。

 

アレックスはその様子に肩をすくめる。

 

「毒なんて入ってないから安心しろよ。……俺はそういう趣味じゃない」

 

少女はちらりとアレックスを見やるが、やはり無言のまま。

しばらくは意地を張るように皿には手を付けず、

ただ目を落とし続けていた。

 

やがて空腹には勝てなかったのか、

少女はパンにそっと指を伸ばす。

 

その手つきはぎこちなく、

パンを千切る指先もどこか覚束ない。

ときおり手づかみになりかけたり、

スープをこぼしそうになったりしながら、それでも食べ続けた。

 

皿が静かにテーブルを鳴らし、

椅子のきしむ音が一瞬だけ部屋の静寂を揺らす。

 

アレックスは思わず小さな声で言う。

 

「おいおい、もうちょっと落ち着いて食え。……誰も取ったりしないさ」

 

少女は一瞬だけアレックスを見上げるが、

また黙々と食事に戻る。

 

やがて皿が空になり、食卓の上にわずかな沈黙が落ちる。

 

アレックスはふと、懐かしそうに話し始める。

 

「うちの息子も、お前と同じくらいの年だった。やんちゃでな、食卓を散らかして……

娘は、焼きたてのパンが大好きで、毎朝せがまれてた。……今なら、お前と同じくらいの歳かもしれない」

 

アレックスは、過去を見つめるように続けた。

 

「二人とも……あの“カルディナ一家”に……」

 

その言葉に、少女の身体が一瞬ぴたりとこわばる。

アレックスはその小さな変化を見逃さなかった。

 

――世界がねじ曲がる。

 

鉄の匂い、薬品の刺激臭が鼻の奥を焼く。

冷たい床の感触、手足の先にまとわりつく鈍い痛み。

闇のなかで、自分の指を噛みしめた痕――苦い血の味だけが、唯一“生きている”証だった。

 

白いタイルに跳ねる血。

鉄格子越しに響く子どもたちの泣き声と、怒号と、乾いた銃声。

 

「動くな――!」

 

ゴム手袋の男たちに無理やり押さえつけられ、

腕に何本もの注射針が突き刺さる。

骨が砕ける音、首を絞められた小さな少女の嗚咽。

体中に電流が流された少年の断末魔。

“カルディナ”と名乗る男の冷たい声。

 

「被検体47番は、なかなか優秀だ。どんなに痛めつけても、すぐに修復する。

生き残り続けるってのは、いい商品ってことだ。

――なあ、実験体ども。お前らの価値は壊れないことだけだ。何度死んでも、“記録”にはならないからな」

 

隣のケージでは、目の焦点の合わない少年が静かに横たわり、

少女の足元には、踏みつけられた小動物の亡骸。

 

痛みも、叫びも、声にならず、

すべての色が黒い闇に沈んでいく。

 

――気がつくと、テーブルの前に戻っていた。

 

アレックスの声が遠くから聞こえる。

 

「どうした?大丈夫か?」

 

少女は答えず、俯いたまま小さく震えている。

 

しばらく沈黙が流れる。

 

やがてアレックスは、ふと思い出したように声をかける。

 

「そういえば、名前なんて言うのか聞いてなかったな。何て呼べばいい?」

 

少女はそっと顔を上げるが、何も言わない。

 

「ルナティック・ラビット……L……R……そうだなぁ」

 

アレックスはしばらく考えたあと、

静かに、まるで祝福するように言った。

 

「……じゃあ、今日から“ルーシア・レイン”だ。

気に入らなきゃ変えてもいい。

――でも、名前があれば、きっと、何かが変わるさ」

 

ウサギ――いや、ルーシアは、小さく頷いた。

 

ルーシアは胸の奥に、名前の響きがじんわりと沈んでいくのを感じた。

口の中で、まだ言葉にならないまま、自分だけの“音”を転がす。

その新しい音が、ほんの少しだけ、暗闇の中で温かく光った気がした。

 

初めて、名前を持った。

 

胸の奥の闇はまだ消えない。

けれど、その片隅に、かすかな“光”の種が生まれたような気がした。

(つづく)

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